東大入っても品性は養われなかったイキリオタクの懺悔

捉えどころのない生の苦しみの中を、ユーモアと哲学で颯爽と駆け抜けていきたい。一介の冴えない大学生。

my note

昨日、生協でノートを買った。何の変哲もないB罫のB5ノート。100円を切るノートはこれだけ!という宣伝文句に踊らされて。家に帰ってちょっと考えて、無地の表紙に「my idea」とサインペンで書いてみた。俺という人間を象徴するかのような、ちっちゃい文字で。

最近、といってもずっとそうなのかもしれないけど、店の文具コーナーにはやたらと趣向の凝らされたノートたちが並んでいる気がする。アメリカのどっか有名な大学での研究に基づいた、これを使うだけでアイデアが生み出しやすくなるとかいうノートだったり。議事録や板書を書くメインの欄とは別に、自分の意見などを書き留めるメモ欄があるタイプとか、めちゃくちゃシンプルな方眼ノートとか。主に大学生やビジネスマンがターゲットなんだろう。そういえば、賢い人はなぜ方眼ノートを使うのか、みたいなタイトルのうさんくさい本まであった気がする。ちょっと前には『東大合格生のノートはかならず美しい』という本が流行ったこともある。まあ、大げさに言えば、いいノートがいい人生を作り出す、ということらしい。俺はノートをそこまで大事だと思ったことはないし、というかノートを使うのがめちゃくちゃ下手だ。まとめノートなるものは最初の半ページぐらいで飽きるし、せいぜい授業中の暇つぶしに板書をとるぐらい。先生の話をせっせとメモするような気概もない。だからノートの重要性を叫ばれても心が動かされることはなくて、何ならちょっと冷めた目でみるような、いやデバイスより地頭でしょ、みたいな。書かなくても覚えられるし。イキリオタクは勉強のコツを聞かれるとノートはとらないって絶対答えるよね。俺は自分の頭が大したことないのは知ってるから、さすがに言えないけど。

でも昨日、ノートを買ってみた。実家には使ってないノートが大量にあるはずだから、貧乏性な俺はちょっともったいなさを感じながらも。ちなみにノートが無駄に余ってるのは、塾がビラにくっつけて配ってるノートをもらいまくっていたから。今思えば、配布バイトの兄ちゃんからしたら俺は救世主(メシアケチ)だったろうなあ。

実は前からノートを買おうと思っていた。自分の思考をメモするためのノート。思考っていうと大げさに聞こえるけど、ただただ思った・考えたことを吐き出す場所。『僕がブログを書く理由』で書いたことと被るが、自分の脳内だけにとどめておくのはもったいないから。忘れるかもしれないし、何より一度書いてみる、文字化してみることで新しい考えが浮かんでくる気がする。人と会話しているときが最も頭が活性化するらしいけど、手を動かしているときもそれに匹敵すると思う。見えないよりは見えた方がラクだろう。今まで書くのをどこか恐れていたのは、全てを放出してしまったら、自分の頭が空っぽだとわかってしまうと思っていたから。でもそうじゃなくて、書くことで新たなアイデアが浮かんでくるんだ。少なくとも可能性は高まると思う。実際この記事だって、「アイデアを メモするための ノート買う」ってたった十七音で終わる内容だろ?でも書き始めたら、結構長くなってる。回り道をする人生が楽しいように、冗長な文章ってのも味があっていい俺は思ってる。だからというわけじゃないけど、2行・約60~80文字に凝縮しなけりゃならない東大の現代文はすごく苦手だった。

少し話が逸れた。これまでは「ノートを買おう」という頭の中での決意すら、それを書き留めるノートの存在がなかったことで消え失せていってた。だから今回実行に至れたのは、割と奇跡だと思う。その前に受けた授業で色々考えたことがあって、それをどうしても残しておきたかったから。忘れるのが怖かったし、ブログのネタにしようとも思った。どうせ日の目をみることはないだろうし、書いておいたって仕方ないって思ってるダサい自分もいたから、ブログを始めたのはよかったかもしれない。結局まだノートは白紙なんだけど(買った直後、書こうと思って食堂に席を探してたら友達とバッタリ会って)、とりあえず買えたからよかった。好きなアーティストは歌詞作りのためにノートを使ってるし、憧れも抱いている。俺はアーティストじゃないけど、その真似事をするぐらい許してやりたい。理想は自分が脳内で発した言葉を瞬時に文字に起こしてくれる機械の誕生で、それまでは何ともアナログな方法でやっていこう。どんな時代でもアナログは侮れないと思う。古い人間だと言われるようになっても構わない。本来古いという言葉にマイナスの意味合いはないはずで、イメージを植え付けるのは人の勝手だから。