人には人の、生活リズム。

今朝は7時に眠りについた。

課題があったので本来は12時に起きたかったが、6時間は寝た方がいいと思い13時に目覚ましをセットした。

何度寝かを繰り返して、起床したのは16時。

 

昼夜逆転に成功してから、1カ月は経っただろうか。

成功という言葉遣いも変だが、一回試してみたかったところはある。

朝起き、昼活動し、夜寝るのがそんなに大事なことなのかと、ずっと疑問だった。

もちろん今までも生活リズムは崩れていたが、今回は作為的にした。

昼夜逆転にネガティブな感情を抱かず、むしろストイックに昼夜逆転していこうとひそかに誓った。

ストイックという言葉とは程遠いこの俺がである。

そしていとも簡単に成功した。

自分の身体がまさに適合していた。

生まれつきそれが最善だったのかもしれないと思えるほどに。

もちろん早い時間から予定が入ることもあったが、生活リズムは崩れなかった。

不思議と今のリズムに収束していった。

今まで保てたことなんてなかったのに。

俺の貧相な身体は意外と意地っ張りだった。

 

さて、昼夜逆転の生活ぶりとはどんなものだろうか。

俺の場合は朝の7~9時ごろ寝て、昼の3時か4時には起きるから、まだまともな方かもしれない。

夕方から夜にかけてはバイトなりサークルなり何らかのイベントで外出することが多い。

しっかり休息を取った後だから、コンディションは好調だ。

これはメリットの一つ。

体力がある状態ならば、人に会うのも億劫ではない。

必要最低限を上回る会話もできる。

帰宅してからは、人々が寝静まり落ち着いた街で、優雅なアフタヌーンを過ごす。

俺にとって昼間は明るくて、何かしらの活動を迫られる感じがして、精神がしんどい時があった。

反面、夜はいくらでも無為に過ごしていい気になってくる。

夜更かしという言葉が似合う情景を思い浮かべてみればよい。

おおよそ怠惰。わずかに内省。

生産的と呼べるような時間は全くないまま朝を迎え、少し遅めの夜ご飯を食べ、明日へと飛び立つ。

21年間生きてきて、ようやく自分の居場所を見つけられた気分だ。

 

いま、俺の胸にのしかかってくるものが二つある。

一つは、留年への不安。

まだ前期課程修了要件を満たしていないのである。

もう一つは、この生活が終わってしまうことへの不安。

朝起きて昼活動して夜寝る生活に移行しなければならない負担。

今期は理論上単位を取らなくてもいいが、3年ともなるとそうはいかないのだ。

どちらになっても地獄が待ち受けているはず。

前者であれば生活費稼ぎに奔走することになるだろう。

後者であれば古代人に戻ってしまう。

究極の選択。

 

まだ猶予はある。

 

 

ゆうめいに、にゃりたい。

まずはこちらをご覧ください

 

 

わーすた / ゆうめいに、にゃりたい。 MUSIC VIDEO Short Ver. (The World Standard / Wanna Be Famous)

 

(誰も見てないと思いますが)良いですね。

 

僕も有名になりたいです。いや、かつてはそう思っていました。

高2の秋に東進に通い始めた時、最初にプロフィール表を書かされました。

将来の夢の欄があったので「世の中に広く名を知らしめる」とだけ書きました。

苦笑なのか冷笑なのかなんなのか、担任の顔はニヤついていました。

そして褒められました。

浪人中のこと。

模試ごとに各科目の目標を書かされました。

世界史の欄には「教科書に載る」とだけ書きました。

この時もなぜか担任から褒められました。

目標を高く持つことはいいことだと言いたかったのでしょう。

とにかく何か大きなことを成し遂げたいと、ぼんやり思っていた頃のかわいい話です。

今でも思わなくもないですが(笑)

 

