生成したか せいせいしたか

 長らく文章を書いていないと、文章を書くことへのハードルが、書く文章へのハードルが上がってしまって、なおさら書けなくなる。なかなか返せずにいたラインは底のほうにたまっていて、定期的に(といっても一定の間隔で、ではもちろんない)、返さなきゃいけないし返したいなと思うことがあるのに、もう返すことはできないかもしれない。こういったおことわり〔理〕をはじめに記すことで、すでに文章を書き始めてしまったという既成事実をつくるため、こういった事柄を書いているのだが、これは最終的には消されなければならない。あたまのなかで思っていることと書くこと、考えていることと書くこと、のこまやかにいりみだれたしなやかな関係性が、ふっと現れてきて、風鈴の音がちりん。

 ことばが不自由になった、という感覚は断じてないのだが、不自由なことばが脳内をぐーるぐるしているのが最近の実情で、へんしんの途中だからしかたないのかもしれないけれど、不自由だ、不自由だ、もぐーるぐる、不自由にぐーるぐるしているのでありまして大変遺憾に思うところ。ことばを自由に吐き出していぜ、ラングを吐瀉していぜ、ラング吐瀉、ラングドシャしていぜ、ビーチフラッグスしていぜ、とかぶっちゃけたいところ。くそみたいなたとえであれなんだが、人間は食べたものでできている。というのが真実なら、人間のことばも読んだものでできているだろう。それが偏食であるのが最近の実情で、身体的な不調を抱えている。硬質な素材は消化に時間がかかる……。わたし不調ですわ。回文でもなんでもない。なんでもないや、ふたりならヤレルーヤ。

 胃腸の不調。伊調の不調。シスターフッドよ永遠にラングを排泄したいぜ、はい、せつしたいぜ、はいはいはいはいせつせつせつせつしてーぜ、(これがほんとうのくその話、くそみそのくそ、乳飲み子の地租)

 バイザウェーイ、(アンハサウェーイ、)齋藤陽道さんという有名な写真家の方がいるが、その齋藤さん(めっちゃ高尚な会話しかしちゃいけないアプリみたいな)がこんなことをつぶやいていた。氏曰く、「本を何冊か出してみて思うことは、本を出すために最も必要なものは学力の良し悪しじゃない。「自分の身体」と「自分の心」が等しく釣り合った状態において、ゆるぎなく吐き出せることばがあるかどうかにかかっている」。おそらくいまのわたしわ、ゆるぎなく吐き出せることばがなくて、なぜなら自分の身体と心がアンバランス山本だから、長谷川パーソンだから。ルサンチマン浅川だから。身体というか、もちろん胃腸の不調は抱えているのだけど、記号的身体とでもいうべきものか、要するにステイタスっすStudentという楔。「いんせい」という漆黒の堕天使。人間という神の言をbetrayしただってんし。キマってはない。ぜんぜんきわまってはないけど、ウラギマってる。要するに、非常に通俗的な言い方をすれば、身体に心が追いついていない、し、一生追いつきたいとも思わない。だって、ことばとか、失いたくないし。煮凝りたくないし。だって、青春はいちどだし、ラングドシャ、しなきゃだしっ!

 ある日書店でいただいたお手製の栞に、齋藤さんのことばがのっかっていて、彼の存在を知ったのだった。そのことばの反響はすごくて、わたしのうちに反響している。チントンシャンテントンなみに反響している。ちりん、ちりん。

 

 「声」は伝わらない。それがぼくの実感だ。

 「声」は沁みてすでにある。それもまた僕の実感だ。

 

そういうことばとの出会いを大切にしたい。であいのあわい、淡いの出逢い、わいの先祖はわいないな。

 

 そういうことばとの出会いを大切(おおぎり)にしたい。

 

 

参考文献

齋藤陽道『声めぐり』、晶文社、二〇十八年。

 

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