語りすぎてはいけない

 

 千葉雅也という若手の哲学者への異様な関心が、日々強まっている。最近は会話の先々で「千葉雅也という哲学者がいてさ、」という話を、自己愛を交えて展開してしまっている。まるで恋人であるかのような口ぶりで。その際、彼のセクシュアリティについて言及するかに関しては、多少のためらいがある。おまけに、ためらいを感じるということ自体に対して、不道徳的な何かを感じないこともない。ともかく、自分はわりかし、特定の人物に心酔しやすい気質の持ち主だと思う。時期に応じて心酔の対象たる人物が必要なだけだとも言えるが、彼氏を途切れさせたくない女の子と同じ穴の貉かもしれない。──そう書いてしまうと、自分の関心が虚偽である感じが募ってくる。書いたそばから、話したそばからすべてが嘘っぽく思えてしまうのは、一般的な現象なのだろうか。デリダ的な差延という発想が浮かんでくるけど、曲解したばかりに彼に張り倒されてしまうような気がしてならない。

 じっさい、千葉氏の著作を熱心に読んでいるというわけではまったくない。彼の専門であるドゥルーズや思弁的実在論についてはピンとこないし、ゲイカルチャーの話もなかなか馴染みが薄い。ただ、彼のツイート群には惚れ惚れしてしまう。著名な哲学者が日常から何を洞察、思索するのかを手軽に知れるとは、いい時代になったものだと思う。なんだ、普通の人間じゃないか──何をもって普通とするかという話を持ち出すのは野暮だろう──という安心感をもたらすものであり、かつ、やはり常人離れした見識の広さや表現の巧みさ、卓越ぶりへの憧れを抱かせる。彼曰く、ツイッターは140文字という制限下で、書き始めた瞬間から締め切りが設定されているようなものだからいい、ということらしい。 

 千葉雅也、あるいは千葉雅也なるもの──否定的な含意はいっさいないことを断っておきたい──への「羨望」は、研究者、さらに卑近にしてしまえば、大学院生という存在へのそれへと発展する。何か特別な職業や生き方への憧れというものは、元を辿れば特定の誰かへの強烈な感情へと行き着くものだろう。このたび彼が書いた『デッドライン』という処女小説は、修士論文の締め切り(=デッドライン)が迫る大学院生を主人公とする私小説であり、あらすじだけで僕の羨望を喚起するには十分だった。読めてないが。

 

 大学院生って、かっこよくないですか。単純な話。

 

 昨日、大学の授業終わりに友人と飯を食べに行き、最近は何もツイートすることがない、ブログもしばらく書いていない、という話をした。会話の内容を書き留めるというのは会話の真骨頂(だと自分が思っている)たる偶然性を事後的に脅かすことになるのではないか、というジレンマもあることにはあるが、こういうのはたいてい、書かないことの言い訳だ。別に会話に限った話でもないし、事後的に脅かすという説明も判然としない。だから会話の振り返りを続けようと思うが、何もつぶやくことがないというのは何も考えていないことを意味するのではないか、という疑念と恐怖が頭をもたげると僕は言ったのだ。これまでもおよそ何かを「考えていた」とは口が裂けても言えないが、身体の底から湧き上がってくる何かがあったはずだ。

 一つには、世界に対するあきらめが、自分に対するものへと転化したということが考えられる。具体的に時期を名指すことはできないが、社会への憤懣が募っていたシーズンを超えて、翻って世の中はえらい、すごい!人で溢れていて、自分が取るに足らない存在なだけだと痛切に感じるようになった。自己に対するあきらめと他者に対するあきらめは表裏一体で、認識の仕方の違いでしかないとも思う。

 しかしもっと直截に言うと、僕は語りすぎてしまったのだ。おそらく自分が持っているものの全てを出し尽くしたのだ。今年の夏休み、僕は一カ月の間に一年分の会話をしたんじゃないかと思うほど──普段あまりに会話を遠ざけているだけとも言えるが──、よくしゃべった。泊まり込んでの行事が相次ぎ、腹を割って話せる仲間を見つけることができた。以前からの関係性にも飛躍があった。あくまで偶然性に身を委ねつつ、存分にうっぷんを晴らしたのだと思う。一人に還って一息ついた頃にはすっかり空っぽになっていた。さらにはずっしりとした何かがのしかかってきた。そして、テクストへの欲望はもはや風前の灯だった。

 

 「大学院で研究をやっていくためには、テクストへの欲望がないとダメだ」という旨のツイートを見た、と友人に話した。「書き残すという欲望」ですよね、という返しが即座にあった。彼も同じツイートを見ていたらしい。そう、だから僕は大学院生にはどうしたって不相応な人間なのだ。結局自分は、偶発的なコミュニケーションの次元で満足できる人間なのだ。(テクストが必然的なものなのかというと、あまりよくわからないけれど。でも、きっとそうだろうと僕は思う。)偶然性・アイロニー・連帯。すると彼は思いもよらぬことを言った。「僕が覚えているのは、映像でも文章でも、何かを残したいんだと話していたこと」

 

 今の自分には、何も残したいものはない。しかし、何かを書き残したいと思えるようになりたい、というギラギラした感情は健在なようである。

 

 これまたタイムラインで目にした話なのだが、「大学生活というのは、いかに同じ言葉を話せる友人をつくれるかにかかっている」という意見には、心底同意する。同じ日本語を話せればいいというのではない。ある種の言語体系、言葉の温度感が似通っている人というのが稀に存在すると感じる。排外主義ではない。が、やはり語らえる相手というのはそうそういるもんではない。だからそのような出会いにはとことん感謝したい。その一方で、語りすぎてはいけないのだと思う。少なくとも僕のような人間の場合には。

 

 テクストへの欲望を絶やさぬために。書かれなければならなかったものを書き残すために。

 

 

 来年は就活するとおもうけど。(五七五、「はみ出したチン毛の影がチェスの駒」をリスペクト)