エピソード3

 

 今日は昼過ぎに起きて、家にいっさいの食材はないため空腹に耐えながら本を読んでいた。東京からパリ、パリからロサンゼルス、ロサンゼルスからウラジオストクといった具合に、あちこち経線を飛び移るような生活リズム。リズムっていうとなんか可愛い。風呂にいつ入ったかも思い出せず、髪の油分が気になってきたら暇つぶしに入浴するスタイル。

 登場人物たちがあたりまえに街に繰り出し、ハプニングが発生している情景を活字から想像していると、なんだかすごく違和感があった。普通に外出し、縦横無尽に街を歩き回るというそれだけのことが、ものすごい偉業のように思えた。

 空腹時にやたらとトイレに行きたくなるのはなぜだろう。わずかに体内に残存している栄養分を必死に搾り取っている証なのだろうか。それとも単なる頻尿傾向の現れだろうか。ここ一年くらい、自分は頻尿なのかもしれない、という疑念に憑りつかれている。この年齢にして、という羞恥心と危機感。実際、一日に何回トイレに行くのか記録を付けようとしたこともあるのだが、寝言を録音しようと思って一度も実行できたことがないのとよく似て、できたためしがない。検索によれば8回以上で頻尿ゾーンに入れるのだが、難なく超えているような気もする。

 

 ようやく食糧を求めて外に出ることにする。ついでに体を動かそうと思い、ほとんど穿くことのないスウェットパンツを探していると、大学に入ってはじめての恋人のパジャマが出てきた。大学に入ってとわざわざ書いたが、要するに生涯ではじめてであるし、初体験の相手でもある。別れた直後は相手に返そうと思っていて、向こうも連絡をよこしてきたのだが、いちど別れた相手に会う際のノウハウを知らなかったのでずっと放置していた。

 街の様子は正直、人々が外出を控えているようには思えない。感覚が麻痺しているだけなのかもしれないが、人通りが大きく減った気はしない。今月オープンしたてのハンバーガーチェーンに入ると、物珍しいものでもないのに怖いぐらい盛況している。同棲中だろうカップルが生活感を漂わせ、お年寄りたちが慎ましやかな会食をしている。僕もそこで食事を済ませる。さすがに友人同士の群れは目にしないが、そのぶん仲睦まじい男女が目立って気に障る。住まいもウイルスも運命も共にする彼らは、毎日何をして過ごしているのだろう。

 

 近くの公園に行くと、こどもらが元気に球技に興じていたため、もうひとつの鄙びたおもむきの小さな公園の方へ逃れた。老人がちゃんとマスクを付けて、石製のベンチに座っているだけだった。僕は鉄球を専用のケースから取り出し、久々の投球を始めた。

 毎度のことながら、通りかかる人の耳目を集めてしまう。的中した鉄球が弾ける音はかなり響くし、鉄球を投げるという行為じたいがすごく野蛮に見えるからしかたはない。人のよさそうな──これはトートロジーかもしれないが──おばあちゃんがマスク越しに僕に話しかけてきて、「これは何ていうスポーツ?」と訊かれた。

「ペタンクっていいます」

「ああ、これがペタンクね……。ボッチャ……? 似たようなのもあるからわからなくて」

「ボッチャは障害者向けのやつですね。ボールももっと軟らかくて、室内でできる」

「一回やってみようかなと思ったことがあるの」

「今度会ったらセッションしましょう、たまにここ来てるんで」

 僕は大学でこのマイナースポーツのサークルに所属している。サークルというのもおこがましいレベルの同好会で、僕らは自虐的に社会不適合者の〈自助グループ〉と呼んでいるが。構成員もほぼ男で、唯一の女の子はメンヘラ気質のため、構成員の一人の男と付き合って別れてを繰り返しているので、女子の数は0と1の間を揺れ動いている。この健全なのか不健全なのかよくわからないサークルにずっと属しているが、男子校で磨いた〈キモさ〉をいかんなく発揮できる場所として貴重なのは確かだ。

 

 鉄球はなかなか的球に当たらない。誰も見ていないのに首を捻ったりしてみせるのは自意識過剰という感じがして面白かろうと思ったうえで、投球ごとにわざと「おかしいな」とちょっと首を傾ける。というより、つい反射的にしてしまう動きに正当性を付与すべく、手の込んだ解釈をする。持ち球は3球しかなく1球を的にするため、すぐに球拾いに行かないといけない。球を拾おうとして屈むと、貧相な面持ちになった桜の花びらが球にくっついていた。そのあとマグネットの欠片がくっつき、投げ捨てても気づけばまた同じものがしぶとく球と同居したがっていた。気持ちが悪かった。

 久しぶりに運動すると爽快な気分になり、一時間半の外出でこれならコスパがいいなと思った。ほどよい疲れから帰宅すると寝落ちしてしまい、目覚めるとふと、恋人のパジャマを着てしまおうかと思いついた。さすがにキモが過ぎるかとも思ったが、自分はキモさにかけてもそれほど自信がないので、これくらい普通だろうと思い直して袖を通した。全身がガーリーなピンク色に変貌すると、昂奮が静かに歩み寄ってきた。

 洗濯してあるゆえ彼女の痕跡を嗅覚で認知できなくても、かつて女性が着ていたものであるという認識はあるため、それを着ていることに昂奮するだろうとは予想していたのが、沸きたっていたのはまったく違うタイプのものだった。おそらく鏡に映った自分に高ぶっていたのだ。え……可愛い……。言葉にはならなかったが、雄の自分が、雌の自分に欲情していた。あの瞬間、僕の体躯には主体と客体が共存していた。ただ女性ものを纏ったというだけなのに、自分が女の子みたいになれることにも底知れない快感を覚えた。無理矢理たとえるならそう、須羽ミツ夫がパーマンセットをはじめて装着したときも、こんな激しい情動が引き起こされたのだろうか。これは思いがけない革命的な発見かもしれない。