てーほへてほへ

 旅の狂騒から一夜明け、昼過ぎに目覚め本屋に寄ってマックで食事し、塾でのバイトを終えてニュースウォッチ9を観ながら晩飯を食べるという、旅以前と同じ生活をこなし、ベッドに寝転がってスマホと本を行ったり来たりしながら心置きなく音楽を聴く。

 望んでいる気ままな生活なはずなのに、どこか一向に満たされない空白が確かに存在する。そのような空白について思索をめぐらして、どうせいつかは眠くなるしどうせいつかは死ぬのだからということで、結局は思いつめることもなくまた明日同じ生活をする。

 ここ二年くらい、僕の時間は円環的な様相を呈しているが──このような文章を書くのはいったい何度目のことだろう?──つまらないこともない。むしろ随分と楽しんでいるほうだ。

 

 ひとえに自分の脳によるところが大きい。僕の脳は僕にとって大変素敵だ。君の脳が君にとって素敵なのと同様に。

 僕の脳のシナプスは意味がわからない接続のしかたをしていると思う。シナプスが何を指すのかは明瞭に認識していないけど、僕が考える分には不都合ないほどに他の言葉との境界をわきまえている。

 僕の脳をひらいて見せてあげることはできないけど、脳がおもしろくない限りは人生がおもしろくならない。一向に卒業する気配を見せない僕に対し、お前は日々何をしているのかと父親が詰めてきたとしたら、僕は胸を張って澄ました声で、脳をおもしろくしております、と答えるだろう。

 

 これ以上の脳の話はモギケンに一任することにするが、さきほどBase Ball Bearのある曲──「テーーレレテレレー」というギターのフレーズが冒頭から蝉時雨のように繰り返される『PERFECT BLUE』という曲──を聴いていたら、その部分が「てーほへてほへ」と言っているように聞こえてきて、自分のシナプスの複雑怪奇さに思わず騏一郎ばりに驚いてしまった。

 「てーほへてほへ」とは、おそらくある絵本の題名だ。僕の幼少期の記憶が確かなら間違いはない。幼き僕がひらくこともなく放置した、可哀想な本。

 

 ある程度余裕のある家庭ならどこもそうであるように、僕の家でも母親が毎晩、寝る前に読み聞かせをしてくれていた。クレヨンクラブという絵本や児童書を月ごとに定期配送してくれるサービスも利用していて、小さい僕が読んでもらう本は潤沢にあったと思う。

 母親のチョイスで買ってくるものや譲り受けたものも合わせると、寝る前の少しの時間を毎日使っても、まだ読んでいない本はなかなか減らなかった。そのうちタイトルだけは覚えるようになってきて、「大どろぼうホッツェンプロッツ」みたいな難しいものまで、無駄に言えるようになっていた。

 毎回どのように本を選んでいたかはわかりかねるけど、表紙の絵の感じ(動物がいるかどうかはかなり重要)とか分量とか、子の都合と親の都合をうまく重ねて見繕っていたのだと思う。

 てーほへてほへは、選ばれなかった側の本だ。読み聞かせの年齢を超えて──2歳下に妹がいるのでしばらくの間は続いたような気がするが──、自力で活字をむさぼるようになっても、てーほへてほへは選ばれなかった。いや、僕が選ばなかった。

 

 もちろん絵本より文章メインの本を読むようになったのもあるが、定期的に本棚を見ては思い出したように絵本をめくっていたことも小学生のうちはあったし、読むチャンスくらいあったのだ。てーほへてほへを。

 しかし今も僕はてーほへてほへの内容を知らないように、僕に選ばれることはなかった。覚えているのは一度か二度ちらっと見ただけの、なにやら賑やかそうな表紙の絵と、背表紙の七文字だけ(いや、むしろよく覚えているほうではないか)。

 これだけキャッチーな題名なのに読まれなかったのは不思議だが、当時の僕にはねるねるねるねで十分だったのだろう。キャラが被ってしまっていたのだ。

 

 そのテーーレレテレレーを聴いていて思い出したのは、てーほへてほへの文字列だけではない。そんなに僕の脳がつまらないはずがない。僕のシナプスを舐めちゃいけない。

 思い出したのは、後ろめたさや申し訳なさだった。小学生の感受性は鋭かったのだと思う。僕は恣意的に本を読まなかったことに対して罪悪感を感じていた。恣意的というのも変だけど、読もうとすれば読めたものを読まないというのは、何か大問題であるような気がしていた。すぐそこにある助かるはずの命的なサムシング。

 図書館の本を全部読む奴はいないだろうが、家庭の本棚となれば別の話だと思っていた。親が買い与えてくれたわけであるし、埃をかぶらせてしまうのはやはり申し訳なかった。加えててーほへてほへにも顔向けできなかった。

 

 本当に申し訳ないと思っている。昔から物には心があると思っていたから八つ当たりしたことは一度もないし、今も物は大事にしようと心がけている。それでも積読はしてしまうが。本の本懐とは読まれることなのだろうか。

 それはわからないし、何より本に心があるなら感じ方も本それぞれだろうから深入りするのは避けるが、正直、てーほへてほへはきっと面白くないと思っていたような気がする。食わず嫌いだけでなく、読まず嫌いというものも昔からやっていた。だから申し訳ない。

 

 かっこいいギターの音が鳴るたび、てーほへてほへの生霊が襲いかかってくる気がする。てーーほへてほへ、てーーほへてほへ、てーーほへてほへ……。てーほへてほへは、今もどこかで読まれるのを待っているのだろうか。咽び泣いたりしているのだろうか。

 

 僕がいなくなってから自宅を片付けるときに、大半の本は別の行先を見つけていった。てーほへてほへも、もう僕の部屋にはいなくなっていると思う。

 それでも、どこかで。あの頃僕が選ばなかったあいつではないけど、てーほへてほへに邂逅したときにはちゃんと読みたいと思う。本にも同胞意識があるのなら、向こうからお断りかもしれないけれど、そこはまあ、てーほへてほへ、てーほへてほへ……て◯◯へ◯◯へって笑えば、きっと許してくれると思う。