エピソード1

 

 部屋の窓から正面に見えるホテルの看板が、煌々と光っている。部屋の中では最近買ったワイヤレススピーカーからハロプロの楽曲メドレーが流れている。YouTubeにあがっているやつで、再生時間は2時間ジャストだ。

 

 始まる前にはとうてい予期しない形で春休みが延長し、僕は自宅に閉じ込められている。特に何もしなかったけど、十年後とかにふと振り返るとかけがえのないものに思えたりする、というコンセプトで春休みを過ごし、本当に何もしなかったのだけど、それがまさか大文字の歴史に刻まれるような春休みになってしまうなんて。

 新型ウイルスのパンデミック。二週間前に都が「不要不急」の外出の「自粛要請」を発して以来、わりと律儀に過ごしている。コンビニに行くときなどには人通りの多さに呆れてしまう。普段はパーソナルスペースなど意識しないが、少なくとも今は自分の半径2メートルには入ってきてほしくない。

 

 こう基本的には部屋に閉じこもった生活をしていると、浪人していた頃を思い出す。つい浪人時代と口走りそうになったけど、時代と呼べるほどにその頃がいまだに僕にとって大きな意味をもっているという証拠だ。

  第一志望の大学に不合格通知を喰らい、私立に行くのはやはり癪だったので暗澹たる気持ちで予備校の門を叩いた。説明会には同じ高校の奴等がたくさん来ていて、互いの傷を舐めあっていた。英語の採点が思ったより厳しかったなどと、己の学力不足を何らかの不運にすりかえて語り、この期に及んでも自分を強く見せようとしていた。

 僕は予備校と家が近かったこともあり、三月のうちから予備校の自習室に通う羽目になった。正直、何のモチベーションも湧かないし、何のために監獄のような部屋へ向かっていくのかわからなかった。

 この時期くらい遊んで憂さを晴らせばいいのに通ってくる生徒はぽつぽつといて、まばらに座る僕たちは勉強のためというより、暇を持て余してしかたなくといった感じで参考書を開いていた。

 

 宿命だと思って部屋にいることにしてみると、案外気は塞がなくてびっくりする。たまっていた本や映画を消化するチャンスだと思う。しかし、やっぱり重い何かがのしかかっているのかもしれない。本はなかなか読み進められずにフラストレーションがたまってしまう。ちょっと考えてみて、一年で一番好きな季節を奪われたことに失望する。

 とうぜん誰かと顔を合わせることもないので、言葉がどんどん口の中にたまってきてワーッと叫びたくなる。ただ叫ぶことに意味はないので叫ぶことはしない。意味のあることはしないけれど、無意味なこともしないのが僕のスタイルだと居直ってみたくなる。

 浪人の頃は実家暮らしだったので、絶望のなかでも毎日家族と話す場面はあった。たいてい僕は希望、みたいなとりとめのないことを語っていたような気がする。それか父親とプロ野球の話。

 今は一人暮らしをしているから、本当にまるっきり、会話がない。代わりに、普段は気分で返したり無視したりする母親からのラインに、こまめに返事を送ったりしている。

 母親は保育園でパートをしているのだが、家庭保育をお願いしているのに0歳児を連れてくるなんてわけがわからんと憤っていた。多分それは勤務先の福利厚生やらのせいで、つまりは社会のせいだよ、と言っておいたけど、何のために僕はそれを言ったのか判然としない。

 

 読んでいた思想書の一章分を想定の倍以上の時間をかけて読み終え、読みかけの小説へ移行する。冷蔵庫から竹輪のパックを取り出し、小説に目を落としながらそのまま食べる。ハムで竹輪を包んで食べたらどうだろうと思って合わせて買ったのだが、同時に消費してしまうほどの贅沢が許される腹の減り具合ではないと判断し、竹輪単体にした。しかし、3ページも進まないうちに食べきってしまった。僕はなんでも一気に済ませないと気がすまないところがある、のかもしれない。

 小説が佳境に入りかけたところで、読書をストップした。展開的に佳境といえるか正直わからなかったが、本は残りページ数が多少の指標になってしまう。動画サービスで見る映画も残り時間が気になってしまうから、やはり映画は映画館で観たいと思う。その映画館は政府の緊急事態宣言によって閉ざされてしまうだろう。

 

 ずっと流れていたハロプロメドレーも最後の曲が終わり、これを12回繰り返せば一日が終わるのだと思った。長いとも短いとも思わなかった。向かいのホテルの光はもう消えていた。辺りが明るくなり、今日も空は晴れていた。

 

 

 

 