さて、一口に「有名になる」と言っても、想像する程度には個人差があることでしょう。

アルファツイッタラーはフォロワー何人以上を指すのか、という質問に様々な答えが返ってくるように。

学校で知らない人はいないというレベルだったり、外出の際に周りの目を意識してしまうレベルだったり、まあ色々あるでしょう。

各種サービスが充実し、セルフプロデュースがぐっと手軽になって久しいですが、それでも一定の知名度を得るのはなかなか難しいのではないかと思います。

たとえ一部の界隈においてであっても。

今回はわかりやすい基準として、wikipediaに記事があるかどうかを提案します。

日本で一番ペタンクが上手な方が載っていないなど、しっかりした基準になるはずはないのですが、感覚的に近いと思いますし、そもそも漠然とした概念について考えるのですから許してください。

 

一応、wikipediaは記事にするにふわさしいかどうかの判断材料として、特筆性を定めています。

ここには「有名である」こととよく関連しているが、区別されるとあります。

全ての記事がこのガイドラインに則っているとは思えませんし、参考程度ということにしましょう。

今回は、日本において有名な日本出身の人物の割合を調べることにします。

自分がどの程度頑張れば有名になれるのかを知るためです。

現時点での日本語版の記事数は1,087,221本

このうち「存命人物」のカテゴリに含まれるのは、177,213本です。

さらにこのうちの日本人の数を知りたいのですが、さすがにそこまでカバーしていません。

日本語版であることを考慮すると、大体半分ぐらいは日本出身なのではないでしょうか。

半分と仮定すると88606.5本

日本の人口が1億2672万人(2017年11月の推計値)とのことなので、単純計算すると……

ちょうど0.07%ぐらいでした。

およそ10000人に7人という数字です。

 

価値判断は皆さんにお任せします。

ちなみに、各年齢における東大生の割合が約0.3%です。

これを考えると「東大生の上位1/4に入るぐらいのことか」と余裕な気がしてきますが、一万人が集められたホールでくじ引きが行われ、自分が7人の中に選ばれるかを考えると、まああり得ないな、となりますね。

不毛な議論ではありますが、やはり有名人と呼べるのは一握りということですね。

なので、自分に過度に期待せず、普通の人間だと思って生きていくのがいいと思います。

同年齢の人が活躍してるのを見ると焦りますが、その人が有名ゆえに情報が入ってくるだけのことです。

ほんとに世の中無限に人がいて、ほとんどが普通の人です。

少数の特別な人のおかげで豊かな暮らしができていることを幸運だと思いたいです。

 

 

 

 

エール-何事も頑張れない人へ-

皆さん、一週間の始まりを前に憂鬱な夜をお過ごしでしょうか。

明日を迎えまいと、必死に休日を引き延ばしにかかっているのではないでしょうか。

大して面白くもないタイムラインに、何のひねりもない鬱ツイートを張り付けていませんか。それはぼくだけですか。

ですが、それは無駄です。時は流れ続けますから。

余計な憂いや意地は捨て、今すぐ寝てやった方がいいでしょう。

大丈夫です、心配事の9割は起こりません。

 

完全に他人事のつもりで書きました。かつての僕は日曜日になればいわゆるサザエさん症候群に苛まれ、学校が始まるのが嫌すぎてサザエさんが打ち切りになる呪文を唱え続けていたのですが、長谷川町子の親族から慰謝料を請求されてからはやめました。

実際、今は完全に他人事となっています。平日も休日もほぼ等価だからです。学校に行くことを強制されはしないし、元々出たい授業もほとんどない。なんともお気楽な身分で、心配事の絶えない母親には申し訳なさまで感じます。

この生活が終わってしまうのが恐怖です。変な言い方ですが、毎日その日限りで生きたい。先を見据えて生活するのはしんどいです。たとえ楽しみなことであれ、どうしようもなく嫌なことであれ、予定を遂行しなければならないプレッシャーが心を蝕みます。予定があるということはあらゆる可能性が排除された状態で、それが嫌。未知な世界がワクワクさせてくれますから。

先のこと、考えたくないものです。あれをやってこれをやって……と思うとすぐやる気がなくなります。かえって何もできなくなります。するとどんどん時間が奪われて行って、焦りは募りに募り、追い込まれてゆく悪循環。皆さんも日々実感していることでしょう。

