ゲーム

 

 小学生から中学生にかけて、「パワプロクンポケット」というゲームが好きで、よく遊んでいた。「パワプロ」といえば野球のゲームであることは、やったことがない人でもなんとなく知っていると思う。ただ「パワポケパワプロクンポケット)」シリーズのメインは野球にはなくて、シリーズ全体を貫く濃密なシナリオにある。だから毎年のように収録選手が更新され、新たなソフトが生まれるパワプロにはありえない、シリーズ完結という事態が発生した。それはもう9年前のことだ。日本が大きな危機に直面することになった、あの年である。

 このゲームには色々なモードが収録されているのだが、なんといっても本丸なのが「サクセス」という架空の野球選手を育成するモードだ。パワポケ自体がパワプロシリーズから派生した作品であり、特にサクセスはガラパゴス化のように独自の発展を遂げ、およそ全年齢対象には相応しくない次元で、恋愛や裏社会といった大人のロマンが凝縮されたモチーフが開花していった。ゲーム自体はマルチエンディング形式なのだが、すべての作品は共通するひとつの世界で展開されていることになっている。それでガンダムなどのオタクコンテンツと同じく、愛好家たちによって「正史」が構築される。

 ぼくは特に「9」が好きで、というより一番長くプレイしたのがそれで、小学生の頃、友達の家にみんなで集まって、おのおのが黙々とサクセスを進めるという遊びをよくしていた。ひとつ同じ部屋で、ときに誰かが快哉を叫び、また誰かが怒号を、悲鳴をあげていた。おのおのが自らの分身に命を懸けて向き合っていた。友達のお母さんから見て、微笑ましい光景に映っていたのだろうか。ぼくらは塾で成績を競わされる環境に置かれていたが、ゲームで競うことはしなかった。ただパワポケの世界に浸っていたのだった。

 

 サクセスの基本的な進め方はコマンド式で、一週ごとの主人公の行動を練習やうろつき、デート、回復などから選び、それを毎週おこなっていく。とった選択にしたがって、またランダムのイベントも発生して物語は展開され、だいたい3時間程度で一回のサクセスが終わり、一人の選手が完成する。大筋は毎回共通しているのだが、主人公の彼女候補や仲間はバラエティに富み、誰と重点的に付き合っていくかによって違った物語が用意されている、といった具合である。

 こんな風に、現実の世界と同じように週ごとの行動を選択し、生活を送っていくというシステムが、ぼくがハマった要因だったと思う。各作品で舞台は異なるが、シリーズは高校野球編、プロ野球編、社会人編を繰り返していて、高校、プロの期間はいずれも3年間、時間の単位は週が基本になっている。

 「9」は社会人編で、時間の単位が「日」だった。つまり、4月8日、4月9日、4月10日……という感じに、毎日の行動を選んでいくシステムが採用されていた。それまで1・2しかプレイしたことがなかったぼくにとって、週ごとでないのは新鮮だった。週ごとより日ごとのほうが作中世界の生活を体験している感じがリアルで、楽しかった。

 今思えば、この頃から「毎日」をスケジューリングし、大局的に日々を練り上げていく習慣は作られていたのだ。そういえば、塾では宿題をどのようなペースで進めるか、という予定表を作成させられていた。発達の過程で、人間の生活のしかたは管理されている。フーコーでいうところの〈規律-訓練型権力〉である。

 

 もっと遡ると、小学校低学年の頃は、「ぼくのなつやすみ」というゲームが好きだった。父方の祖父母の家にプレステが置いてあり(祖父はいわゆる「ゲーマー」だった!)、お盆と正月にその家を訪ねては、辺りは凡庸な住宅街で公園で遊ぶ以外にすることもなかったので、ぼくはゲームに興じた。小さい時分で複雑なものは理解できないので、直感的に楽しめる「チョロQ」と、なぜか「ぼくなつ」を主にプレイしていた。

 ぼくなつはタイトルがすべてを説明していて、小学生の「ぼく」が夏休みの一月を地方の親戚宅で過ごす体験をするという、実にほのぼのした内容のアドベンチャーゲームである。大人のノスタルジーがふんだんに詰め込まれた傑作ではあるが、当の「なつやすみ」を知らない幼き日のぼくが熱心にプレイしていたのは、ちょっと奇妙な感じがする。加えて皮肉というか悲劇というか、なんせ貴重な夏休みの期間を、ぼくは「なつやすみ」という虚構に当てていたのだ。とはいえ、べつに夏休みかくあるべし、という規範を埋め込まれたわけでもなく、実際に田舎に行きたいと言うことは一度たりともなかった。ただ、このゲームをやっていた思い出はしぶとく残っていて、大学に入ってからは学内のプログラムを利用して離島にしばらく滞在し、密かに「リアルぼくなつごっこ」をしている気分で過ごしたことがある。

  ぼくなつの世界でも、8月1日から8月31日までを日ごとに過ごしていく。一日のなかでは時間も流れていて、フィールドを走ったり自転車を漕いだり海を泳いだりして場所を移動し、場面が切り替わるごとに画面内の時計が進むシステムになっているのだ。一日の終わりには絵日記を付けることを忘れてはいけない。時間の経過を多分に意識させられることで、このなつやすみが終わっていってしまう、という感覚をリアルに味わうことになる。

