図画工作:課題「思い出を作りなさい」

 

 もう三週間以上も前のこと、深夜に堪えきれない思いの丈を下書きに書き殴った。そのことは確かに記憶している。今それを引っ張り出し、編集しようと思い立った。その時の僕の思考回路を等しく辿ることは到底不可能であるから、この試みが成功するかはわからない。もはや過去の自分から現在の自分へと、言語だけを介した翻訳に臨むような気持である。

 

 先日、大好きな文学作品が映画化することが発表された。僕は嬉しくて小躍りどころか追加料金を払い大踊りまでした。一方で「ついにか」と妙に納得、冷静な自分も当然同居していた。作品への想いを噛み締めていたらご飯を食べるのを忘れた。数日後に新たな情報が入ってきた。ある重要なシーンのエキストラが募集されたのだ。「皆さんとともに盛り上げていきたいと思います」当たり前だ。俺なくしてこの映画は成り立たない。もう、もうそれは、参加するに決まっている。確定している。定義されている。猛然と応募メールを打ち込もうとしたのだが、一応その日付を確認しておく。するとあろうことか、開いたスケジュール帳には「絶対に外せない用事」と書かれているではないか! 「バイト」「親戚の結婚式」とかならわかるが、絶対に外せない用事と書かれていた時の衝撃よ! おそらく君たちは経験したことがない。なぜなら自分個人のスケジュール帳において具体的な予定を秘匿する必要はないからだ。やはり過去の自分の思考回路というものは理解に窮する。ともかく、僕は大好きな映画のエキストラに出演できないとわかって、堪らなく悔しいのか悲しいのかなんとも形容しがたい初めての気持を味わった。端的には事を成すことができなかったということだが、当初から計画されていたわけではなく突如降ってきた機会だし、自分の不徳によるものでもない。僕はどう感情を扱えばよいのかわからなかった。

 ここから哲学の森の無免許ドライブが始まってしまう。臨場感を伝えるべく、先日の下書きにほとんど手を加えないままお届けしたい。

 

・『青少年のための自殺学入門』を手に取るに至った経緯(思い出が全てか)
 

 「そして、思い出というものの必要性に想いを馳せることになった。今回の件も、陳腐な言葉で言ってしまえば目的としては思い出づくりなのであり、というのもその記憶が完全に消去されるとしたらそこまでして参加したいか、と言われると微妙なものだ(記憶が保持されるなら、通常なら猛然と参加したいのであるが、ゆえにこんなものを書いてしまっているのであるが)。エキストラとして演技をしているその瞬間の楽しみだけを求めているわけではないからだ。映画を観た際に、自分がエキストラとして出演した事実を思い出せることが特権なのである。

 しかし、果たして思い出が全てであろうか?
 物事は何のためにあるのか。全ての営為はなぜ行われるのか。その瞬間の全身全霊、それだけのためではないことが大半であると思う。次へ、未来へ、未来の自分を立たせることに繋がるからこそ行われるのであり、であれば未来がなかったら? もちろん一回性の、その限られた時間で完結させるべき物事も存在する。(未来を否定して考えると)僕はそういうもののために生きているのだと気が付いた。

 先ほど、記憶が保持されないならば何とか溜飲を下げることはできると述べたが、それは違う。エキストラの詳細を説明すると、その物語の舞台となる実在の都市に行き、実際に代々行われている祭りのシーンを撮影するというものだ。この祭りのシーンは物語中でかなり重要であり(これを境に物語は次のステップへ移行する)、総勢数百人の人手が必要だという。これの何がいいかというと、まずその文学作品の舞台の地に行けるというのがそうだし、一番大きいのは、全国のファンが集って一斉に作品を現実のものに起こすという大がかりな作業を行うということだ。これは限りなく一回性の、限られた時間で完結させるべき物事だ。たとえ未来に繋がることがなかろうと(仮に映画の公開が中止になったとしても)、自分にとってはその瞬間だけに意義がある。だからなおさら、今回の件は悔やまれる。人生の最大の目的を逃したわけだ。

 

 しかし、現在も過ぎ去れば過去へ、思い出へと成り下がってしまうのではないか?

 僕は自分の果たされなかった気持ちを払い捨てるためが如く、過去は全て過去であるし、現在もいずれ全て過去であると、悟りに近いことを考えた。ただ一切は過ぎて行きますではないが、ならば何のために生きているのか、何のために未来がある、あるいは未来を志向するのだろうか? さっきは未来の可能性を否定したとて現在はまさしく現に在るのであって、そこに生きる価値があると言った。しかし、現在もいずれ全て過去であるならば、何の意味があろうか? 未来など言語道断だ。ツーステップ踏むわけであるから。過去になってしまえば一切が無に帰するのであれば、現在を現在のものとして完結させなければならない。自らを完全な形で満たそうと思ったら、必ず終わりを定める必要があると感じた。ここぞというタイミング、頂点に立った瞬間、絶頂の中で死ななければ欺瞞だと感じた。
 こうした経緯で死に興味を抱き、自殺というものは自分で生涯を完結させるための手段だと思うと、ある思想が思い当たった。そこで本棚から引っ張り出してきたのがこの作品である。
 

 ──死ぬ自由くらいは自分で創造しよう! 