これを感じない人は強いです。みなぎるやる気に身を任せ、躊躇なく行動できます。そういう人になりたい。

そのためにはどうすればいいのでしょうか。

ぼくが思うには、やることを一つに絞るということです。そうすればto-doリストなんか作らなくても済みますし、事の優先順位に頭を悩ませなくてもいい。

能力の高い人はマルチタスクもなんのその、という感じかもしれませんが、多くの人にはそれができないはずです。ぼくはできません。第一志望の大学に現役合格した人がすごいとぼくが思うのは、そこなんですよ。よく学校生活と受験勉強を両立できたなと。僕には無理でした。どれどころか、僕の特性が災いして両方とも中途半端に終わってしまいました。後悔がないと言えば嘘になります。

だから、一つに絞ればいいんです。迷いが減って間違いなく成果が上がります。一つと言っても狭い範囲に限定する必要はなくて、広い分野でもなんでも、方向性が定まっていればいいと思うのですが。ではなぜそれをしないのか。

したいことが山ほどあるからです。将来のためにしておいた方がいいことだったり、何の得にもならないけど純粋に楽しいことだったり、周りがやっていることだったり、まあ色々とあるでしょう。僕みたいに開放性が強い人であればなおさら。

でも、果たしてそうでしょうか。やりたいことが本当にたくさんあるのでしょうか。本当は一つもないから、色々なものに食指が動くだけではないでしょうか。いやそうです。僕はそう思います。

めちゃくちゃやりたい、やってて楽しく夢中になれることがあれば、他のことは犠牲にできると思います。色々なことがやりたくなる人は、そこまでのものにまだ出会えていない、もしくはその域になるまで続けられていないのだと思います。

もちろん、他の観点からも説明できるでしょう。一つに絞ることへの恐怖心。それで成果があがらなければ、自分にはその方面への適性がないことが露見してしまいます。言い訳ができないわけですから。それから逃れるために色々と手を出してしまうのはありがちな話です。

他には多分野で才能を発揮し、頑張っている人と比較してしまいがちということがあるでしょう。ですけどね、まず何一つ成果を出せていない自分がそんなことするのはおこがましい、と胸に刻むべきです。無為な時間を刻んでる場合じゃないです。

「若いうちは色々やっておいた方がいい」とよく聞きますが、これは一理あるでしょう。自分の適性に気付くチャンスが増えるわけですから。ただ注意してほしいのは、別に「同時にやれ」とは言っていないところです。同時にやっても仕方ないと思います。集中的に取り組まないと「いい経験」なんていう中身のない言葉で終わってしまいます。

とここまで語ってきましたが、結局僕は色々とやってみようとしてるだけで、何もしていません。

それで幸せならばいいのではないでしょうか。

ただこんなことを書いてしまったのは、自身の現状に不満を抱えているからに他なりませんよね、ということです。

駄文失礼しました。

 

 

憂鬱の散髪

(前のブログを受けて正気に戻った俺)それでも、生きてるだけで試合終了が近づいてくるのって恐怖ですよね。厳密にはある行為が寿命を延ばす一方で、ある行為が死を一気に近づけてるんだろうけど。そんな機械みたいにできてないか。

生きることについて考えだすときりがないし、霧が晴れることもないから、視野を広げて別のものを見た方がいい。

何が言いたいかって、前髪が鬱陶しくなってきた。

 

憂鬱の散髪。

昔から散髪が苦手だ。小学生のとき、髪を切った翌日に学校で「頭切った?」と言われるのが嫌だった。しょうもない、いじわるな質問に付き合うのが嫌だった。いつしか面倒だから「お前は首を切ったらどうだ?」と答えるようになっていた。そんな最悪な返しをしてしまうぐらい嫌だった。友達を十人は失った。

あと、自分が他人に見られていることを実感するのが嫌だった。髪の長さが変わっただけでそんなに気が付くものなのか、とショックだった。当時は人から注目されたくなかった。まだイキリオタクになる前のこと。

中学生になると、少し見た目を気にするようになった。いつから近所の床屋に行くのをやめたかはっきり覚えてないが、おそらくこの頃。ただ髪型についての知識を何も持ちあわせていないから、要望を聞かれても長め、短めぐらいしか答えられず、恥ずかしかった。自分ごときが美容院に行っているということ自体も恥ずかしかった。先にコンタクトにするべきだった。

