昨日・今日・明日

 

 半月前くらいから途端に秋めいてきて、秋の匂いをかいでいると、寂しくてどうしようもなかった時期を思い出して、心地よい寂しさに包まれる。季節が生き続ける限り、僕の記憶も生き続ける。季節はいつまでも生き続けてほしいと思う。COP26の報道を見ているとそんなことを思う。

 僕の部屋の勉強机は窓際に置かれていて、そぞろになるといつでも街を見下ろす格好になる。その勉強机の片端にもたれて、壁とのあいだの狭い空間で体育座りをして、煙草を吸う。煙草は保存状態や吸う場所の如何で味が変わるみたいで、すごく美味しいなと、初心者らしい感想を漏らす。深い退屈。「肯定性の過剰」が張り巡らす現代社会にあって、深い退屈は駆逐されてしまう。僕はいつまでも生き続けたいと思う。

 

 買ったばかりの『疲労社会』という本を、大学の最寄り駅の目と鼻の先にある昭和の名曲喫茶で、興奮しながら読んだ。バロック調の絢爛な音楽が僕の気分にはそぐわない。離れた席の会話が聞こえてきて、思わず微笑んてしまう。僕は穏やかな心境にあるらしい。「学生街の喫茶店」って曲があってさ、ここってまさにその世界観だよね。同じ大学の学生が、ことさら力の抜けたように話している。70年前後の学生へのあこがれ。ここに来るのはそういう人たち。そういう友達。

 新刊を大胆に六冊、総額一万円を超える会計。本を読んで知識を蓄え、また次の本が欲しくなる。事物との最も優れた関わり方は、所有である。ヴァルター・ベンヤミンが自身の蔵書について語ったエッセイで、そのように綴られていた。僕も本を買うのが好きで、本はその土地の記憶と不即不離だ。中学生でモンスター・ハンターを、大して興味もないが時流のためにプレイしていた時、僕はいくらお金がたまろうと武器の改良に費やすことができず、ほとんど先に進めなかった。ベンヤミンは資本主義と丁寧に距離を取っていた。僕は大胆に、まだかなり自分自身に遠慮してはいるのだが、多少は本を買うようになった。文筆家の山本貴光さんが、YouTubeで注目の新刊を紹介している。本でぎっしりの袋を両手に抱えて。大学に入ってすぐ、本屋でアルバイトをしていた時、五万円以上の会計には収入印紙を貼ることを店長に教えられた。実際にその機会はないだろうけど、一応仕事だからと教えてくれたのだが、そういえばありえないことではないな。そんな昔のことを思い出して懐かしくなった。昨日のこと。

 時たま大学に行くと、ばったり知り合いに会うということが、代わったばかりの野手のところに打球が飛ぶのと同程度の信憑性で僕の身には起こる。その最頻が生協の書籍部だと思う。卒論に汲々としている後輩に会う。久しぶりの再会に少しわくわくして、学部の頃と今との生活を比べたり、卒論は論文というより長い長いレポートのつもりで着手したらいいよと、求められていないだろう助言をした、昨日。彼とは同じ釜の飯を食った間柄だ。大学が熱心に用意してくれている体験プログラムで、島根の山間部で十日間を共に過ごした。毎日野菜が大量に支給されるので、それを使って食事を設える。僕は生まれて初めて、甲子園に出場した元球児と出会った。君が僕をすごいと思うのと同じように、僕は君をすごいと思う。嫌味な話し方はしていないけど、そんな会話を温泉で交わした。経験と体験を腑分けしたのもベンヤミンだが、僕は今、大学のゼミで経験について考えている。

 

 身体ひとつ、己ひとつで退屈に投げ出された時、僕にできることは呼吸を確かめることだけだ。呼吸を確かめるために文章を書く。きわめてリズム的なあり方で、文章を書きたいと思う。深い退屈にあえて留まるということは、すぐれて中動態的な態度を取り続けることを意味する。そのような生のあり方は時に過酷で、僕を疲弊させる。僕は疲れ果てたい、疲れ果てることを望んでいる。おそらく言葉が適切ではないが、ジル・ドゥルーズはtiredとexhaustedとを区別している。前者は選択を強いられ続ける事態によって、後者は選択を回避し続ける態度によって。《疲れ果てている事は/誰にも隠せはしないだろう》──僕の長髪は、よしだたくろう微塵も意識していないと言えばウソになる。

 スピノザが著したヘブライ語文法の解説書では、「散歩する」という動詞が中動態の具体例として引かれている。自分が歩行を促しているのか、歩行が自分を促しているのかはまったく不分明になる。もうすぐ引っ越すことになるかもしれない街で、上京から六年間住み続けているこの街で、僕は散歩を学習した。秋の匂いが別の秋の記憶へと僕を誘う。もうすぐ一年が終わる(もうすぐというにはまだ早い)と同時に、前の彼女と別れてもうすぐ一年が経つ。寂しくてどうしようもなかった秋はさらに二年を遡る。どうしようもなく寂しい季節はもう来ないかもしれない。僕はそれすらを、だから寂しいと感じる。

 

 煙草の香りがこの秋とないまぜになる。僕が暮らす街はきょうも明るい。僕はずっと、僕に煙草を教えてくれた女性と同じ銘柄を吸っている。その女性はもう新たな生を授かったはずだから、今は煙草を吸えないし、これからも吸わないかもしれない。