【問題提起】なぜ勉強するのか?

久しぶりにブログを書こう。

 

これまでなんとなく解答を曖昧にしていた、

「なぜ勉強するのか?」

といういつの日も大人たちの頭を悩ませてきた問いに対する、個人的な見解を示したい

 

この問いに自信をもって答えられる人は少ないのではないか。

 

勉強の定義は何でもよいと思ったが、広すぎると雑駁としてしまうので、教育機関における学びということにしたい。特に学問というものを念頭に置いて話す。

 

目的がはっきりしている場合、例えば国家資格や受験勉強であれば、それに受かるため。将来の仕事や実生活で必要な知識やスキルを身に付けるのも、生活のため。つまり、(主に金銭面で)より充実した生を送るためである。

目的がはっきりしていない場合は、「教養のため」とか「知的好奇心を満たすため」とかいう内容のない解答になるだろう。これも結局は、(主に精神面で)より充実した生を送るためということに他ならない。

そして、この2つは相互に行き来するということはいうまでもない。

 

とても乱暴な議論だが、勉強するのは「より充実した生を送るため」とまとめてしまって差し支えないように思う。

 

うーん、なんか釈然としないではありませんか?

僕もこのように抽象的な答えをとりあえずの精神的支柱にして、これまで生きてきたんですけども、それだと

なぜ生きる?→色んなこと(世界)を知るため、知的好奇心を満たすため(そのために勉強する)→(上記の議論から)より充実した生を送るため→なぜ充実した生を送りたい?→生きているから→なぜ生きる?

という風に、生きることそれ自体が目的となり、循環論法に陥ってしまう

(もちろん、生きる上での欲求を何にしたところで、こうなってしまうことには皆気付いていると思います。それを承知の上で、よりよい生を追求しているのだと思います。簡単に言えば「生まれてきたからには」ってことですね。僕が後述する理由も突き詰めれば袋小路に行き当たる困難さを排除できていません、ということを予め断っておきます。)

 

しかし最近、勉強する(正確には「したい」という段階で留まっている)理由が2つほど浮かんできた。

全く斬新ではなく、それぞれ「教養のため」「知的好奇心を満たすため」を具体化しただけなのだが、

底の浅い人間になりたくない」と「なぜかくも世界は不条理なのかを暴きたい」ということである。

 

「あさましい理由やな~~~」

って自分でも全力で思う。

けど仕方ない。自分が、いや人間という存在が、そもそもあさましいのだから。

 

今回はここまでにして、次回からこう思うに至った背景を説明したい。

 

 

GO!GO!7188

うずうずしている 

何かやりたい

でもやりたいことがない

ロック / GO!GO!7188

 


GO!GO!7188- 『ロック』

 

GO!GO!7188は、2000年にデビューしたスリーピースバンド。2012年解散。

代表曲は『こいのうた』でしょうか。00年代前半に特に人気を集めたそうです。チャットモンチーが出てくる前ぐらいですかね。なので僕はリアルタイムで知りません。

中学生のころ、ベストアルバムを聴いていました。そして大学生になって、ふと思い出して聴くことがあります。相変わらずベストしか聴いてないけど。

『文具』『浮舟』『おとなのひみつ』『おとなのくすり』『C7』『ジェットにんじん』などなど、独創的なタイトルに面食らいます。好きな曲を並べただけなんですけどね、文具ってマジでなんやねん!

どんな過激な曲なんだろうと思って聴くと、意外やキャッチーなメロディー。どこか懐かしい感じと確かなロック感、女性ボーカルの力強い声。確かに、当時GReeeeNやファンモンを熱心に聴いてた僕は、なんやこれって思いましたけど、聴いてるうちにハマりました。大学に入ってからは、もっともっと良さがわかるようになりました。そして、現在進行形でベスト以外の曲も聴いていますがいいね!