高校生になると、散髪する前にはネットで髪型に関する情報を集めたりしだした。「男 高校生 髪型」などと検索するとホットペーパービューティーとかまとめサイトが出てきて、気に入った髪型を見つけたりした。勇気を出して美容師さんに写真を見せたりして、自分の理想に近づけてもらうようにした。でも皆が経験済みだと思うけど、イメージ通りにはいかない。第一ああいうカタログは一流の美容師がパーマとかカラーとかにまでこだわって作り上げてるもので、カットだけではどうしようもない。本当にその髪型にしたければ、掲載されている店に行って諸々オプションを付ける必要がある。

あと肝心なのが、自分の顔面は変えられないという圧倒的な事実である。そもそもカタログの髪型自体、モデルの顔がいいかどうかでほとんどの印象が決まってくる。そういうわけで、美容院に行くのは無駄に緊張するうえ、満足感もそこまで得られないという愚行なのだった。浪人期までは4カ月髪を切ってないとかざらで、しばしば髪の量がヤバイことになっていた。

大学生になるとさらにわけがわからない理由で散髪が憂鬱になった。美容師と会話を成立させなければならないプレッシャー。大学生だと言うと自身の大学生活を振り返ってだろうか、色々な質問をしてきてくれるのだが、思った通りに答えていたんじゃ変わり者だと思われてしまう。サークル何やってるの、と聞かれてペタンク、じゃあんまりでしょ。ペタンクについて説明したって、それ面白いんですか?(笑)と呆れられるのが関の山だ。最近旅行しましたと言うと、誰とどこへ行ったのか聞かれる。一人で佐賀へ、なんて答えたらやっぱり怪訝な顔をされてしまう。

噛み合わない会話をおそるおそるするぐらいなら、違う自分を演じた方がいいんじゃないかと思うようになった。だからサークルは適当にテニスだとか、そしたらテニスの話題になってナダル強いですよね、など無難な話に持っていけるし、友達もいて充実した大学生活を送ってる感じを出す。彼女がいるとか言っちゃうと恥ずかしいからそこは触れない。こうすれば当たり障りのない会話ができ、お互い気まずい思いもしなくて済む。

これで問題は解決、かと思われたのだが、一つ不安が生じた。次に同じ店に行ったとき、前回の人物設定を覚えていられるのだろうか?と。向こうは絶対覚えてないだろうし、杞憂に過ぎないはずなのだが、ずっと通うとなると厄介かもしれない。ましてどうしても通いたくなるほど気に入ることもない。だから、毎回店を変えるようになった。人間関係を構築するのが苦手な俺らしい、妙な習慣。旅行前に空港で慌てて散髪したこともあれば、札幌のど真ん中の店を訪れたこともある。

これはずっとそうなのだが、髪が伸びてくると次こそはイメチェンしてみようかと思ったりもするのだが、なかなか勇気が出ない。髪を染めたこともない。大学に入ってから染髪禁止の本屋でバイトしていたので仕方ない部分もあるのだが、9月で辞めたのでもはや障害はない。 ただ、こだわればその分お金がかかるし、いい感じの状態って続いてもせいぜい二週間だと思うから躊躇う。似合うかもわからないし、博打したくはない。これが保守派のイカ東だ。

ただ久々に友人に会ったりすると、必ずといっていいほど「変わらないね」と言われるので、別に悪いことではないのだが微妙な気持ちになる。次は遊んでみようという気になる。アンビバレンス。

以上を踏まえて、今まさに迷っている渦中である。イメチェンするか、しないか。先延ばしにしても鬱陶しさの度合いが単調増加するだけなので、来週中には切りたいと思って二週間ぐらい経つ。ここまでつらつら書いたはいいけど、結局僕は後者を選ぶという確信がある。伸びきった前髪の隙間からでも、その未来はくっきり見えている。

 

 

 

鬱ぶってたってしかたない

お久しぶりです。前回の投稿からすっかり間が空いてしまいました。

皆さん読者登録ありがとうございます。率直に嬉しい。いずれ日本国民の教科書と呼ばれるようになるまで死ねません。

このブログを活動するための最後の頼みの綱にするはずだったのですが、それすら気が向かず日数を消化してしまい、自分を高く見積もりすぎていたなと反省しています。

今日はテンションが高いうちに書いちゃうよ!

