舞い踊る

 左、右にすれ違う人間をかわし、レゴブロックがそのまま巨大化したようなアパホテルを小馬鹿にしていると、橋、あるいは橋の上に着く。花が置かれ、供物のペットボトルがまた新しいものになっている。どこかしらの飲み屋から退出してきた男女五人組のうち、二名ほどが千鳥足、自分が属する団体以外の成員の千鳥足ほど不愉快なものはない。これは贔屓目の類ではなく、酩酊状態でないとあのステップが持つ芸術的センス、はわからないということなのだろう。

 かような(少なくとも、今この瞬間千鳥足をとっているという点において)どうしようもない人間も、彼らにとっての自分は何を差し置いても守りたいもの、慈愛の対象であり、執着の住処である。当然、わたしもわたしにとってだけ最重要であることは同じで、わたし以外にとってはどうだっていい。ということを思っていると、草だな、と感じた。草味がある。わたしにとって彼らはどうだっていいし、彼らにとって私はどうでもいい。でも、わたしにとってわたしは、彼らにとって彼ら自身は。そのことが、なんとなく、草だった。

 あるいは、過度に現代的な言い方を改めれば、仏教学者の鈴木大拙が好き好んだ「妙」「妙味」といった言葉で表せよう。そう、草=妙とみなしてほとんど問題がない。一週間前、わたしは確かに「生きているだけでいい」と何度も反芻しながら、三世紀以上にもわたって戦禍を免れた都市の石畳を踏みしめていたのだが、あろうことかかくモメントにおいては、絶望的な気持ちで千鳥足に不快感を催していたのだった。

 

 「生きているだけでいい」と恒常的に思えれば、どれほど楽なことだろう、と誰しも考えたことがあるようで、むしろ「生きているだけでいい」という価値判断は不当であることが自明視されているような世の中だから、そう素朴に思うことがそれほど馬鹿げたことではない、と確認した上で、このテーゼを提示してくれたのが、わたしが極私的に契約しているコンサルだった。このテーゼは、特に精神的、肉体的に窮まっている時こそ真価を発揮する。苦しい時、生きているだけでいいじゃないか、と思えれば、きっと苦しまずに済む。しかし、身も蓋もない結論をあっさり言ってしまえば、苦しい時というのはそう思えない状態のことで、そう思える状態は、苦しくない時なのだ。わはは! とはコンサル。

 

 ほんの一週間前、わたしは「生きているだけでいい」と細胞のうじゃうじゃが唸っていたのに、上下二本ずつの線路が望める橋の上に立っているではないか。大なり小なり躁鬱は毎日、温泉の男女の湯が定期的に入れ替えられるように、襲ってくるもんで、と精神状態を冷静に分析することも可能なのだが、それ以上に、先のテーゼが人生哲学のようなオーソリテイをなんら纏わず、単なる(あなたの)感想(ですよね)、所感の域を出ない代物であることが発覚したのだ。そう、単なる所感だった。

 金沢でスズキをフランス料理の文脈においた逸品をものし、フリーノライター(無料のブログをやっているから嘘ではない)を騙ってカウンターで店員を口説いてから、翌日に鈴木大拙館を訪問した、束の間のバケーションを愉しんだ、ことが最たる要因だったことは疑いようがない。大拙西田幾多郎から「行雲流水」な人だと寸評されていたことを、館のパンフレットで知った。中学受験ぶりくらいに目に触れた行雲流水に少し高揚し、すると「生きているだけでいい」という所感は、まさしく自然と一体化する(自然と人為という二項対立を崩す)ことなのだと直観した。

 

 ──で、あるならば。千鳥足とは、行雲流水の精神を体現しているのではないか。わたしは即座にワンカップ小関を掻っ食らい、彼らの舞踏会へ凛然と向かっていったのだった。