感情の剥落

 たった今まで、僕はある一つの気分に憑りつかれていた──「憑りつかれていた」と言えば、それがさも悪いものであったかのように思えてしまうが、そうではない。ならば、一つの気分があった、というに留めておく方がよいだろう。ある一つの気分があった。

 その気分とは、次のようなものだ。感情が、ない──。最近の生活からは、感情が抜け落ちている。そのような考えこそが、ほかならぬ今の感情なのではないか、という指摘ができるかもしれないが、あくまでそれは気分であって、感情とは異なる──僕はそう思う。気分と感情、語の使い分けに厳密な規則があるわけではないが、僕の中では、そのようにいうほうがしっくりくる、すっきりする、といった程度のものでしかない。言葉とは元来、そういうものだろう。なんならここで一度、意味もない言葉を叫んでみたっていい。(ご自由にお好きな言葉を。)

 感情がないという気分があるとき、とはいえ、感情はある──僕はそうも思う。感情はある。では、この気分を正確に表現することを試みれば、次のようになるかもしれない。感情、もしくはこの際気分でもいいが、そういう類のものを経験する(経験するとは「かえりみる」と言い換えた方がいいだろう)こと自体に、何らの価値も置けなくなっているということだ。感情に価値がない、人が感情を感情として認識するのはかえりみることによってでしかないから、正しくは感情を経験することに価値がない、という気分が僕を襲うとき、その源は「目的」であろう。目的は人生最大の伴侶にして、獅子身中の虫である。

 

 人は目的から逃れることが、なかなか難しい。人といって格好つけてみたが、僕個人の話である。僕は僕個人の話しかできない。僕は目的から逃れられない。意味がないと生きていけない。僕は永年、人生の意味なるものについて考えあぐねてきた。いつも至る結論は同じで、その過程自体を楽しむことしかできない、というありふれた、余りにありふれたある種のオプティミズムに一瞬の猶予を得る、だけだ。ダンスを踊れと言われて自由に体を動かすことができないように、人は楽しむということがよくわからない。だから、その都度その都度で目的を仮固定することを必要とする。

 僕は大学生活のある時期から、意識的に目的から離れるようになった。目的は僕を苦しめるという直観を引き受けることにしたからだが、それはただ、「ケチくささ」に起因するものだ。目的がある限り、人は己のケチくささと向き合うようになる。余白を可能な限り削ろうとし、蕩尽することがなくなる。目的に寄与しない事柄を遠ざけるようになる。僕の場合は、目的を信仰することもできず、したくないことはしない、かといってしたいこともしない、という状況に陥るようになる。そうして、ある一つの気分──メランコリー、陰鬱に迎えられる。

 その陰鬱に、今は襲われていたのだろうか。感情がないという気分、認識。今月の初旬に大学院の入試があり、先月から徐々にこの目的を意識させられてきていた。直前になってやっと踏ん切りがついて淡々と勉強をし、試験は無事に終わり、今度は卒論という目的が顔を出してきた。そのような背景がある。

 

 無目的というポリシーを抱くようになると、したくないことはしない、したいことはする、という行動指針が明確化される。ベンヤミンボードレールにそのイメージを見出した、都市を観察し、歩き回る遊歩者──フラヌールのような暮らし方が楽だ、という発想である。目的はないが、意味はある。意味を前もって定めるのではなく、おのずから発生するに任せる。そのこと自体が目的化しているという見方もできるかもしれないが、遊歩は目的それ自体ではないと思うのだ。目的のための手段でも、目的そのものでもない第三項──目的のない手段の台頭である。

 安穏な生活、という風にいえるとも思うが、心が満たされるわけではない。やはり、空虚は空虚である──目的がないのだから。その空虚さを肯定的に引き受けられないと、遊歩は始まらない。たちまち目的の方へ吸い寄せられ、仮固定し、再び厭気が差し、逃げ出す。その繰り返しこそが人の歩みに他ならないと、またしてもありふれた、余りにありふれた人生訓が頭をもたげる。

 そこまで把握したうえで、これから三カ月半あまり、卒論と格闘しなければならないのだろう。もっとも、今の感情の剥落は、卒論は一年がかりで取り組むもの、というTAのアドバイスを読んだことがきっかけなのだった。

 

 

 

楽しい話ができるようになりたい ゆうひんを。