憂鬱の散髪 Part2

自分が眠っているのか起きているのかわからない微

睡み状態のなか、時折きつくしまった宝箱をこじ開

けるようにはっと瞼を開いては枕元のスマホで時刻

を確認し、瞬時に到着までの時間を計算することを

繰り返し、少しでも多く眠ろうともがいていた。こ

のままブッチしてしまおうかとも思った。眠かった

からというよりは、髪を切るのが憂鬱だった。自分

で予約を入れておきながら不合理だが、ジェンダー

レスを志向して若干伸ばしている髪を切り落とすの

は惜しい気がしたし、前回に続いて二度目の店で前

と同じ感じにしてくださいと言うだけで通じるかと

いう不安があった。それでも前と同じイメージの画

像を見せるのは脳がないので嫌だったから、ほとん

ど世間話もすることなく淡々と施術を終えたにもか

かわらず、プロフェッショナルなら二カ月前の仕事の

詳細まで実は覚えていたりするのだろうかと半ば試

すような気持ちで、着の身着のままで美容院へと特

攻した。案の定というか僕の説明は伝わらなかった

ため、担当のスタイリストに当惑の表情を浮かべさ

せる結果となった。ここのサイトに載っているやつ

なんですが、と誰に向けてかわからない断りを入れ

てから前と同じ画像を見せ、きまりが悪い思いをし

た。一番悪い想定をしておくとだいたいいつもその

通りになるのはどうしてだろう。ともかく無意味な

自意識に寄り掛かる必要はなかった。それでも僕が

どういう客だったか思い出してくれたみたいで、安

心と同時に嬉しさがあった。後ろのカット中は全国

のこじゃれた喫茶店を紹介しているムックに目を落

としていたが、前髪とかを切っているときはどこを

向いていればいいのかいつもわからない。サービス

で提供してくれるアイスコーヒーにも手を伸ばせな

い。鏡越しにスタイリストの目を見つめてしまいそ

うになるが、相手からしたらいい迷惑だろう。自分

の顔は毎日見ている。ここの鏡はわりかし調子がい

い。ポイントパーマをあてたのでしばらく待つこと

になり、目の前に置かれていたさっきのムックとも

う一冊が他の雑誌と入れ替えられた。僕がジェンダ

ーレスを志向していることを察知してなのか、メン

ズノンノは向こうに追いやられ、POPEYEと東京カ

レンダーが運ばれてきた。実をいうと、こないだ初

めて読んだPOPEYEがまた読めるのを少し楽しみに

していた。髪を切るでもしないと一生読むこともな

いし、終始半笑いを繕ってCITY BOYとやらの欺瞞に

満ちたLIFE STYLEを偵察するのは陰キャには楽しい

遊戯だった。彼らへの密やかな憧憬と羨望に目を細

めつつ、欺瞞をあざ笑うかのように振舞う自分自身

が何よりも欺瞞に満ちた存在であることには気がつ

きつつも。東カレはまったくもって意味不明だっ

た。どうして僕の前に運ばれてきたのだろう。ただ

そこにあったからと解釈するのが筋なのだろうが、

何にでも意味や理由を見出したがる宿命にある自分

は頭を悩ませた。自分は何者だと思われているのだ

ろうか? この雑誌は大学生が読むようなものなの

か? 童顔ながらも年齢的には社会人に相当する

し、そう判断されたのだろうか? それにしても多

少の小金持ちでないと読まないのではないか? 貧

民に豪奢な世界を見せつけようとしているのか? 

