実篤と光太郎の相克

 かっこいいかダサいかで行動基準を決める人間はダサくてキモくてしかたない*1、と思ったりするがこれ自体もう思想の面からDASAに染め上げられていてどうしようもない*2季節だが、ブログを書かない理由は山ほどあるが書く理由は一つもない、けど理由がないからといい書かないという道理もない、と前置きをする行為がおっそろしくダサいが、*1より完全に論破、しかし*2により逆論破!と一人で逆転裁判ごっこをするほどに過去のエモに縋り付いて今を乗り切ろうとするほどに病んだメンタルまいったまいった、別に逆転裁判とかエモくないけど。でもメンタルがヤヴァイっていうのは(話変わるけどツイッター能町みね子が何かの単語の表記を取り上げてbとvは違うんやでって幻冬舎まわりの誰かをdisってたの個人的にウケたな、個人的な話してすまんけどそれがブログってもんや)まあ確かで、別にいまさら言うことでもなく年中無休なのだが今回は「質的に」違うと思うんだ(大学生っぽい物言いカッコいい)ワ。たとえばGW終わりに突発的な熱が出たとする。吾輩は意外なことに身体が丈夫でめったに風邪などひいたりしないのであるが、この複雑怪奇な現代社会においては予想だにしない趨勢が襲ってくるもんでこと吾輩も例外ではなかった、ということだ。吾輩は台風よろしくひくたび風邪に名前を与えたりするのであるが、当の風邪は「少年革命家ゆたぼん」と名付けることにした。一般に人が病に臥しているとき何を思考するのかアンケート調査をして回ったことなどないので想像の域を出ないが、「この風邪が治ったらあの子と結婚するんだ」とかそういったロマンティック浮かれモードな散漫な事象に過ぎないのだろう。けしからん。(吾輩という一人称のタイプが面倒になってきたからキャラ変するけど、漱石も今の時代に生きてたらオワコンだったんだろうな)対する俺は(言霊の検閲により削除)ということばかり考えていて、さすがに今回の病気は偶然のものではなく自律神経の乱れが原因に違いないと科学的根拠のないまま断定し、いや俺いま自律神経乱れててさ~とか言ってみたいじゃん?、っていう根拠は一応あるにはあったが、熱下がりなば腹痛遠からじであまりに退屈で苦痛な時間を「はなおの動画を見漁る」というやけっぱちな方策をもってしか凌げず、make it possible withという文句がすっかり俺の中で流行語になってしまったが人と話す機会がないので披露する場もなく今も俺の前頭葉茂木健一郎のアンチなので脳の部位をこれぐらいしか知らないが、間違っていても許しておくれ)に棲みついていてmake it impossible with 生活。結局5日ほどで病状は快復し一足飛びに学校の相談室に向かいここまで述べたようなことをまくしたて、受付の方には大変ご迷惑をおかけしました。謹んでお詫び申し上げますっていう風に何を差し置いても謝罪の姿勢を見せることは大事と思っている社会の犬。その場では予約を入れるにとどまり、一週間後にれっきとしたカウンセラーの方に相談に乗っていただく機会が設けられた。始めによければアンケートを記入してくれと言われもちろん快諾すると、中盤を過ぎたあたり「性生活に不満がある」という質問項目が唐突に現れ誰に問いただされることもないのがわかっていようと率直にありのままに数字に丸を付ける胆力はなく「2.ほとんど不満がない」を妥協して選び気が滅入ってしまった。「なんで生きてるかわからない」という悩みは人類全体をもれなく不幸にする最低最悪な手札であるから、生活リズムがおかしいんですこれさえなおれば僕の人生バラ色なんですと端的に相談内容を伝えるだけにしておいた俺の判断は賢明だっただろうか。とりあえず睡眠時間を可視化しましょうということで渡されたのは週間活動記録表、ここに俺は睡眠こそが生活の最たる目的であるかのごとく律儀に寝ていた時間帯にだけボールペンで矢印を引き、やっぱ俺って自律神経乱れててさ~と頭をかいている。今日は何時に眠るのだろうか。 