 

話を戻そう、てかちゃんと始めよう。

別に音楽の話をするために冒頭の引用があったわけではないです。今の気分を率直に表してくれる詞が浮かんできたからです。

こんな気持ちになったこと、皆さんもあるのではないでしょうか。なんかやりたいけど別にやりたいこともないし、あるいは、やりたいことは沢山あるけどどうしてもやりたいってほどのことはないとか……。僕は人生のどの時点でも、こういった悩みに取り憑かれている気がします。

何かに没頭するということがない。何かに傾倒してみたい。アーティストや作家のwikiを見てると、必ず出てくる傾倒というワード。頽廃の中にある傾倒。うん。めちゃくちゃカッコいい。大学生の今がラストチャンス的な感じもあるし、傾倒してえなぁ(こういう発想はめちゃくちゃダサい) 。けど「傾倒」って言葉の字面もニュアンスも登場シーンも何もかもカッコよく思える。一方で依存する人のことは基本的に小馬鹿にしてます。自分の存在証明に他人を使ってんじゃねーよって。無茶苦茶言ってます。許して。

 

けど最近は、とにかく勉強欲だけが強い。勉強したいし、しなきゃならないと思う。せっかく学びたい学科に入れたのに、消化不良じゃもったいないから。授業に出ているだけじゃ何も身に付かないなと、本当の意味で気付いて、それは授業の意味がないというのではなく、自学自習も欠かせないということ。

教育学部の教育学という学問をやる学科なのですが、この教育学が難しい。まず教育学とはなんたるかがわからない。ざっくり言うと教育って生きることと密接に関わってるから、まず哲学を勉強しないといけない。哲学と一口に言っても、広すぎる上にじっくり深く向き合わないと意味がない。なので勉強頑張らんとな、と思うようになった。

 

普段ほとんどPCを開かないのですが(肩凝るから)、たまに開くとどうしても何か書きたくなってしまう。ということで無理やり記事を書きました。けど内にあるモヤモヤした思いを吐き出したぞ。

 

 

「頑張らせて神様

 

報わらせてなんて贅沢なお願いはしないから」

 

 

 

 

twitter、始めました。

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誰でも気兼ねなくフォローしてください!

 

俳優に憧れる(憧れシリーズ2)

少々長いですが、お付き合いください。俳優になりたいという話ではありません。

 

今年に入り、ぼちぼち映画を観ている。ほとんど最近の邦画で、評論ほどの高尚なことは全くできないのだが、観て楽しむ分には自由だ。ちなみに今年映画館で観たのは『勝手にふるえてろ』『リバーズ・エッジ 』『娼年』『アイスと雨音』の4作。7月には押見修造原作の『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の実写化があり、今から楽しみだ。そして、今まで注目したことのなかった俳優という職業に、憧れに近い感情を抱いていると思うようになった。

本当に笑ってしまうぐらい単純な話で、続けて観た作品に同じ俳優が出演していて、それぞれ全く別の役柄を演じていること。そのことが、与えられた役を演じるのに徹することができるという俳優の特権に気づかせた。これは僕なりの歪んだ解釈かもしれない、が。

そもそも、僕は「キャラ」という概念があまり好きではない。そのくせ陽キャ陰キャと節操なく口にしてしまう点は反省したい。誰しも一言では片付けられない特徴を持っているものだし、集団の均衡を保つために、期待される役割通りに振る舞うということがどうにも息苦しい。キャラなり立ち位置なりが、集団の結成には必ず伴う。それもあって、僕はあまり集団に属するのが得意でない。自分の果たすべき役割を見出すのが苦手だし、まして与えられたくもないのだ。常に素の自分でいたいという夢みるボーイなのである。

人生を有利にするために、不穏を巻き起こすことがないように、人はあらゆる局面で、演じることが求められる。言いたくもないセリフを発し、したくもない行動を取らなければならない。本格的に社会に出ればなおのことだろう。よく考えなくともそうしなければならないのはわかるが、腑に落としたくない。本当の自分を殺すのが、気持ち悪くて仕方ない。人生をつつがなく進ませるためだけに、というところがポイントだ。もちろん他者への思いやりの気持ちが内から湧き上がって演じるのは問題ないと思っているし、極力そうするべきだ。

ややこしい書き方をしてきたが、大事なのは「うまく生きるためだけに」「自分を殺して」「集団の中で自分が果たすべき役割を察知して」「その通りに振る舞う」ことが気持ち悪くてできないということだ。

 

 

俳優はどうだろうか。演ずべき役が与えられ、徹底してその役を演じることが求められる。自分を捨てて、その役に没入する。もちろん俳優一人一人には味があって大切な要素なのだが、役からはみ出さない範囲で感じ取れるものだ。変な言い方をすると、割り切って役を演じられるわけだ。それが仕事であり、自分がやりたいことだから。

