古いアルバムめくり

 一人暮らしを経験すると、実家の煩わしさから解放されるとともに、有り難さにも気づくようになる。えらく機能的・実利的な考えになってしまうが、何をせずとも無料で食事が提供されるというのは大きすぎる。どうせ外へ出ても寒いだけなのだし、布団に篭って好きなように過ごし、腹が減ったらリビングへ向かえばいい。しばらく実家暮らしも悪くないと思う。バイトなど一生せずとも生きていけるだろう。実際は二週間もすれば飽き飽きしてくるのだろうが。

 帰省するとつい手に取ってしまうのが、過去にまつわる記録の類である。数字が大好きな自分は小学校時代からの模試の成績表を保管しているし、自分の文章力が着実に伸びてきた足跡を確かめることもできる。一方で高校の卒業アルバムというものは、あまり面白味のないものであった。僕が過ごした高校は中高一貫の男子校である。そのため中学版は存在せず、とそれだけならいいのだが、お察しのとおり男の顔しか載っていないわけである。一般に卒アルというものは、かつて特別な感情を抱いた異性を、甘い思い出とともにしかと眺め、その成否はともかく、確かな青春時代を築いてきたことを確認、安堵するためのものである。それが、僕の勉強机の本棚に無造作に立てかけられているものについてはどうだろう。開いたとて何らかの感傷が喚起される可能性はないに等しいのである。ときめきだけでなく後悔であっても、この際なんだって構わない。どんな青春小説より個人的な価値があるのが、高校の卒業アルバムであったはずだ。

 まさか十年前、小学六年生の自分が己の将来にまで考えを及ばせ、偏差値の高い男子校ではなく真っ当な人間性を育むに違いない共学校を選択するほどの用意周到さは持ち合わせていなかったのだから、仕方ない。そうとはいえ、塾で教わった受験に必要な知識以外には限りなく無知、純粋無垢な少年を欺き、どう足掻こうと少女の微笑みを垣間見ることなどできない特殊装置へと送り込むのはあまりにも無慈悲で、残酷な仕打ちだ。男女別学など到底有り得ないと僕は思うのだが、同じ試練を乗り越えてきた者に自分の息子にも同じ道を歩ませるのかと尋ねてみると、肯定的な意見を聞くことがある。高々顔の造形の二分の一を自分と共有する息子にだけいっぱしの青春を勝ち取らせるわけにはいかないというのである。恐ろしい憎悪、青春コンプレックスである。

 どういう風の吹き回しか、重量感があるだけで無味乾燥な例の書を繙く運びとなった。自分の顔が配置されたページを開くのはこの上なく恥ずかしい。僕の高校のアルバムは、写真・氏名の下に二十文字程度で自由にコメントを載せられる仕組みになっており、黒歴史製造に余念がない一定程度の同輩は、各々渾身の大喜利を披露していた。個人的なベスト3(といっても全員分を確認したわけではない)を発表しておくと、第3位「(1996-2035)」、第2位「古いアルバムめくり こいつ誰やってつぶやいた」、第1位「は常に前を向いている」といった具合である。

 所感も添えておくと、第3位は肖像を利用したdescriptionとしてはベタなものなのだが、2035年という年次設定が巧妙に思われた。彼は数学を偏愛する奴で、大学も特色入試で数学科へ進学したのだが、そんな才気溢れる人間に相応しい若齢で一生を完結させようという企みは、自分の才能と他者からの評価を存分に弁えた上での模範解答である。おまけに、数学界のノーベル賞と称されるフィールズ賞という数学の賞があるのだが、受賞できるのは傑出した業績をあげた"40歳以下"の数学者に制限されており、この規定をも念頭に置いていたのかもしれない。第2位は夏川りみの名曲をアレンジした、非常に明快でキャッチーなフレーズ。シンプルに笑えるし、シンプルにうまい。卒アルに寄すという特性をしっかり踏まえ、おまけに高校名(一応伏せる)を活用したダジャレになっている。第1位「は常に前を向いている」は、インスタントな理解は困難かもしれない。実際にアルバムを見れば一目瞭然なのだが、写真・氏名と渾然一体の、世紀の合作である。つまりは「○○○○は常に前を向いている」という文章が完成し、その通り前を向いている自身の写真の下に添えられるのである。お見事というほかない。さらに口を開いて歯を見せ、目を飛び出さんばかりに輝かせたスマイルも躍動感、生命力に満ち満ちてその生き様を正確に映し出しているようである。全てが計算された作品といって相違ない。

 と、開いてみると我が校の卒アルもなかなか面白いものではないか。 一方の僕自身は、失笑せざるを得ない代物であった。まず、表情がおかしい。澄ました顔を意識しようとして失敗したのか、単に写真撮影に不慣れなのが露呈したのか、鼻の下が伸び切り、さながら笑いを堪えているようである。さらにシャツのボタンが外れている。スクリプトは「─書いた、愛した、卒業した─」。スタンダールの遺言で墓に刻まれた"SCRISSE, AMO, VISSE"を踏まえての言葉であるが、別段思い入れがあるわけでもなく、単に聞き齧りの薀蓄に代弁させただけのことである。何の信念も持たず、聞こえのいい小洒落た言葉を以て六年間を装飾しようとする態度は、あくまで自分らしいといえば間違いないのだが。

 しかし今考えてみると、この言葉を選んで悪くなかった気がしてくる。みんなの秀逸な集大成を見て、ストイックに大喜利をしておけばよかったという後悔もチラッと浮かんだが、当時と今では状況が違う。以前、「人間は恋と革命のために生れて来たのだ」について書いたが、"SCRISSE, AMO, VISSE"も同類ではないのか。ペンは剣よりも強い。革命には言論が必要だ。恋だけで終わってよいのか。恋愛へと飛躍させよ。

 人生に必要なものは数少ないと、最近の僕は思う。