 そろそろ俺も読者も飽きてきた頃だろうから話を終わらせにかかるけど、前述のような精神状態だったゆえ五月祭に行きたくなくてしかたなかった。五月祭とは本学の学園祭の呼称である。さつきさいとは読ませない(正しくは「ごがつさい」なのだ)ところがさすが一筋縄ではいかない東大といったところであるが(そうか?)、所属サークルが出す模擬店のシフトがぶち込まれていたので(せめてもの義理であった)土日両日嬌声響く本郷に向かったのである。日曜昼、索漠たる気持ちで一人所在なげに歩いていると、女を引き連れた知り合いがやたら目につく、もう印籠ぐらい強調してくる、強調するのは女のボディラインだけであれ、とひっそり悪態をつきつつ内心敗北感で一杯であることは自覚していた。そんな煩悩まみれの子羊がたどり着いたのは書道研究会が主催しているという書道展で、俺は一つの作品の前に立ち止まることになった。それは創作の作品であった。パンフレットを参照しつつその文字を確かめる。

 この道より我を生かす道なし この道を歩く

 「私が進学先を決めるにあたって、力をもらった言葉を選びました」と解説には書かれてある。武者小路実篤の言葉であるそうだ。俺はその決意の力強さにいたく感動してしまったのであって、その書家が在学中から筆を振るっていた母校の後輩であるとわかると、お前はずっとこの道を歩いてるんやないかとリスペクトを払い、俺が今探し求めているのはこの道であるのだと柄にもなく思ったのであった。四年生ということで就職にしろ院進にしろ周りが進路を固めていくなかで立ち止まっている自分はすっかり取り残された気分になってしまい、一応自分なりに考えてみてはいるものの生来の「うつりにけりないたずらに」的マインドが壁となりこの道を選べない。それが心から望んだものであるならともかく、何者かになることを拒んでいるといってもいい。自分の学問的関心領域をしっかり見定めて研究テーマを決めている学生が心底うらやましいし、かっこいいし、あこがれる。俺も自分の研究について語ったりしてみたいもん。ってここでかっこいいかダサいかどうかによる行動基準が顔を出すのであるが、かっこいいものにあこがれるのは自然だと思わざるを得ない。感情的に生きる人間の方が結果楽しそうに見えるのは気のせいではない。理性とは感情を記述するためのものであればよくて、抑止する作用は一切期待してはいけない。もちろんオンシャの内定を颯爽と勝ち取っていく姿も、己のセンスと心中する覚悟もかっこいい。世界はかっこいいであふれてる。かわいいが弱いものに対して使う言葉であるならば、かっこいいはきっと強いものへの言葉だ。俺は自分の弱さに嫌気がさしている。かわいいとも言ってもらえない意地汚い弱さが!

 武者小路の言葉に戻ると「我を生かす道」という表現がしびれる! 俺は俺自身を「生かす」道であり「活かす」道を模索している。自分のポテンシャルを一番発揮できる道を行きたいと甘っちょろいことを考えている。しかしそんなものは経験しないとわからないのでとにかく世のため人のために役立ちたいという思いに変容しつつあるが、やはり自分の存在理由は他人に帰すほかないのだ。自己完結型の生活にはうんざりなのだ。こう認めてしまうと普通の人間に成り下がってしまったような錯覚に陥るが、元から俺は普通の人間だし普通でない人間などいない。人類は退屈しのぎに差異というものを強調しすぎるからよくないのだ。強調するのはアレだけでいいといったところだ。ああ人の役に立ちたい、つまらない存在に意味を与えてほしい。七難八苦などはいらない。意味がないほどの苦痛ったらない。この思考法を解体しようと取り組んできたところもあるのだけど、意味のない無意味。

 

 一点だけ今日の気づきを補足する。

 「この道」とは選び取るものだ。目の前に広がるいくつもの道から、この道をただ一つ決定する。つまり示されているわけだ。これは「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」というドウテイ魂とある点では対立する。「僕はどう行こうとも思わない どの道をとろうとも思わない」いっさいなりゆき。ドウテイ魂の正統後継者である俺は高村光太郎の言葉を信じたいのだが、そうであるためにはやや「自律」神経が乱れすぎているといったところだろうか。

 

 

 make it possible with はてなブログ(イキリオタクとイントネーションが同じことでお馴染み)