東京カレンダーという雑誌を知ったのは東大がきっ

かけだった。東大の中でもイケイケ系の人々が、自

称東大美女をモデルにこの雑誌のパロディを作成し

ていて、それがツイッターで回ってきた。端的に、

率直に、僕は反吐が出そうになった。正直、同じ大

学にイケイケ系の人々が在籍していることは不可解

だ。そんなにすくすくと育って、おまけに学力も高

いというのは、勉強しか取り柄がなく故に屈折した

僕にとっては断じて許すことができない。そしてか

くも軽率な自己顕示に興ずるとは。厳しいな、とい

う思いだけがすると同時に、僕の露悪的な性分も僕

以外の人にとっては厳しいな、という感じなんだろ

うと思う。ここでも資本主義の歪みをあざ笑う意図

をもって(もった振りをして)、覚悟を決めてペー

ジを開くと、ちょっと資本主義に屈してしまいそう

になった。ミイラ取りがミイラになる。所与の地頭

と学歴をフル活用して商社あたりに就職し、資本主

義の犬になるのも悪くない、むしろ望んでしまいそ

うになる。トルストイ三浦綾子の小説に感銘を受

けていたはたちの自分は、すっかり堕してしまっ

た。悲運を嘆いた。汚れつちまつた悲しみに……と

はこういうやつか。しかし今田耕司が載っているの

に爆笑していたらそんなことは忘れた。髪を洗い流

すとき、軽く、いや結構しっかりめに頭皮のマッサ

ージをされて、「めっちゃ凝ってますね」と言われ

たのだけど、僕の凝り固まった頭脳を見抜くとはな

んたる慧眼、うおぅと思ったし(馬鹿みたいに思う

振りをした)、さっき切ってもらっている間も「美

容師界」のことを考えたりしていて、人間はなんら

かの世界に自らを定位することでしかやっていけん

のだがそれを主体的にできるのは羨ましいなと、つ

ねづねインテリの世界に耐えられなくなりかけの自

分は無邪気にも思った。もっと違う世界を生きたっ

ていいはずなのに、自分は。この文章はここで息絶

えている。

 

 

 

(追記)会計の時に預けていたコートを渡される際、「かわいいですね」と褒められて舞い上がりました。陰キャはもっとラフに人を褒められるようにならねばならん。

 

 

てーほへてほへ

 旅の狂騒から一夜明け、昼過ぎに目覚め本屋に寄ってマックで食事し、塾でのバイトを終えてニュースウォッチ9を観ながら晩飯を食べるという、旅以前と同じ生活をこなし、ベッドに寝転がってスマホと本を行ったり来たりしながら心置きなく音楽を聴く。

 望んでいる気ままな生活なはずなのに、どこか一向に満たされない空白が確かに存在する。そのような空白について思索をめぐらして、どうせいつかは眠くなるしどうせいつかは死ぬのだからということで、結局は思いつめることもなくまた明日同じ生活をする。

 ここ二年くらい、僕の時間は円環的な様相を呈しているが──このような文章を書くのはいったい何度目のことだろう?──つまらないこともない。むしろ随分と楽しんでいるほうだ。

 

 ひとえに自分の脳によるところが大きい。僕の脳は僕にとって大変素敵だ。君の脳が君にとって素敵なのと同様に。

 僕の脳のシナプスは意味がわからない接続のしかたをしていると思う。シナプスが何を指すのかは明瞭に認識していないけど、僕が考える分には不都合ないほどに他の言葉との境界をわきまえている。

 僕の脳をひらいて見せてあげることはできないけど、脳がおもしろくない限りは人生がおもしろくならない。一向に卒業する気配を見せない僕に対し、お前は日々何をしているのかと父親が詰めてきたとしたら、僕は胸を張って澄ました声で、脳をおもしろくしております、と答えるだろう。

 

 これ以上の脳の話はモギケンに一任することにするが、さきほどBase Ball Bearのある曲──「テーーレレテレレー」というギターのフレーズが冒頭から蝉時雨のように繰り返される『PERFECT BLUE』という曲──を聴いていたら、その部分が「てーほへてほへ」と言っているように聞こえてきて、自分のシナプスの複雑怪奇さに思わず騏一郎ばりに驚いてしまった。

 「てーほへてほへ」とは、おそらくある絵本の題名だ。僕の幼少期の記憶が確かなら間違いはない。幼き僕がひらくこともなく放置した、可哀想な本。

 

 ある程度余裕のある家庭ならどこもそうであるように、僕の家でも母親が毎晩、寝る前に読み聞かせをしてくれていた。クレヨンクラブという絵本や児童書を月ごとに定期配送してくれるサービスも利用していて、小さい僕が読んでもらう本は潤沢にあったと思う。

 母親のチョイスで買ってくるものや譲り受けたものも合わせると、寝る前の少しの時間を毎日使っても、まだ読んでいない本はなかなか減らなかった。そのうちタイトルだけは覚えるようになってきて、「大どろぼうホッツェンプロッツ」みたいな難しいものまで、無駄に言えるようになっていた。

 毎回どのように本を選んでいたかはわかりかねるけど、表紙の絵の感じ(動物がいるかどうかはかなり重要)とか分量とか、子の都合と親の都合をうまく重ねて見繕っていたのだと思う。

 てーほへてほへは、選ばれなかった側の本だ。読み聞かせの年齢を超えて──2歳下に妹がいるのでしばらくの間は続いたような気がするが──、自力で活字をむさぼるようになっても、てーほへてほへは選ばれなかった。いや、僕が選ばなかった。

 

 もちろん絵本より文章メインの本を読むようになったのもあるが、定期的に本棚を見ては思い出したように絵本をめくっていたことも小学生のうちはあったし、読むチャンスくらいあったのだ。てーほへてほへを。

 しかし今も僕はてーほへてほへの内容を知らないように、僕に選ばれることはなかった。覚えているのは一度か二度ちらっと見ただけの、なにやら賑やかそうな表紙の絵と、背表紙の七文字だけ(いや、むしろよく覚えているほうではないか)。

