散歩の注釈

 本を読むことは街を歩くようなものだと、誰かがそのエッセーで書いていて、先日街を歩きながら思い出した。つまり、街を歩くというのは本を読むようなものでもある。

 久我山から神田川沿いに三鷹台の方へ、先週の土曜日のことだった。なんら大したことはないけれど、梅雨で曇天続きの毎日だったので、久しぶりの晴れ間に誘われてとりあえず歩いていたのだ。実際は三鷹台で用事があったのだけど、自分が連絡を怠っていたためにおそらくそれは破棄されて、無駄足になることは想定していた。それでも晴れていたので、僕は井の頭線の準急に乗って久我山で降りた。なんとなく乗り換えを待つ気分ではなかったので、久我山から歩くことにしたのだ。

 初めて降りる駅だった。特別目新しいものはないし、昔の玉川上水の写真を展示している店があるとの情報以外は気にならなかった。その店もいまいち場所がわからず、適当に坂を上って杉並区の区長選があることをようやく知った。折り返して川沿いを歩き始めて、いきなり古風な雰囲気の喫茶店があったので入ろうかと思ったけど、まだまったく疲労していないので足がうずうずしていてやめた。今度また行ってみたいと思う。何もない駅に二度行くことはめったにないことだけれど、人生生きていればいつかそういう日は来る、ということを思う。最近よく思う、自分も老成したものだと思う。

 

 人生百年時代、と言われる。と言われる。

 僕はその言葉を聞くたびに、高校の卒業アルバムで「22世紀まで生きます」と高らかに宣言していた男を思い出す。別にそれが珍しくもすごくもない時代になってしまったんだろうか。僕だって昔から、ドラえもんが生まれる日までは生きていたいとよく考えていたし、ちょうどいいくらいの難易度である気もしていた。

 そこから逆算すればまだまだチャンスがあるだろうし、読めていなかった本もいつか読める日が来るかもしれない。僕は川沿いの整ったランニングコースを歩きながら、最初に紹介した一節を思い出し、まさにその言葉に出会ったのだってふらっと本をめくって適当に文字を追ったり追わなかったりしていた時だった。久我山から三鷹台へというのは、分厚い哲学書で言ったらほんの一節分、あるいは数ページ、数行を読み進めるようなもので、それだって目的意識も義務もなくただ思い出したように読むといった感じのものだろう。

 研究の上で〆切に追われてほとんど義務感から本を読んでいると、純然たる読書の快楽(Piacere!)も損なわれてしまって、気がふさぐこともある。早く正確に情報を収集することが求められて、本当に優秀な人だけは意識せずともそれがこなせてしまうのだけど、自分はあくまで生きる楽しみの一つとして研究をやろうとしているだけなので、することができない。散歩をすればだいたい気が晴れる。からっところっと。歩く速度というのは自ずから決まっているもので、意識的に調整するものではない。

 街をゆっくり歩くことが難しければ、本をゆっくり読むことも難しい。ジョン・キーツの詩に由来するネガティブ・ケイパビリティという言葉が、医療やカウンセリングの分野で広まり始めていて、僕の研究でも「しないことができる」という問題に取り組んでいる。古代からの格言で「ゆっくり急げ」というのもあるが、ゆっくり歩くことはやはり難しい。ゆっくり歩くことは退屈だし、退屈な本ほど文字がどんどん滑っていって、捕まえることができなくなる。

 

 本を読めるようになるということは、ゆっくり読めるようになるということである。こう書くといかにもといった感じがするけれど、一語一語、一音一音にはっと立ち止まって、そこからいろんな思考がめぐりだしても構わない。精読というのとは違う。ゆっくり歩いてしまうということ。隠された街の注釈に目を見開くこと、耳をすましていること。

 読まなければならない本はいつでも大量にあって、でも本当は全然ないのだろう。晴れた日にふらっと街に出て、電車に乗って、駅で降りて、街を歩いて、思い出したように幸福にふけりながら丹念に歩いて、読んで、少しずつ知っていく。いつか歩いたという記憶だけを作る。同時にいずれまた歩くのだという希望だけを抱いて。

 

 退官した教授が自宅の蔵書を整理するというので、ほしい人は自由にもってかえって構わないという約束だったのだが、そこにあった本にはいつか出会う日が来る。そしてそれを読む日がいつか訪れる。