ポエジーたちのいるところ

 

昨日、大学院の修了式があった。はじめて安田講堂に入ったのだが、朝早くから駆り出されたことでの寝不足、雨天、ひとごみのスリーコンボで著しくテンションが低かった。

全体での修了式が終わった後、自分の所属する研究科、コースごとでの催しがあった。先生方からはなむけの言葉が贈られてから、修了生(この時点で「修士」)一人ひとりが大学院生活を振り返るスピーチを述べた。

式の演出には都合がよかったかもしれないが、僕はこのようにテンションが低かったので、いつものようなサービス精神は発揮されず、ただ一言、「忸怩たる思い」だ、からスピーチを始めることだけ決めて、壇上に上がった。

以下、無理やり喋った内容を思い出せる限りで書き残しておきたい。何年後かの自分は最悪のテンションだった式のことを忘れはしないだろうが、語られた内容は忘れられてしまうだろうから。

 


まずは先生方、二年間ありがとうございました。学部から含めれば五年間、後期課程に進んでから、ありがとうございました。

二年間を一言で言えば、「忸怩たる思い」ということに尽きます。まあ、「忸怩たる思い」っていう言葉を使いたいだけで言っているんですけど。

今この瞬間、いや、瞬間というよりはもっと続く、ある「時期」を楽しく過ごすためにはどうすればいいのか、ということだけをずっと考えてきて、それは思想的に乗り越えられるのかと問うてきましたが、いま、悲観的な「予感」では、不可能なんじゃないかと、ネガティブには思っています。実践することでしか、つまりそのように生きていくことでしか、(やや口ごもりながら)「生活をする」ことでしかできないんじゃないか。

この二年間、もがいていた、というと大げさですが、行くあてもわからず、ただ広がった平原に放り出されているような、そんな状況でなんとか進もうとしていました。

「学問」というものをアイロニカルに眺めれば、「問い」を生産し続けることでしか存立することができない制度、と言うことができると思います。僕は修士論文で自分の研究に「区切り」をつけようと思っていて、実際区切りをつけたんですけど、結局はまた4月から考えるべき問いを探しながら、なんとも言えない気持ちで過ごしていました。

「答えを生きる」。そう、今月のあたま、「ナマケモノ」っていうゲストハウスに泊まっていたんですけど、福井県大野市にある、そこに置いてあった本に「答えを生きる」って言葉が書かれていて、(ここから自分の波に乗ってきて、思わず手振りを交えながら)スローライフ系の本に書かれていたんですけど、これは本当にそうだなと思って。

今までは何となく問いを生き続けようとしていて、でも結局は答えを生きなきゃいけない。僕にとって研究とは、あるいは読む、書く、考えるというのは、こういう言葉に出会うこと、invent(その前にある先生が語った、デリダの"invention"(アンヴァンシオン)を踏まえて。先生は「到来する」という風に読み替えていた)することだと思っています。

僕がアガンベンの「潜勢力」という言葉に託しているのもそういうことで、そういう「構え」、スタンバイしている、「待ち構えている」状態、「探す」のではなく「待ち構える」。今後もそういう風に生きていけるように「頑張って」いきたいと思います。

改めて先生方、二年間ありがとうございました。これからもよろしくお願いします。それと学友のみなさん、これからもよろしくお願いします。

 

だいたいこういったことを話したような気がする。

テンションのせいで、いきなりネガティブなことを言ってしまったので、なんとか挽回しようと思いつくままに喋った気がする。

それでもこの言葉が自分の舌に焼き付いたような感覚があるのは、やはりスピーチらしい場面を用意されたこともあって、いつもゼミなどで話すのよりはテンポを落とした、比較的ゆったりとした速度で話すように心がけたからだと思う。つまり、自分本来のリズムとは違ったしかたで敢えて話したことで、なんとなく言葉が喉奥に引っかかった気がするのである。

 

自分が話した内容について、後から思ったことを少しだけ。

・答えることは問うことであり、問うこともまた答えることであるということ。自ら「問いを立てる」ことが要請されるようになった現代社会で、同時にresponsibilityを「責任」ではなく「応答可能性」として捉える見方が流行しているように、応える/答えることの意味も注目されているように思う。「問いを生きる」のではなく「答えを生きる」のだ、と独断的に言ってしまったが、そう切り分けられるものではない。あえて言えば、自分にとって哲学とは問うことであり、詩とは答えること。逆もまたしかり。

 

・潜勢力(アガンベンにおける含意は、「~することができる」というのは同時に「~しないことができる」であるということ)について、構え、スタンバイ、待ち構えているという順番で確かパラフレーズしたのだけど、図らずも「待ち構える」という言葉がまさに「構え」という言葉を含んでいることに気が付いた。修論検討会などを通して、同期の子が「ケアの構え」という表現にこだわっていることを知っていたことも、この言葉遣いに寄与したかもしれない。
 僕は人生において、「詩的な出来事」に遭遇することを無上の喜びにしている節があるが、そのためにはポエジーへのスタンバイができていなければならない。オン、オフを切り替えてテキパキはたらくのではなく、常にぼんやりと生きていく。ただしこのスタンバイという発想は、危険も伴う。典型的には医療従事者のように、常に非常時に対して気を張っていなければならない状態というのはひどく疲れる。コロナ下でリモートワークの普及によって多くの人が巻き込まれたように、仕事とプライベートの境界があいまいになった状況は、スタンバイに近い。これらをどう弁別できるかが、課題になる。「いつでもスタンバイしなければならない」と、「スタンバイすることもしないこともできる」の違い。
 そのことに気を付けたうえで、「スタンバイ」という言葉を辞書で引いてみると、「いつでも行動できるような態勢で待機すること。また、その状態」、その例文として「緊急事態にそなえて─する」と出てくる。緊急事態、ベンヤミンアガンベン風に言えば「例外状態」。芸術作品の真価というものが、今ある規範を宙吊りにし、その状態を持続させることにあるとすれば、ポエジーへのスタンバイというのは、まさに規範(コード)の破れ目を待ち構えること、その破れ目に気づくことができる状態を生きることだと言えるかもしれない。
 そして、スタンバイという言葉からすぐに連想されるのは、舞台袖である。過去と未来のあいだとしての「いま」を生きるとはどういうことか考えるとき、僕がイメージするのが舞台袖だ(もっといいイメージがあるかもしれないが)。あの極限の緊張状態、これまで準備してきたことを確かめながら、それが終わったあとの輝かしい、清々しい瞬間を想像する永遠にも近く、しかし直ちに打ち切られる時間。「いよいよ」という時。
 まだ大学に入学する前、大学の合格発表が終わった後ぐらいの時期に、「人生の充実度って緊張した時間に比例するよな」と無邪気にもツイートしたことを覚えている。あらゆるジャンルにおいて「緊張と弛緩」の大切さが吹聴されるように、これはおそろしく正しいのだろう。でも、緊張することはとても苦しい。緊張なきスタンバイ、その理想こそが、ポエジーへのスタンバイなのかもしれない。出番は必ず訪れるとはかぎらない。しかし、ポエジーを待っている、待つことができている状態こそが、すでにしてポエジーなのである。僕にとってその典型が、旅である。実るともかぎらない恋である。

 

Stand by me, poésie。
ポエジーはいつもかたわらにいる。