 これだけキャッチーな題名なのに読まれなかったのは不思議だが、当時の僕にはねるねるねるねで十分だったのだろう。キャラが被ってしまっていたのだ。

 

 そのテーーレレテレレーを聴いていて思い出したのは、てーほへてほへの文字列だけではない。そんなに僕の脳がつまらないはずがない。僕のシナプスを舐めちゃいけない。

 思い出したのは、後ろめたさや申し訳なさだった。小学生の感受性は鋭かったのだと思う。僕は恣意的に本を読まなかったことに対して罪悪感を感じていた。恣意的というのも変だけど、読もうとすれば読めたものを読まないというのは、何か大問題であるような気がしていた。すぐそこにある助かるはずの命的なサムシング。

 図書館の本を全部読む奴はいないだろうが、家庭の本棚となれば別の話だと思っていた。親が買い与えてくれたわけであるし、埃をかぶらせてしまうのはやはり申し訳なかった。加えててーほへてほへにも顔向けできなかった。

 

 本当に申し訳ないと思っている。昔から物には心があると思っていたから八つ当たりしたことは一度もないし、今も物は大事にしようと心がけている。それでも積読はしてしまうが。本の本懐とは読まれることなのだろうか。

 それはわからないし、何より本に心があるなら感じ方も本それぞれだろうから深入りするのは避けるが、正直、てーほへてほへはきっと面白くないと思っていたような気がする。食わず嫌いだけでなく、読まず嫌いというものも昔からやっていた。だから申し訳ない。

 

 かっこいいギターの音が鳴るたび、てーほへてほへの生霊が襲いかかってくる気がする。てーーほへてほへ、てーーほへてほへ、てーーほへてほへ……。てーほへてほへは、今もどこかで読まれるのを待っているのだろうか。咽び泣いたりしているのだろうか。

 

 僕がいなくなってから自宅を片付けるときに、大半の本は別の行先を見つけていった。てーほへてほへも、もう僕の部屋にはいなくなっていると思う。

 それでも、どこかで。あの頃僕が選ばなかったあいつではないけど、てーほへてほへに邂逅したときにはちゃんと読みたいと思う。本にも同胞意識があるのなら、向こうからお断りかもしれないけれど、そこはまあ、てーほへてほへ、てーほへてほへ……て◯◯へ◯◯へって笑えば、きっと許してくれると思う。 

 

 

 

やしん

 深夜になんとなくフェイスブックを見ていたら、友人の何気ない投稿がわりと衝撃的な内容のことを言っていた。

 「明日レディクレ出ます」

 邦ロック好き、特に関西の人間にならその衝撃がよく伝わると思うけど、『RADIO CRAZY』という年末のロックフェス。寒い季節なので当然屋内型で、一般人が想像するようなザ・フェスとどれほど近いのか知らんが、様々なステージで同時に有名ミュージシャンが入れ代わり立ち代わりライブする、という形式は同じ。そのタイムテーブルには、たしかに彼らのバンドの名前がある。

 彼らが立つのはメインステージではないが、いわゆるネクストブレイク的な枠のステージ。調べてみたら数年前の未確認フェスティバル──ネットのニュースでは音楽の甲子園なんて称されている──でグランプリに選ばれて、百万円の賞金を獲得していた。五人で割ったら一人二十万、とかつい計算してしまうけど、彼のインスタを見たら二年前にクルマを買っていた。財源は不明である。

 すぐにYouTubeで曲を聴いてみたら再生回数が一番多いやつにまんまとハマって、他の曲では自分の地元──すなわち彼の地元──の公園でMVのロケをやってて、誰に自慢するわけでもなく「俺あの公園であいつと遊んだことあんだよ」って言ってみて、小学生なんて自他の境界も他者の区別もそんなにない(そんなこともない)から普通なんだけど、そういえば玉の井公園で総勢30人ぐらい集って野球した日もあったよな、あれは何だったんだろう──野球という競技を超えて──などという回想に耽って、繰り返し彼らの曲を聴いた。もう朝と呼んで差し支えない時間帯になっていたから母親に動画のリンクを送ったら、母親も地元の風景にさすがに気づいたらしかった。彼がいるんだよと教えると、たしか妹と弟がいるよねと情報を加えてくれたけど、ソースは不明である。

 