 以前はなんら感傷を抱かなかった言葉が、今の僕には響いたのである。」

 

 理解されない人には何ら理解されないかもしれない。国語の入試問題のような、何ら理解できない文章を強制的に読まされる苦痛、あれに近いものを感じているかもしれない。しかし、誰もが中学生くらいの頃に考えたことがあるような内容ではないか? 生きるのが実に苦しくなったとき、生きることの価値を否定してしまえば驚くほど楽になる。価値を見出すから満たされない苦悩が必然的に生じるのであって、万物の価値を否定する。あるいは価値そのものを否定する。努力が得意な人であれば努力によって乗り越えていけばよいだろう。僕のように努力が不得手な人が打ちうる生への対処法は、未だこの程度のものしか発見できていない。かつて強く抱いていた生への諦めは、今なおこうしてぶり返すことが間々ある。

 

 僕はこれを書いただけでは飽き足らず、「思い出」について思索することになる。小学校では「思い出のアルバム」というものを制作したりもしたが、僕が引っかかることが多いのは「思い出を作る」という表現である。世の人々は往々にして(口に出すかはともかく)思い出作りなる名目のもと、思い思いのワイワイガヤガヤ・キャッキャウフフ的イベントの発生に精を出していると思われるのだが、思い出は作るものなのだろうか? ちなみに「(作られた?)思い出」には、SNSに投稿することで満たされる自己顕示欲や承認欲求、単にあるイベントを経験したという事実から生じる満足感(多くの場合、回数を意識している。初めては特別がち)という周辺事項も含めて考えている。それらは全てある出来事の過去性に意味を見出しているからだ。

 

・ブログ下書き「それでもなお、悶々と」(思い出は「作れる」のか)

 

 「(まだ僕は件を引きずっている) 映画の一部になるということに価値があるのだ。映画になるというのは瞬間の出来事ではない、できあがったものとして認識することによって生まれる快である。そして、というのは記憶に深く依存しているということだ。SNSの投稿などというのはすべてそれだ。終わった出来事をわざわざ報告するのである。報告で得られる快はその出来事による快とは違った性質のものだ。記憶に頼る出来事に、果たしてどれほどの価値があるのか。僕の疑問はそのように生まれた。

 物事の快には二つある。認識を経て快を得るものと、認識を経ずしてその場によって喚起される快。単純な時間軸の差異に由来するのではない。「俺は今これをしている」という認識が引き起こす現在行為における快もたくさんある。

 思い出は永続するから価値があるんだろう。思い出が尊いことは認めている。それにしても不思議な感覚である。立ち止まって考えると、まるっきりわからなくなる。でも、一瞬間の熱狂には勝ることがないように思う。比較軸などないし、勝る劣るではないのだろうけれど、熱狂というものはどうにも不遇な扱いを受けている気がする。すべて思い出に昇華されてしまっているからだ。瞬間は瞬間で留めることができない。記憶とは矛盾だ。僕は全身全霊で熱狂を感じたままに物語を完結させたいのかもしれない。やさぐれたアーティスト等が表明する意思に、初めて同意することができた瞬間である。

 思い出は作るし、振り返る。けど、「"思い出"する」ことはできない。つまり現在の行為としては成り立たない。確かに思い出の元となる出来事については、現在発生している。しかしこれが思い出として認識されるのは未来のことであり、現在ではない。だから思い出を作るというのは本来あり得ない(「カワイイ」は作れるらしいが)。思い出になり得るという次元の話に止まる。瞬間の出来事は過ぎ去れば、瞬時に思い出のフォルダに収まってしまえば、もう瞬間には回帰できない。

 思い出の次元に入り、それぞれに見合った時が経過し、様々な経験を積むことで快に転じる出来事はたくさんある。そこに思い出の真価がある。しかし、本来的に人生は思い出を積み重ねるものではないと思うのだ。その瞬間、熱狂できない営為に価値はあるか? それを求めずして、何を生きたというのか?

 本当は、思い出を振り返る暇すらもない生活が理想なのだろうか。そうなれば、僕の文章というものは全て消え去ってしまうわけだが。もっとも、今こうして文章を書いているように、過去の出来事、現在思い出となっているものを基盤として、現在について思いを馳せることから得られる快は人生の一つの意義に違いない。まさしく僕は今楽しんでいる。そして今後、何度もこの文章を読み返すだろう。それもまた別の形の楽しみである。」

 

 壊れるほど愛しても1/3も伝わらないのだから、今回の手記が1ミリも伝わらないことは百も承知だ。なんなら自分でも何を考えているのか把握できていない。僕は決して未来を志向すること、達成したという事実自体に価値を見出すこと、その物事の達成・実現のために現在を軽んずることを否定しているわけではない。自分もやっていることだから、肯定せざるを得ない。しかし、時折立ち止まって自分の足元を見つめたくなってしまう。自己を批判することは世間を批判することだ。至って平々凡々な思考しかしていない。今回の、現在も未来もいずれ過去になるという発想から生の苦しみを乗り越える試みは、客観的には破綻している。ゆえ、苦しみから逃れる術を僕はまだ知らない。根性論も価値の盲信も跳ね除け、生きていく方法を模索してくれる人を僕は応援したい。