 ぼくの時間に対する過剰な意識は、ゲームを通して研ぎ澄まされていったのではないだろうか。それは当然、こうしたゲームの内在的なシステムに加えて、母親という権力下の厳格な制度、非情な通達によって育まれたものでもあろう……。

 

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 大学4年生になったぼくは、院試や卒論、そしてちょっとしたロマンスの奔流に身を委ねるままに、わりとせわしなく半年を過ごした。時間がないのではなく、文字通り心をなくすという意味で、穏やかでないことが多かった。これからもきっとそうなのだろうと思う。少なくとも卒業が確定するまでは、それにまた来年からは大学院に通い始めるし、これまで以上に険しい日常が待っているような気がする(きっと想像した以上に騒がしい未来!)。

 先月の前半に院試が終わり、年齢が更新された日に合格通知を受け、実家の引っ越しに立ち会うために帰省し、その間も卒論のことで心を蝕まれつつ何もできず、ゼミでの指導会があり、焦り、焦り、月末には趣味の締め切りなどもあり、また身動きできない状況に追い込まれてしまい、授業内での卒論構想の発表がやっと終わったのが一昨日のことだった。

 ぼくは疲れていた。行動はせず、ただただ気を病むことに専心していた。進捗は決して芳しくないがいったん落ち着こう、あえて落ち着いてみようということで、その日の深夜からはゆっくりと小説を読んだり、最近始めたタバコを吸ってみたり、通して聴いたことのなかったアルバムを聴いたり、昔いちど読んだきりだった歌集を捲ったり、『耐え子の日常』というアニメを観たりした。こんな風に、誰が読むかもわからないブログで生活状況を事細かに記してしまったのも、自分がやったことを確かめることで落ち着きたい、という気持ちがあるのだろう。Take your time, take my time!

 

 翌日、昼過ぎに起きてごはんを食べてから、夜の予定まで結構な時間があった。何をすることもできる。目についた本を読んでもいいし、授業の予習をしてもいいし、卒論関連の作業をしてもよかった。でも、なんとなく退屈だった。一区切りついたのだし好きなことをしてよかった、でも何をすればいいかわからなかったし、本当はすべてしたいけど今したいことはわからなかった。そもそもこの発想は良くないのかもしれない。何をしてもいいということは、何をしなくてもいいことでなければならない。結局、いつのまにかぼくは眠っていたのだけど……。

 するべきことがあってもなくても倦怠してしまうのは、きっと人生自体が大きな義務を負わされているからだ。漠然とした幸福な人生であるとか、充実したライフストーリーであるとか、ラカンがいうような〈楽しめ!〉という超自我であるとか。ゲームのようにコマンド式でその都度その都度の最善の行動を選択し、おこないを積み重ねていくことができたなら、どれだけぼくの人生ははかどるし、成果をあげられるのだろうと考える。世の中には実際にそのように過ごせている(ようにぼくには見える)人がたくさんいるし、ぼくはよくみじめな気持ちになる。

 

 「今のぼく」が「今後の現実のぼく」を操作して、その人生を観察するという構図を想像してみる。プレイヤーはぼくだし、操られているのもまたぼくで、プレイヤーとしての成功と、ゲームの主人公の成功は同じことだ。その時、生きているのは誰なのだろうか?

 

 ネオリベ社会の犬になることは避けたい、それでいて定量的な成果に「価値」観を支配されているぼくたちは、どうしたら袋小路から抜け出せるのだろう。するべきことがあってもなくても、何かをしなければならない。してもしなくてもいい、それが少年時代ではなかったか。いや、考えるまでもなく、何かをしてしまっていたのだ。今のぼくは、しないこともできる。しかし、する方が好ましい(とされている)なかで、あえてしないことを選ぶ勇気があるのか? ぼくたちにはそれがないのだ。なんもしないにあこがれ、幻想を抱きつつ、そうすることは決してできない。幸か不幸か、ぼくはまだ健康である……。

 

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 パワポケのサクセスでは、たとえば「うろつく」コマンドを選択しても何も発生しないことがあるし、体力がマックスなのに誤って回復コマンドを押してしまい、一日が一週が、無為に経過することがある。

 

 父の実家はもう住む人がいなくなり、ただの物置と化している。父親の大量の本が眠っている。そこで流行りの古民家系のブックカフェ&塾なんかを開いて暮らせないかしら、とか夢想するけど、あのプレステはどこに行ったのだろう。

 

 ぼくがプレイしていたぼくなつのソフトは、いつのまにかディスクに小さい傷が入ってしまっていて、ぼくが家から一歩も出られなくなるバグが発生していた。だから二階と一階を往復することでしか一日を終わらせることはできない。

 

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 あの夏にぼくなつをプレイしていた「あの」ぼくが「この」ぼくであることが、ちょっとだけ可笑しい。一息に言ってみると、もっと可笑しい気分になった。