 それにしても感動した、いや感激した、感激したなあ! あの公園、引っ越してきた暁には近所にわりと本格的な遊具のある公園があって喜んだあの公園、あの公園がミュージックビデオに出てくるとはねえ! 感動したよ、感動と感激ってどう使い分けるのかあんまりわからんけど──だって普段生きてても稀有だもん──感激した! でもそれだけじゃない、その感○だけじゃない、そう手放しに感○できない自分もいたのだよ。学校ならびに塾でも机を並べた彼が、中学のときにメールでBUMPの話をした彼が、人気バンドのスターダムへと着実に駆け上がり始めているとはねえ! すごいねえ! と同時に、彼が作詞作曲やボーカルを務めているわけではないと知って少し安心しちまったんだよ……。別にそれ以外の役割のメンバー蔑視じゃない、決してそういうつもりはないんだけど、どどどどど。そういう「創作」の才があって、かつ評価もされているのが彼だったとしたら、きっと嫉妬してたと思うわけ。まあこの葛藤を経験したのは彼らの曲を聴く前で、聴いてみたらほんとうにいい曲で素直に心を掴まれてしまって、超越的な存在に対する崇高みたいな感じってこれかあと思ったわけなんやけど。

 

 同世代、まあ特に同年齢の人間の活躍が目立ち始めるのは、精神衛生上あまりよろしくない。今に始まったことではないけど、置いてけぼりにされるという感覚、水をあけられるという屈辱、その他もろもろの感情が集合して憂鬱になってしまう。たとえば今年の文藝賞はW20代受賞を喧伝しているけど、何らかの賞の発表があったり本を読んだりするといつも書き手の当時の年齢を気にしてしまう。そして、自分に何か「言える」日なんて来るのかなあ、と漫然と思う。

 一方で、最近読んだ時間についての本では著者が高校と大学の間に三年間の空白があったと述べており、それでも立派に研究者をやれてるわけだから俺もわからんよなあと勇気をもらったり、順風満帆なキャリアを歩んできたと思っていた人が実は留年経験者(修士だけど)と知って安心したりもする。

 自分は人生を無駄にした。バンドマンの彼であれば、動画のコメント欄によればメンバーは同じ高校らしいから、結成から早8年──僕は浪人、留年してる間に年を食っちまった──であるし、その歳月を考えると日の目を見るのはなんら時期尚早でなくむしろ妥当、頑張りの証であると思えるし、彼らには野心というものがあるのだろうかと考える。

 

 「きみには野心が足りない」

初夏に川上未映子の──彼女が純粋悲性批判を書き出したのは27歳のとき──新刊を読んでいて、この章題にめぐりあってはっとした。ぼくには野心が足りない。僕に欠如する最たるものはきっと野心としか呼びようのない、そんなものだと思うことにした。能力でなく。

 野心といったら『赤と黒』のジュリアン・ソレル、あるいは『"赤"紙』という曲で「病的なほど強い野心」を父親から受け継いだと歌っている"黒"木渚を連想する。ちなみに僕のパーソナルカラーは青と黄色だ。

 根拠は不明である。

 

 


YAJICO GIRL - いえろう[Official Music Video]

 

 

 

 

 

虫ケ・セラ・セラ

 自分は虫けらのように死んでいくしかないのか、と思うことがある。大抵それは夜更かしをしている時だ。この観念にとりつかれて夜を更かすのか、夜を更かすからこそ悲観が襲うのか、まるでわからない。せめて煙草でも吹かしてみた方が、人生経験としては有意義かもしれないと思ったりもする。だけど、自分の生活にはコマンドがほんの数種類しかない。眠る、食べる、本を読む、音楽を聴く、そして自涜。五指で足りるほどで、実際に煙草を試してみることは未来永劫、きっとない。われながらつまらん人間であることよ。

 虫けらという言葉を使ってみたが、これもべつになんだっていい。象でも、麒麟でも、ゴキブリでも、百獣の王でも。みみずだっておけらだってあめんぼだって、人間だってかまわない(人間だもの)。生まれ、死ぬという全二楽章の狂詩曲を奏でるものであれば、すべて同じことだ。俺は生きてんのか、生かされてんのか、という問いがベーキングパウダーのようにはたらいて、脳が破裂しそうな時期があった。膨張死というのも悪くはないが、今もそこに関しては疑い続けている。なんなら卒論を書きたいと思っている。アタマお花畑であることよ。

 

 それで思い出したけど、中学生のころ、学校ではキチガイという言葉が流行していた。ガイジやアスペの台頭はもう少し先だった気がする。「アタマ」「虫」という謎の言いまわしにいたるまで、われらの語彙体系は広がりを見せていた。(「アタマの大盛」という商品が売り出されたときには魂消た。)虫けらのイメージはこの頃の経験に根差しているのかもしれない。ところで、大学に入ってマイノリティに関する授業を受けていた時、ある女学生が「特に男子校出身の人たちが、アスペとか気軽に言うのが信じられない」と発言していた。大学に入って一番の衝撃とでもいわんばかり、芯から驚いている風だった。たしかに僕も信じられない。でもそれはジャーゴンのようなもので、虫けらと同じでべつになんだってよかったのだと思う。