 

やっぱり鬱は時間の無駄なんですよ。ちょっと鬱っぽいと外出するのも億劫だし、人に会うなんてもってのほかだし、だからといって引きこもってたら鬱が加速してく一方だし、どうにもうまくいかねえ!

俺は生きてる実感が欲しいのに、だから時が流れるのを観測してたいのに、気づいたらお腹がすいてて空は明るくなってて眠気が丁度いい感じになってて、で意志が弱いから寝てて。時が流れるのを実感してただけなのに。世間ではこれを無駄無駄無駄無駄ァッ!って言うそうじゃん。

なんで起きてるだけなのに眠くなんなきゃなんねーんだよ!クソ!

ま、時間を観測するなんて無理なんすよね。結局。何らかの他の活動をすることで、何とか生きてる感じを味わうしかないんすよね。まったく。何言ってるかわけわかんないよね。

で、まあなーんか退屈で、かといって何かしようとも思わないし一人で部屋で鬱々としてることが多い毎日だけど、まだ俺には生きる力があるんだって思ったりもしたんだ。

 

たとえば昨日は5限に出ようと思って、先週出された課題に取り組もうとした。

永山則夫に関する動画を見てレポートを書くっていうやつで、他の課題だったら義務感なんてポイして寝てたんだろうけど、面白そうだったからやろうと。

でまあせいぜい10分ぐらいの短い動画だろうと思って3時20分にyoutubeで検索して、再生時間を見てビビった。まさかの1時間30分。

永遠に間に合わんやん。いや永遠には間に合うんやろうけど、まあ授業には間に合わんやん。ちな4時50分開始。

あーもう授業サボっちゃおうかなあと思ったけど、これまで奇跡の全出席を果たしている好きめの授業だったから一旦落ち着いて考えた。

今からぶっ通しで見続けたら授業が始まる前かちょい過ぎたぐらいで見終わるやん。

それから授業中にうまいこと書けばええやんと。レポートといっても手書きで良かったから。

そっからの俺は久しぶりに生きてた。

服を着替える間もコンビニで朝飯を買う間も目線を画面からそらさず、どうしても見れないときは目を離す直前の画面を記憶して次の展開を予測し、自分で映像を脳内に流すという荒業をやってのけ、授業が始まるころに教室に着いた。なんとか見終わった。見ながらレポートに書ける論点も探して、構想は大体練れていた。

授業中はディスカッション中も脇目を適宜逸らしつつ書き進め、シャープペンシルの振動と脳内に流れるロッキーのテーマに合わせて講師の話に頷きつつ、1時間もせずに書き上げた。それも用紙いっぱいにビッシリと!

完全勝利。俺はまだやれるんだと思った。自分を追い込んだのは久々だった。思えばこれまでの人生も首の皮一枚のところで生きてきた。

留年だけはしたくない。頑張って3年生に上がれるようにする。この経験を自信にして。

 

木金と友人に会ってしゃべったからスッキリした。怪しいトークイベントに参加したし、エッセイ共著に向けての話もできた。能町みね子とも話せた。そういえば月曜だって服を買ったし、LINEミュージックの無料体験も始めたし、なんだ意外と活動してるじゃん。

そして何もしていない時間がもったいないとも思った。

活動しよう。最悪エッセイのネタ作りのためだっていいから。

よし。生きるぞ。

 

 

 

 

 

懺悔録#1 浪人したせいでバイトの面接落ちた話

こんばんは

7時寝15時起きの生活リズムがすっかり定着してきました

おかげで5限しか出れていない状況でございます(それでも5限出てるのはむしろ偉いかも?)

昨日は11時に起きたしちょっと遠出もして疲れたので帰ってすぐ寝ようと思ったのですが、電車で一駅分寝過ごした程度で眠気が取れてしまったようです

人体の神秘ですね(?)

