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 白紙を前にして、人はたじろぐ。

 

 僕がはじめて手にしたノートには、几帳面にいくつもの枠や欄が配置され、機械的な文字が死んだように躍っていた。ゴルフのスコアブック。到底、想像力を掻き立てられるような代物ではない。運動神経の弱い父親が会社の在庫をもらってきたのだった(父がゴルフをしている光景を思い描くことはできない)。

 

 僕ははじめて手にしたノートに対して、会社の名前が印字された黒赤の二色ボールペンを揮った。緻密に設計された諸枠組を利用して、たとえば給食を食べるのが早い人ランキングなど、通っていた幼稚園の園児データベースを記録した。さらにおぞましいことに、当時から筋肉番付などの番組を好んでいた僕は「スポーツマンNo.1決定戦」を模した架空の大会を開き、普段は無邪気に遊んでいる仲間の順番付けをしていった。折しも小泉政権下で、新自由主義的な改革が断行されていた。

 

 僕がはじめて手にしたノートが自由帳であったら、そのような事務作業にとりかかることはなかったに違いない。僕の白紙にはあらかじめ線が引かれていた。書くことははじめから不自由だった。僕には落書きをした記憶がない。所定の場所に相応の記号を記入していくことから僕の書くことはスタートした。

 

 二十年近い歳月を経て、卒業論文には苦戦を強いられることになった。構想をまったく練っていなかったため、中間発表会では「書くことは一つの逆説」などとおどけてみせ、自分の白紙を正当化した。それから半年がたち、最終的には論文の形をした何かへの変貌を遂げた。実質的な執筆期間は一カ月だったが、最後の三日ほどを除いては、ずっと不自由な思いをした。線が引かれていない紙を前にしても、元来不自由なものは不自由だった。

 

 久しぶりにブログを更新しようと考えて、考えた末に思ったことを最初に書いた。世界の中に白紙は存在するのだろうか。おそらく、白紙は白紙のなかにしか存在しない──というか、白紙は白紙自身と一致している(白紙は白紙なのだから当たり前だ)。四方を見渡せば、事物が饗宴を催して騒々しい。"tabula rasa"の元となったギリシャ語が白紙を名指すことはなかった。グランマティオンとは書板のことである。

※白紙に戻そう遣唐使。白紙も白紙に戻せば白紙ではない。

 

 いつか素晴らしいことを書ける日がくることを信じていた。しかしながら、そんな日は訪れないのだ。訪れるとすれば死ぬ時くらいなもんだ。書きたいことは書けないのだ。書けたものだけが書いたものなのだ。怠惰な仕方ではあれ、厳命された「書く」という行為なのかそうでないのか不明瞭であるものと向き合った結果、書くことは書くことでしかない、書くことがすべてだと観念したに過ぎない。

  

書くことは速度でしかなかった

追い抜かれたものだけが紙の上に存在した

 /寺山修司「事物のフォークロア

 

 事物は書くことでしかないならば、書くことも書くことでしかない。対象は存在していない。書くことは逆説などではなく、同語反復なのであった。

 

 僕の勉強机の周囲からは、なぜだかアンモニア臭が漂ってくる。 白紙がすごい速さで朽ちていくとき、追い抜かれたものどもは規格化された距離を保っていじらしく、身を寄せ合っている。紙は書くためのものではない。何か(それは他ならぬ白紙であるかもしれない)を包み隠すために存在する、そうに違いない。

 そうであってほしい。(是非とも!

 

 

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