 僕の学校も例にもれず男子校で、仲間からキチガイと称されることはある種の勲章だった。いかに人と違うことをできるかが、己のステータスになるのだ。今風にいえば、「とがっている」ことが要求される世界である。かりにも難関入試をくぐり抜けてきた精鋭ぞろいであるから、学業や趣味で全国的な活躍をみせる奴らはわんさかいた。僕には取り立てて才能がなかったし、やりたいこともなかった。ただ、男子校という空間独特のにおいを、いち早く嗅ぎとることに成功していたのかもしれない。「お前はキチガイになれるか?」

 きづけば僕は、四天王の一角を占めていた。四天王とは当時道徳の担当だった教頭先生が命名したもので、四組以外からは唯一僕が選出されていた。教室で僕は一人で目立っていたことになる。おわかりだと思うが、四天王とは決して褒められた意味ではない(勲章ではあるんだが)。クソガキという枕詞を与えてやればよくわかる。入学まもなく目を付けられるなんて至難の業に思えるが、授業中は多少騒がしくしていたぐらいだった。別件で僕ら(四天王メンバーではない)は校内の歴史に名を残す珍事をしでかすのだが、その話はいずれしたいと思う。

 いっぽうで僕は「意外と鋭いこと言うんだよな」という風に教頭から一定の評価を受けていて、この「意外と」は僕に欠かせない要素になっていく。このまえも友人から「分人(dividual)のヴァリエーションが豊富」と指摘されたが、意図的にやっている節がある。意外と考えてる、意外としゃべれる、意外と高尚、意外と卑俗。意外と、エッチ。秀でたものがなく真っ向勝負できないがゆえ、自分を多面的に、立体的に見せようとするのだ。究極的にいえば、僕は全人類になりたがっている。

 

 かつて確実に「害虫」であった僕は、いつしか害虫ですらなくなっていったように思う。数度にわたって教育を施された自分は、誰も目もくれないような無色透明な存在になっていた。丸くなったな、と言われることが増えたが、その丸は正解のマークだったのか。違うと思う。年齢的なものだ、と欺瞞的な感傷に身を投じてしまえば、それで済むのかもしれない。今なお僕は、在りし日のクソガキを思い出す。自分をどう見せるか、ということを知らなかった。あるいは見せていることを認知していなかった、四天王の一角。

 そして、虫けらのように死んでいく。害虫でも益虫でもない、虫けらであることに意味などない虫けら。シニフィアンとしての虫けら。実体は「無」だ。

 この季節に、一年前、二年前から進歩のない文章を書いてしまうのは、選択の足音が忍び寄っているからだろう。人が生きるとは、決断をしていくということなんです。どっかの誰かがいうほどでもない自然の摂理が脳内をこだまする。大海に投げ出された僕は、いつまでも浮遊していることを許されない。許されない。許されたい。

 あなたは自由意志を信じますか? 僕にはわかりません。少なくとも、欲望は性的なものしか信じない。僕にはやりたいことがないのです。「東大生ってやりたいことがわからない人多いのってなんで?」って他大から移ってきた先生に(無邪気を装って?)聞かれたとき、僕は「少なくとも自分は、何かをすることで何者かにならずとも、自分の存在を肯定できているからだと思います。何もする必要がないのです」と答えましたよね? あんなの嘘だ。大嘘。虫けらを肯定できるか? 自信がないんだ。負けたくないんだ。身の程を、知りたくないのだ。

 

 三島由紀夫が大蔵省を9ヵ月でやめて書いた『仮面の告白』の一節に、あろうことか感極まって傍線まで引いてしまった。

私にはこんな風に、何事も享楽しかねない奇妙な天分があった。この邪まな天分のおかげで私の怯懦は、しばしば勇気と見誤まられた。しかしそれは、人生から何ものをも選択しない人間の甘い償いとでもいうべき天分なのである。

選択を忌避し、偶然性の揺らぎに身を任せ、すべてを享楽する。そのように生き続けたいというのが本音だ。幸い、僕には天分がある。僕がダラダラ書いてきたことを、美しくまとめ上げやがって。二十四歳の三島が憎い。

 

 

 ──心中を吐露したにも関わらず、憎さを差し引いてもすっきりしない。腹落ちしない。さすがの僕でも、かりそめの鬱を盲信できるほどnaiveではなくなったのだろうか。まったく僕の人生は、できないことばかりが増えていく。

 

 

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気分転換に、最後に好きな曲を貼って締めたいと思います。

 

「成るように成るよ」と云う

その言葉まだまだ信じる事出来ないとしたっても、そうだよ

 

 


Base Ball Bear - 神々LOOKS YOU

 

 虫けらなりに息をしていこうと思う。虫ケ・セラ・セラのスピリットで。

 