僕は、割り切れない。まず、うまく生きるということが嫌いだ。うまく生きることが自分のしたい生き方なら問題ないし、否定する気もない。けど、うまく生きることで得られるものは全て虚しいと思っている。これは僕の人生観だ。「うまく生きる」の解釈は各人に委ねたい。一方の俳優はというと、自分で選び取った生き方だ。俳優になりたいから俳優になったはずだ。演技が好きだからその道を選んだはずだ。はなからスターになることが目的だったとしたらまた話は別だが、この点でうまく生きるとは異なる。

次に、自分を殺すという点に関して。日常生活での僕らは自己主張したい気持ちを抑えて、嫌々自分を殺している。本当に嫌々ね。俳優は演技において、思い通りに振る舞いたいという気持ちは持たないだろう。もちろん個性を反映させたい思いはあるだろうが(そもそも、なければ芸術とはなんなのかという話になる)、演ずべき役に個人のパーソナリティーを塗りたくりたいとは思わないだろう。さっきも言ったが、俳優という職業を自分で選び取っているのだから。

そして三番目、集団の中で自分が果たすべき役割を察知すること。自分に客観的な評価を下さないといけない。勉強みたいに偏差値で客観視できる項目はほとんどないから、本当に"察さ"ないといけない。これはとても難しく、心理的負担も大きい。僕は評価が高かれ低かれ、自分で自分を見積もるというのが恥ずかしくて堪らない。それが物凄い勘違いだったらという不安もある。(かといって、他人に下される評価も嫌いだが。高ければ驕ってしまう危険があり、低ければ辛くなるだけだ。)自分というものは真に知り得ないところに魅力があると思うし、暫定的なものでも評価は自己を破壊しそうで怖い。俳優にそのような察知は必要ない。だって元々脚本の段階で決められているのだから。

 

 

要は、僕が日常生活で「演じる」ことに抱く気持ち悪さが、俳優には存在しないのだ。だから憧れるのだ。「演じる」「演技」という言葉から負のイメージを取り除いてしまいたい。

決して、俳優になりたいというのではない。自分以外の人間になってみたいのではなく、むしろ自分にしかなりたくないと思い、俳優に憧れという感情を抱いたのである。この一見矛盾する感情、わかっていただけるだろうか。

 

 

感情、環状、行ったり来たり

 

生きてて、理屈っぽく考えれば考えるほど、やらなきゃならないことは一つもないし、やりたいことというものも欺瞞だという気がしてくる。

知らなきゃいけないことなんてない。勉強しなきゃいけないことなんてない。達成しなきゃいけないことなんてない。プレッシャーをかける必要はない。

ただ、みじめな思いを打ち消したいだけなのだ。周りに比べて劣りたくない、できれば優っていたい、それだけのことなのだ。

今や、自己愛は利己愛の十分条件に成り下がってしまった。

 

行動しない言い訳を探している。そしてそれらは概ね説得力がある、少なくとも僕にとって。

けれど、他人を冷めた目で見るのはよくないと思っている。むしろ積極的に尊敬している。

 

仕事というものをしたくないと、ずっとそういうことを考えている。労働は嫌だけど、仕事ならいいという人もいる。好きなことなら苦にならないとも。

でも、やっぱり仕事はしたくない。仕事とは根本的に他人(組織)のために事を為すことだと考える。売れる商品を開発したり、便利なシステムを構築したり。僕は、他人を第一に行動したいとは思わない。

もちろん暮らしていくための金銭は手に入るし、達成欲求、承認欲求が満たされる意味で、自分のためにはなっている。でも、それは生き長らえているにすぎないとも言える。僕は生きるために生きたい。

 

100%そうだということは断じてないだろうが、芸術や学問が一番近いのか? 自分のためである仕事とは。自分の内面を表現したり、自分の知りたいことを追究するのは自分のためでしかない。

けど、仕事にするためには、他人に認められないと成立しないから、やっぱりこれらも才能と情熱に依存してしまう。ので僕には厳しい。

 

そうすると、誤魔化して生きていくしかないのかなという結論に至る。実現可能そうな選択肢から一番マシなものを選び取って、半ば自分を奴隷化して、とりあえず生き長らえて、たまの気晴らしをありもしない生きがいにして。

