虫ケ・セラ・セラ

 自分は虫けらのように死んでいくしかないのか、と思うことがある。大抵それは夜更かしをしている時だ。この観念にとりつかれて夜を更かすのか、夜を更かすからこそ悲観が襲うのか、まるでわからない。せめて煙草でも吹かしてみた方が、人生経験としては有意義かもしれないと思ったりもする。だけど、自分の生活にはコマンドがほんの数種類しかない。眠る、食べる、本を読む、音楽を聴く、そして自涜。五指で足りるほどで、実際に煙草を試してみることは未来永劫、きっとない。われながらつまらん人間であることよ。

 虫けらという言葉を使ってみたが、これもべつになんだっていい。象でも、麒麟でも、ゴキブリでも、百獣の王でも。みみずだっておけらだってあめんぼだって、人間だってかまわない(人間だもの)。生まれ、死ぬという全二楽章の狂詩曲を奏でるものであれば、すべて同じことだ。俺は生きてんのか、生かされてんのか、という問いがベーキングパウダーのようにはたらいて、脳が破裂しそうな時期があった。膨張死というのも悪くはないが、今もそこに関しては疑い続けている。なんなら卒論を書きたいと思っている。アタマお花畑であることよ。

 

 それで思い出したけど、中学生のころ、学校ではキチガイという言葉が流行していた。ガイジやアスペの台頭はもう少し先だった気がする。「アタマ」「虫」という謎の言いまわしにいたるまで、われらの語彙体系は広がりを見せていた。(「アタマの大盛」という商品が売り出されたときには魂消た。)虫けらのイメージはこの頃の経験に根差しているのかもしれない。ところで、大学に入ってマイノリティに関する授業を受けていた時、ある女学生が「特に男子校出身の人たちが、アスペとか気軽に言うのが信じられない」と発言していた。大学に入って一番の衝撃とでもいわんばかり、芯から驚いている風だった。たしかに僕も信じられない。でもそれはジャーゴンのようなもので、虫けらと同じでべつになんだってよかったのだと思う。

 僕の学校も例にもれず男子校で、仲間からキチガイと称されることはある種の勲章だった。いかに人と違うことをできるかが、己のステータスになるのだ。今風にいえば、「とがっている」ことが要求される世界である。かりにも難関入試をくぐり抜けてきた精鋭ぞろいであるから、学業や趣味で全国的な活躍をみせる奴らはわんさかいた。僕には取り立てて才能がなかったし、やりたいこともなかった。ただ、男子校という空間独特のにおいを、いち早く嗅ぎとることに成功していたのかもしれない。「お前はキチガイになれるか?」

 きづけば僕は、四天王の一角を占めていた。四天王とは当時道徳の担当だった教頭先生が命名したもので、四組以外からは唯一僕が選出されていた。教室で僕は一人で目立っていたことになる。おわかりだと思うが、四天王とは決して褒められた意味ではない(勲章ではあるんだが)。クソガキという枕詞を与えてやればよくわかる。入学まもなく目を付けられるなんて至難の業に思えるが、授業中は多少騒がしくしていたぐらいだった。別件で僕ら(四天王メンバーではない)は校内の歴史に名を残す珍事をしでかすのだが、その話はいずれしたいと思う。

 いっぽうで僕は「意外と鋭いこと言うんだよな」という風に教頭から一定の評価を受けていて、この「意外と」は僕に欠かせない要素になっていく。このまえも友人から「分人(dividual)のヴァリエーションが豊富」と指摘されたが、意図的にやっている節がある。意外と考えてる、意外としゃべれる、意外と高尚、意外と卑俗。意外と、エッチ。秀でたものがなく真っ向勝負できないがゆえ、自分を多面的に、立体的に見せようとするのだ。究極的にいえば、僕は全人類になりたがっている。

 

 かつて確実に「害虫」であった僕は、いつしか害虫ですらなくなっていったように思う。数度にわたって教育を施された自分は、誰も目もくれないような無色透明な存在になっていた。丸くなったな、と言われることが増えたが、その丸は正解のマークだったのか。違うと思う。年齢的なものだ、と欺瞞的な感傷に身を投じてしまえば、それで済むのかもしれない。今なお僕は、在りし日のクソガキを思い出す。自分をどう見せるか、ということを知らなかった。あるいは見せていることを認知していなかった、四天王の一角。

 そして、虫けらのように死んでいく。害虫でも益虫でもない、虫けらであることに意味などない虫けら。シニフィアンとしての虫けら。実体は「無」だ。

 この季節に、一年前、二年前から進歩のない文章を書いてしまうのは、選択の足音が忍び寄っているからだろう。人が生きるとは、決断をしていくということなんです。どっかの誰かがいうほどでもない自然の摂理が脳内をこだまする。大海に投げ出された僕は、いつまでも浮遊していることを許されない。許されない。許されたい。

 あなたは自由意志を信じますか? 僕にはわかりません。少なくとも、欲望は性的なものしか信じない。僕にはやりたいことがないのです。「東大生ってやりたいことがわからない人多いのってなんで?」って他大から移ってきた先生に(無邪気を装って?)聞かれたとき、僕は「少なくとも自分は、何かをすることで何者かにならずとも、自分の存在を肯定できているからだと思います。何もする必要がないのです」と答えましたよね? あんなの嘘だ。大嘘。虫けらを肯定できるか? 自信がないんだ。負けたくないんだ。身の程を、知りたくないのだ。

 

 三島由紀夫が大蔵省を9ヵ月でやめて書いた『仮面の告白』の一節に、あろうことか感極まって傍線まで引いてしまった。

私にはこんな風に、何事も享楽しかねない奇妙な天分があった。この邪まな天分のおかげで私の怯懦は、しばしば勇気と見誤まられた。しかしそれは、人生から何ものをも選択しない人間の甘い償いとでもいうべき天分なのである。

選択を忌避し、偶然性の揺らぎに身を任せ、すべてを享楽する。そのように生き続けたいというのが本音だ。幸い、僕には天分がある。僕がダラダラ書いてきたことを、美しくまとめ上げやがって。二十四歳の三島が憎い。

 

 

 ──心中を吐露したにも関わらず、憎さを差し引いてもすっきりしない。腹落ちしない。さすがの僕でも、かりそめの鬱を盲信できるほどnaiveではなくなったのだろうか。まったく僕の人生は、できないことばかりが増えていく。

 

 

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気分転換に、最後に好きな曲を貼って締めたいと思います。

 

「成るように成るよ」と云う

その言葉まだまだ信じる事出来ないとしたっても、そうだよ

 

 


Base Ball Bear - 神々LOOKS YOU

 

 虫けらなりに息をしていこうと思う。虫ケ・セラ・セラのスピリットで。