 

 

語りすぎてはいけない

 

 千葉雅也という若手の哲学者への異様な関心が、日々強まっている。最近は会話の先々で「千葉雅也という哲学者がいてさ、」という話を、自己愛を交えて展開してしまっている。まるで恋人であるかのような口ぶりで。その際、彼のセクシュアリティについて言及するかに関しては、多少のためらいがある。おまけに、ためらいを感じるということ自体に対して、不道徳的な何かを感じないこともない。ともかく、自分はわりかし、特定の人物に心酔しやすい気質の持ち主だと思う。時期に応じて心酔の対象たる人物が必要なだけだとも言えるが、彼氏を途切れさせたくない女の子と同じ穴の貉かもしれない。──そう書いてしまうと、自分の関心が虚偽である感じが募ってくる。書いたそばから、話したそばからすべてが嘘っぽく思えてしまうのは、一般的な現象なのだろうか。デリダ的な差延という発想が浮かんでくるけど、曲解したばかりに彼に張り倒されてしまうような気がしてならない。

 じっさい、千葉氏の著作を熱心に読んでいるというわけではまったくない。彼の専門であるドゥルーズや思弁的実在論についてはピンとこないし、ゲイカルチャーの話もなかなか馴染みが薄い。ただ、彼のツイート群には惚れ惚れしてしまう。著名な哲学者が日常から何を洞察、思索するのかを手軽に知れるとは、いい時代になったものだと思う。なんだ、普通の人間じゃないか──何をもって普通とするかという話を持ち出すのは野暮だろう──という安心感をもたらすものであり、かつ、やはり常人離れした見識の広さや表現の巧みさ、卓越ぶりへの憧れを抱かせる。彼曰く、ツイッターは140文字という制限下で、書き始めた瞬間から締め切りが設定されているようなものだからいい、ということらしい。 

 千葉雅也、あるいは千葉雅也なるもの──否定的な含意はいっさいないことを断っておきたい──への「羨望」は、研究者、さらに卑近にしてしまえば、大学院生という存在へのそれへと発展する。何か特別な職業や生き方への憧れというものは、元を辿れば特定の誰かへの強烈な感情へと行き着くものだろう。このたび彼が書いた『デッドライン』という処女小説は、修士論文の締め切り(=デッドライン)が迫る大学院生を主人公とする私小説であり、あらすじだけで僕の羨望を喚起するには十分だった。読めてないが。

 

 大学院生って、かっこよくないですか。単純な話。

 

 昨日、大学の授業終わりに友人と飯を食べに行き、最近は何もツイートすることがない、ブログもしばらく書いていない、という話をした。会話の内容を書き留めるというのは会話の真骨頂(だと自分が思っている)たる偶然性を事後的に脅かすことになるのではないか、というジレンマもあることにはあるが、こういうのはたいてい、書かないことの言い訳だ。別に会話に限った話でもないし、事後的に脅かすという説明も判然としない。だから会話の振り返りを続けようと思うが、何もつぶやくことがないというのは何も考えていないことを意味するのではないか、という疑念と恐怖が頭をもたげると僕は言ったのだ。これまでもおよそ何かを「考えていた」とは口が裂けても言えないが、身体の底から湧き上がってくる何かがあったはずだ。

 一つには、世界に対するあきらめが、自分に対するものへと転化したということが考えられる。具体的に時期を名指すことはできないが、社会への憤懣が募っていたシーズンを超えて、翻って世の中はえらい、すごい!人で溢れていて、自分が取るに足らない存在なだけだと痛切に感じるようになった。自己に対するあきらめと他者に対するあきらめは表裏一体で、認識の仕方の違いでしかないとも思う。

 しかしもっと直截に言うと、僕は語りすぎてしまったのだ。おそらく自分が持っているものの全てを出し尽くしたのだ。今年の夏休み、僕は一カ月の間に一年分の会話をしたんじゃないかと思うほど──普段あまりに会話を遠ざけているだけとも言えるが──、よくしゃべった。泊まり込んでの行事が相次ぎ、腹を割って話せる仲間を見つけることができた。以前からの関係性にも飛躍があった。あくまで偶然性に身を委ねつつ、存分にうっぷんを晴らしたのだと思う。一人に還って一息ついた頃にはすっかり空っぽになっていた。さらにはずっしりとした何かがのしかかってきた。そして、テクストへの欲望はもはや風前の灯だった。

 