 

現状は仕事もしていないし、衣食住に満ち足りた、好きなことに浴する生活を送っている。まあ、大学生って大体そんな目的でなるものだ。でも、物足りなさがハンパない。結局、自分がしょうもない人間だから。自分ってしょうもないなあと、一日に何回思うことか。他人と比較してもそうだし、理想の人間像と比べてもそう。後者の方が罪深い。嫌いな人と一緒に過ごしている時のことを考えてみればいい。

 

と、こんなことを思ってしまう瞬間が多いのですが、芸術に触れると心が洗われるし、新しい知識を得るとわくわくするし、○○したいという直感、衝動は大切にするべきなんだよね。

 

いつか立派な社会人になってたら、笑えるね。

みんなを笑わせられるように、頑張るよ。

 

P.S 大学3年生の諸君、家に届くインターン説明会の案内が煩わしい季節だね。

WANIMA

 

サンダーバードに乗りながら、WANIMAを聴いてる。

 

6時前に起きたので眠いはずだが、Googleマップと車窓の景色を突き合わせながらこれをちびちび書かんとしてるので寝ることができない。

 

ましてやWANIMAのうるさい声を聴いている。

 

WANIMAといえば紅白にも出場し、国民的人気バンドと呼べるまでになった。

 

ここで、日本人の半分を捨象してしまっている。陽キャの代名詞的存在、というより陰キャのアンチテーゼと言ったほうが的確かもしれない。とにかく、陰キャにはあまり馴染まなさそうな音楽を今、聴いている。

 

俺が陰キャの殻を被った陽キャというのではないし、陰キャだけど陽キャにも理解ある風を演じて陰キャ内でマウント取ろうとしてるのでもない(しそんなことをしても陶片追放されるだけ)。

 

単に音楽の趣味が普通にミーハーなだけ(さすがに最近のマイヘアとかフォーリミとかはよく知らない)だし、WANIMAがすごいということだろう。がらんとした車内でテンションが上がっているのもある。

 

大学1年の夏、よく聴いていた。その年のロッキンに(一人で)行ったら、一番でかいステージに彼らが登場して、遠巻きに眺めてると近くの地味目の女性が飛び跳ねていた。陰キャと断定するのはあれだが、彼らの音楽は万人向けなのだ。

 

けど、あの見た目はどうにかならんのか。

 

 

ところで普段から陽キャ陰キャという語彙を多用していると、ある人にそれってどういう意味? 陰キャっておとなしいだけじゃないの? と言われた。人には人の言葉に対する感覚がある。だからなんとも言えないが、外向的内向的みたいなイメージで使ってる。このトピックについてはおいおい書きたい気がする。大半の人がどっちとも言えない説もあるしな。

 

陰って字のせいで陰のイメージが無駄に強くなるというならインキャと表記すればいいだけだろう。

 

炭酸のはじける音を聴いた日

炭酸水を紙コップに注いだ。

炭酸水のはじける音を聴いた。

しゅわしゅわ〜と爽快な音だった。

飲んだ時より爽快な気がした。

飲むと刺激が強いから、ちょっとした痛みが走る。

それが好きだから飲むんだけど、聴く分には痛みを伴わず愉快になれる。

糸電話のように耳を紙コップに近づけてみる。

泡が破裂して耳に冷たさを感じる。

しばらくして炭酸水が汚染されてしまう気がして、やめた。

今度は上から覗いてみる。

泡が下から湧いてきては割れていく。

それが煩悩であってほしいと人は思うかもしれない。

しばらくしたら全て消えるから。

古来から人ははかない喩えに用いてきたけど、炭酸水の泡は特別にしよう。

はじけてしまうのが爽快だから。

 

今まで炭酸水に耳を傾けたことはなかったのに、今日はそんな気分だった。

取り立てて静かでもない部屋で、あの音がふときこえてきた。

一度意識してみると、意外と大きな音を立てていた。

そういう日だったんだろうか。

ところで古来という語句を使ってみて、炭酸水の起源が気になったので調べた。

ちっとも想像つかなかったけど、1769年に発明されたらしい。

意外とそんなもんか。

てっきり平安時代の書物とかに記述があったりしないかなと思ったけど。

よく考えたらおかしいか。

僕の期待は泡と消えてしまった。

 

