不穏の書、談笑

 

深夜にコンビニに出かける一連の流れを久しぶりにこなして、なんだか懐かしさを感じた。今の家はれっきとした住宅街といった風情で、精米店や町内会の会館がすぐのところに立ち並んでいる。上京して以来、六年間住んでいた部屋を退去してこの街に移り住んできた。同じ期間だけ続いた独り暮らしにも終止符が打たれ、他人と共存するわずらわしさと気楽さを、噛みしめるという余裕もないほどに生活はなぜか加速していて、徒然に二つ抽象名詞を並べてみたけれど、比重は大体後者にあると言っていい。そう思うのは、今こうして深夜にブログを書く愉悦に浸れているからかもしれないが、とにかく今の家は個人の部屋がきちんと分かたれているわけではないので、同居人に迷惑をかけないためにも生活はある程度規則化されていて、だがしかしだいたい僕は日中より深夜のほうが勉強がはかどる。深夜というのは一日にとって消化試合のようなもので、だからこそ時間に関する損得を顧慮することなく作業に専念できるため、はかどるのである。ある意味では人生というのもそうで、最近は若い人たちのあいだでよく「降りる」という言葉遣いを耳にするが──いかにして地上のゲームを抜け出して勝手に遊びだすことができるか、といっては味気ないかもしれないが、先日、先生から君たちは大学受験で一回勝利したのだから、もうこの先なにも勝たなくていいんだから好きなように遊べ、という話をされたことの意味を考える。いな、もう書かれてしまった時点で考えられてはいる。はずだきっと、メシアは訪れるときにしか訪れない、訪れたときにしか訪れないということだろうきっと。