 「大学院で研究をやっていくためには、テクストへの欲望がないとダメだ」という旨のツイートを見た、と友人に話した。「書き残すという欲望」ですよね、という返しが即座にあった。彼も同じツイートを見ていたらしい。そう、だから僕は大学院生にはどうしたって不相応な人間なのだ。結局自分は、偶発的なコミュニケーションの次元で満足できる人間なのだ。(テクストが必然的なものなのかというと、あまりよくわからないけれど。でも、きっとそうだろうと僕は思う。)偶然性・アイロニー・連帯。すると彼は思いもよらぬことを言った。「僕が覚えているのは、映像でも文章でも、何かを残したいんだと話していたこと」

 

 今の自分には、何も残したいものはない。しかし、何かを書き残したいと思えるようになりたい、というギラギラした感情は健在なようである。

 

 これまたタイムラインで目にした話なのだが、「大学生活というのは、いかに同じ言葉を話せる友人をつくれるかにかかっている」という意見には、心底同意する。同じ日本語を話せればいいというのではない。ある種の言語体系、言葉の温度感が似通っている人というのが稀に存在すると感じる。排外主義ではない。が、やはり語らえる相手というのはそうそういるもんではない。だからそのような出会いにはとことん感謝したい。その一方で、語りすぎてはいけないのだと思う。少なくとも僕のような人間の場合には。

 

 テクストへの欲望を絶やさぬために。書かれなければならなかったものを書き残すために。

 

 

 来年は就活するとおもうけど。(五七五、「はみ出したチン毛の影がチェスの駒」をリスペクト)

(Blank)

 なんもかわらんと思う。毎日大衆寝静まり、固定客だけ漂うTLになったころ、何の脈絡も面白みも技巧もないツイートを数回、まるで毎日同じシーンを再生しているような錯覚に陥る。何の演技力もいらず、ただ布団に寝転がってスマホ見ていさえすればよく。今日も昨日と同じ夜を過ごしている、昨日もおとといと同じ夜、おとといも……ということを考えてうんざりする。こちとら毎日踊ってない夜ですよ。(踊りたいかと言われるとそうでもない、と思わせてちょっと踊りたい)

 毎晩とりあえずコンビニには行く。腹を満たせばとりあえず変なイライラはおさまる。何もせずとも周期的に腹が減る現実にはいつもムカつくけど。お金持ちならこんなことは思わないんだろうがなあ。自分も世間的には十分裕福な方に入るのだと思いつつ、だってスーパーでなくコンビニでふらっと買い物しちゃうくらいだし。めっちゃ吟味はするけど。コンビニって案外、無限に暇、潰せる。

 家の近くには二つのコンビニがある。家を出て右に行けばセブン、左に行けばファミマ。どうでもいいけど関西ではセブンイレブンのことはセブイレと呼ぶ。家族以外で確かめたことないから詳細不明。セブンはちょっとスマートすぎて俺の口には似合わないけど、書き言葉だから許してる。そのセブンの店員さんはみんな外国人。週5くらいで通うと顔は覚えるのだけど名前は全然。見てもらうための名札だろうにじっと見ることには抵抗あり、そもそも認知をしていない。東南アジアからの留学生が多いっぽい。社会的現実的見解からして。

 一回深夜に買い物に行ったら「700円以上お買い上げの方対象のくじ」キャンペーンをやっていて、ちょうど対象者になったのでくじを引くとハズレ、ののち膠着、俺困惑。あの、もう会計は終わってるんですけど、と思ったら何やら店員さん促してる、もう一回引いていいよって。結局当たりがでるまで引かせてもらったのである。あの瞬間は絆が生まれたと思った。絆なんて言葉はじめて使った。名札は見んかった。横にいた女の子が可愛かったおかげだと思う。

 左に行って徒歩2,30秒のファミマは週2通い。こっちの方が近いのに、なんJを筆頭にコンビニ飯はセブンの圧勝とかいうから。確かパスタはファミマ。自分の舌で確かめろよ。結局カップ麺やグミなどを買うからあまり意味はない。店員さんは日本人しか見たことない。いつも深夜に働いてるのはジャンポケ斉藤似の男性。本当にいつも働いている。完全に顔のせいだけで不遜な感じに見えて最初は引いてたのだけど、単純接触効果っていうと無機質すぎて嫌だな、でもそれかな、行くたび顔合わせてたら一緒に働きたくなってきちゃって、でもそしたらこの人のシフト減るのかな、なんて思ってやめた。さっきもちゃんといました。

 生身の人と会話する時間が短いせいかしら、どうも饒舌になっちゃってダメだな、前置き長すぎる。もうわりと気が済んできちゃって、書きたかったこと書かなくてもいいかな。これだとあまりにとりとめなさすぎてタイトルも付けられないほどだけど、最近の自分のブログは長大化していて誰も読んでくれてないだろうから、今回はえいや、このまま投げてみる。ブログを書く夜だけはちょっと違うシーンが再生されている気がしつつ、やはり錯覚だと思う夜なのである。