けど、よく調べてみると、世界で初めて炭酸含有の飲料を作ったのはクレオパトラだという。

ロマンを感じた。

彼女もこの音を聴いていたんだな。

 

 

活動的な人に憧れる

活動的な人は素晴らしい。忙しいアピールも、アピールできるものがあるだけ僕より数倍マシだと思うし、本人が充実を感じられているならそれだけで素晴らしい。もっとも、それすらする間もない人もいっぱいいるはずだ。

 

僕がいう「活動的」って何だろう。アクティブってこと?(英語にしただけ) 「活動」をよくしている人のこと? その活動って何? 多分、「やりたいことをやる」あるいは「やりたいことに繋げるため行動する」ことが活動なんだと思う。生活のために必死に働いている人に対して、活動的って言葉はあんまり適さない気がする。仕方なく早起きして働いて、って仕方なく行動してるだけだから。一日中家にこもって本を読んでいる人のことも、活動的とは言わない。けど、僕は活動的な人だと思う。きっと本が好きで好きでたまらなくてそうしてるんだろうから。やりたいことやりまくってるじゃん。色々首を突っ込んでる人ももれなく活動的だし、「イキイキしてる人」って言ったら"活"のニュアンスが出るだろうか。

 

その点でいくと、僕は活動的になれていない。だからこそこんな愚痴を書いているわけだ。義務に追われてやりたいことをやる時間がないわけではない、決して。やりたいことが皆無なわけでもない、むしろその逆。学問して小説読んで音楽聴いて映画観て短歌詠んで記事書いて……と家で出来ることですら山ほどある。だが、どうにも消化不良。脳がパンクしている。絶対にやらねばならぬこともないから、自分で優先順位を付けられない。常に迷いが生じる。この負荷がでかい。結果、Twitterに逃げてしまう。

 

先程バッテリーの使用状況を確認すると、過去1週間でTwitterの時間は19時間、スマホの総使用時間はざっと42時間だった。1日6時間スマホって素直に病気だと思う。起きてる時間の1/3を優に超えている。そのうち幾らかは前述の用途に使ってるにしろ、Twitterは揺るがない。病気だと思う。何度でもいう。病気に他ならない。もしかすると不治の病かもしれない。スマホの使用時間が長いのが一概に悪いというわけでなく、無為な時間が長いのが悪なのだ。Twitterでも積極的に自己アピールに徹しているなら、やりたいことに繋げるための行動だから余裕で活動。僕はほとんど目的もなくTLを眺めてるだけだ。潰す必要もない暇を潰すために。

 

自分語りが過ぎた反省なんか個人ブログでしなくていいけど、自分でも書いていて馬鹿すぎるなあと思った。僕の周りに活動的な人はたくさんいるし、見習いたいところだが、一体どういうサイクルを回しているのか、まったくもってわからない。本当に同じ時を生きているのか? 密度があまりにも違いすぎやしないか。彼らが21,2年生きてるとすると、僕はまだ高校生になりたてぐらいな気がする。成長が遅い、と思う。活動してないから。

 

目の前のことに夢中になれた時代に戻りたい。一日をどのように過ごすかなんて考えたことなかったはずだ。ドラえもんが読みたいからドラえもんを読んだし、日記を書きたいから日記を書いたし、友達に誘われたから遊びに出かけた。塾の宿題は放置しても気にしてなかった。どうせ気にしてもやらないのだから、直前まで無視したほうがいいと真理に到達していた。

 

活動的になれないことは僕の積年の課題だけども、やりたいことがたくさんあるんだから言い訳してる場合じゃない。人生は有限だ。遅すぎることは何もないと信じたいが、早すぎることが何一つないのは確定的だ。いつ死ぬかわからない。だから今を懸命に生きろみたいな考えはあんまり好まないけど、それでも時間は惜しい。生き急ぎたいわけじゃない。けど何をやるか迷っているうちに何もできなければ何の意味もない。現状に甘んじたくはない。燻ったままで終わっていいのか。それも苦しいことをやるわけじゃない。やりたいことをやる時間を増やせという話。ものすごく自然に即した生き方だ。だから活動しよう。さすらば道は開かれん。