 

というわけで特に書きたいこともないですが、こうしてキーボードをタイプしています

本当は読みたい本とかあるんだけどね、ちょっと目を動かすのがしんどいかな

 

まず良いニュースから

弊ブログ、なんと1000PV突破しました! みなさんありがとうございます

PVとはページビューの略で、このブログで言えばのべ何記事読まれたかということになります

同じ人が複数の記事を読んだ場合は記事の数だけカウントされますし、同じ記事を複数回開いた場合も回数分カウントされるというわけです

なんで1000といっても1000人が読んだというわけではないので、実はたいしたことありません

まあはてなブログの方から通知が来るので報告しておきました

僕の高校の後輩くんは、更新がない日でもチェックし全部の記事を4周したそうで、彼の意識の高さがうかがえます

皆さんも見習ってくださいといいたいですが、そんなに読まれたら恥ずかしいかもです

 

1000PV到達記念ではないですが、今回は皆さんお待ちかねの「懺悔」をしていきたいと思います

叩く準備はできてますか?

Here IKIRI go!

 

あれは4月上旬、2月に始まった春休みも3カ月目に突入し、中だるんでいた時期でした

何か新しいことを始めようと、あるバイトに応募したのです

それは日本語学校の数学(1A2B)講師でした

日本語学校というのは、日本への留学生が日本の大学入試(留学生用)に向けての勉強をする学校です

日本語や総合科目(社会科)についてはちゃんとした資格をもった先生が教えますが、主に理系科目は大学生のアルバイトが担当することが多いようです

人が足りていないんです

t-newsでこの案件を見た僕は早速応募フォームを開き、基本情報を入力します

そして自己アピール欄

まずは個別指導の経験などが豊富であることを、

次にセンター数学満点、東大二次試験数学74/80点と僕が証明しうる中で最もイキアピれそうな点数をオタク特有の高速フリックで打ち込み、

勝利を確信しました

 

案の定書類選考をかる~く通過し、面接の日がやってきました

面接は渋谷にあるトモノカイのオフィスで行われました

担当はMさんという方で、自身も台湾からの留学生であり日本の大学を卒業後、トモノカイに入社したそうです

面接は順調そのものでした

元々初対面の相手とはちゃんと話せるタイプなため、笑いも交えながら和やかな雰囲気で進んでいき、業務内容や条件についての説明・確認が終わり、

とここまでのMさんのリアクションから

勝利を再確認しました

 

これで夢の月収2桁生活突入かと思われた矢先、

履歴書の確認をされました

ただ別に動じることはありません

学歴だけなら文句なしのエリートである僕のことです

主な資格欄に中3で取得した英検準2級を書く余裕すらありました

しかしMさんは手ごわかった!

僕が思いもよらなかった箇所を指摘してきたのです

それは学歴の年度欄

2015年3月 私立○○高校卒業

2016年4月 東京大学教養学部文科三類)入学

おわかりでしょうか? そうです、この履歴書には空白の一年が存在していました

僕は一年間浪人していたことを素直に打ち明けました

なぜなら浪人したことに誇りを持っていたから

己の成長のためにあえて厳しい道を選んだわけですから当然です

言うなれば「俺は阿修羅。痛みを求め、戦い続ける者。」

 

しかし、どうやら僕は自分の価値観を盲信していたようでした

あまりにも狭い視野にとらわれた悲しい人間かな、知りませんでした

世間一般では、浪人は悪。無能。親不孝。恥知らず。精子からやり直せ。と罵倒されることを

Mさんもそのような考えの持ち主だったのでしょうか

明らかに渋い表情に変わります

一週間後に送られてきたメールからは、不採用の3文字が浮かび上がってきました

僕の目には涙が浮かんでいました 

これぞ(ロ)オニ(ン)の目にも涙です(意味はちがいます)

 

改めまして、この場を借りて懺悔したいと思います

「浪人のくせに成績でイキってすみませんでした、全生命体に懺悔!!」

 

(この記事は浪人生を罵倒するつもりで書かれたものではございません、あらかじめご了承くださいませ。僕はいつだって浪人生の味方です。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

my note

昨日、生協でノートを買った。何の変哲もないB罫のB5ノート。100円を切るノートはこれだけ!という宣伝文句に踊らされて。家に帰ってちょっと考えて、無地の表紙に「my idea」とサインペンで書いてみた。俺という人間を象徴するかのような、ちっちゃい文字で。

最近、といってもずっとそうなのかもしれないけど、店の文具コーナーにはやたらと趣向の凝らされたノートたちが並んでいる気がする。アメリカのどっか有名な大学での研究に基づいた、これを使うだけでアイデアが生み出しやすくなるとかいうノートだったり。議事録や板書を書くメインの欄とは別に、自分の意見などを書き留めるメモ欄があるタイプとか、めちゃくちゃシンプルな方眼ノートとか。主に大学生やビジネスマンがターゲットなんだろう。そういえば、賢い人はなぜ方眼ノートを使うのか、みたいなタイトルのうさんくさい本まであった気がする。ちょっと前には『東大合格生のノートはかならず美しい』という本が流行ったこともある。まあ、大げさに言えば、いいノートがいい人生を作り出す、ということらしい。俺はノートをそこまで大事だと思ったことはないし、というかノートを使うのがめちゃくちゃ下手だ。まとめノートなるものは最初の半ページぐらいで飽きるし、せいぜい授業中の暇つぶしに板書をとるぐらい。先生の話をせっせとメモするような気概もない。だからノートの重要性を叫ばれても心が動かされることはなくて、何ならちょっと冷めた目でみるような、いやデバイスより地頭でしょ、みたいな。書かなくても覚えられるし。イキリオタクは勉強のコツを聞かれるとノートはとらないって絶対答えるよね。俺は自分の頭が大したことないのは知ってるから、さすがに言えないけど。

でも昨日、ノートを買ってみた。実家には使ってないノートが大量にあるはずだから、貧乏性な俺はちょっともったいなさを感じながらも。ちなみにノートが無駄に余ってるのは、塾がビラにくっつけて配ってるノートをもらいまくっていたから。今思えば、配布バイトの兄ちゃんからしたら俺は救世主(メシアケチ)だったろうなあ。

実は前からノートを買おうと思っていた。自分の思考をメモするためのノート。思考っていうと大げさに聞こえるけど、ただただ思った・考えたことを吐き出す場所。『僕がブログを書く理由』で書いたことと被るが、自分の脳内だけにとどめておくのはもったいないから。忘れるかもしれないし、何より一度書いてみる、文字化してみることで新しい考えが浮かんでくる気がする。人と会話しているときが最も頭が活性化するらしいけど、手を動かしているときもそれに匹敵すると思う。見えないよりは見えた方がラクだろう。今まで書くのをどこか恐れていたのは、全てを放出してしまったら、自分の頭が空っぽだとわかってしまうと思っていたから。でもそうじゃなくて、書くことで新たなアイデアが浮かんでくるんだ。少なくとも可能性は高まると思う。実際この記事だって、「アイデアを メモするための ノート買う」ってたった十七音で終わる内容だろ?でも書き始めたら、結構長くなってる。回り道をする人生が楽しいように、冗長な文章ってのも味があっていい俺は思ってる。だからというわけじゃないけど、2行・約60~80文字に凝縮しなけりゃならない東大の現代文はすごく苦手だった。

少し話が逸れた。これまでは「ノートを買おう」という頭の中での決意すら、それを書き留めるノートの存在がなかったことで消え失せていってた。だから今回実行に至れたのは、割と奇跡だと思う。その前に受けた授業で色々考えたことがあって、それをどうしても残しておきたかったから。忘れるのが怖かったし、ブログのネタにしようとも思った。どうせ日の目をみることはないだろうし、書いておいたって仕方ないって思ってるダサい自分もいたから、ブログを始めたのはよかったかもしれない。結局まだノートは白紙なんだけど(買った直後、書こうと思って食堂に席を探してたら友達とバッタリ会って)、とりあえず買えたからよかった。好きなアーティストは歌詞作りのためにノートを使ってるし、憧れも抱いている。俺はアーティストじゃないけど、その真似事をするぐらい許してやりたい。理想は自分が脳内で発した言葉を瞬時に文字に起こしてくれる機械の誕生で、それまでは何ともアナログな方法でやっていこう。どんな時代でもアナログは侮れないと思う。古い人間だと言われるようになっても構わない。本来古いという言葉にマイナスの意味合いはないはずで、イメージを植え付けるのは人の勝手だから。