東大入っても品性は養われなかったイキリオタクの懺悔

捉えどころのない生の苦しみの中を、ユーモアと哲学で颯爽と駆け抜けていきたい。一介の冴えない大学生。

クジラの日々(後編)

 

ikiriotaku.hatenablog.com

 

 なんて割り切れるはずもなく(親譲りの神経症だ)、腹も神に祈るほど深刻ではなかったから、数百メートル先にある大学へと向かった。5限は工学部の教室で、ストレス・マネジメント概論という授業だった(工学部というところがミソだ)。これまで初回を除いて奇跡と感動の全出席を果たしている、通称メンヘラ概論である。だから今日休んだところでこちらの単位は安泰なのだが、メンヘラの方が僕をおびき寄せてしまうのだ。

 そういうわけでテーマは僕と非常に親和性が高いのだが、似たような授業はこれまでも散々履修しておりほとんどが既知の内容なわけであるから、あまり実のあるものではない。どの講師も判を押したように淡々と授業を進める。必要十分な情報が載ったスライドを一定のリズムで繰っていき、抑揚のなさはむしろギャグなのかと勘違いするほど、周波数が変動しない。各授業の最後に長大なレポートが課されるのだが、用紙の下方に今回の授業は何点でしたか?という質問項目が置かれていて、僕は記入したことがない。自分を守るためだけの、かえって失礼な見せかけのやさしさを弄しなければ、どれも5点満点で0か1になってしまうから。

 

 今日の授業も違わなかった。タイトルこそ「ストレスとの付き合い方」と授業の名前と同内容であるため、短編集の表題作というものの全ては作者の自信作である、という偏見から期待したのだが、見事に恐ろしく退屈だった。陰鬱と退屈は全くもって違うが、上塗りされるものでもないから、依然陰鬱としていた。思うに陰鬱なときというのは、外部からの情報をなるべく取り込みたくなくなる。あらゆる感覚器官の動作を停止させ、内部から外部への自力脱出を試みたくなるのだが、結局はスーパーマン(時間)の救出が先になる。しかしながら、まさに陰鬱の最中においては、決して救われることは想定していない。

 することが本当に無いので、シャーペンを手に取ってキャップの方を持つというよりは軽く包み、重力にまかせて紙に向かわせてみた。鉛筆を振るとグニャグニャして見えるラバー・ペンシル・イリュージョンみたいに。はじめは白い部分を攻めていたが、次第にレジュメが黒くなっていくのが心地よくなり、文字の上にも被せていった。手に力も入っていって、完全に紙を塗りつぶすという態勢に移行した。どんどん闇が深くなっていく、黒塗りのレジュメ。黒鉛が紙を痛めつけるシャシャシャという音も快感に変わってきて(DVとはこういう構造なのだろうか)、隣の席の学生に迷惑でないか気を払いながらも、やばい奴だと認識されたい心理も働いてその行為を続けていった。無心になるのは本当に難しいことなのだ。

 

 ふと、こんな風に白い紙をひたすら黒で塗りつぶし続ける映像があったことを思い出した(ちょっと違うけど『くれよんのくろくん』なんて絵本もあった)。YouTubeを開いてなんとなくのワードで検索すると目的にたどり着いた。つくづくインターネットは便利だと思う。小学生まではネットを使わせてもらえなかったから、気になったことをすぐ調べられず(まあ母親が大体答えてくれはしたが)好奇心を無駄にしてしまっていた。

 目的というのはAC・公共広告機構の「黒い絵」というCMだった。「あ、これや!」すぐさま合点がいった。そしてこれを昔テレビで見て、(発達障害の)少年の母親に感情移入してしまい、なんとも言えず悲しい、苦しい気持ちになった記憶も蘇ってきた。家を出る前に思い出した貧困家庭の子どもにしろ、この発達障害の少年にしろ、僕が苦しくなるのは彼らの心中を測ってのこともあるのだが、何より親、母親は嫌でも自分の気持ち、現実をまざまざと直視させられてしまう分辛いだろうな、と同情してしまう。同情という言葉は冷たいけれど、こういう場面においては同情というほかないとも思う。共感とは決していわないのがせめてもの配慮なのだ。

 

 自分にはまだ、他人のことを気にかける余裕がある。留年がなんだそれがどうした僕ゆうひん。そんなあまりに人間的で非人道的なロジックでということは断固としてないが、僕の陰鬱さはどこかへ行ってしまっていた。記憶が僕を救ったのか。これもスーパーマンの働きといえてしまうだろうか。

 

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 そうこうして僕は今、食堂でこれを書いているわけだけれど。もはや気分が安定していて、やっぱり何のために書いているのかわからない。食堂は9時で閉まることを知った。閉店準備に客席を片付ける女性店員が可愛いと思った。思うに美人は卑怯だ。顔というのは人が人を認知する際、初めにとりかかる箇所であるのは明らかで、だから何もかもの初手が美人という切り札であるのは圧倒的すぎると思うのだ。ゲームバランスが崩壊している気がするのだ。

 

「あの」

「……はい?」

 

「とてもおきれいですね」

 僕が今日発した意味のある最初の言葉だった。気まぐれシェフのなんとやらだ。彼女は最初戸惑ったようだったけど、すぐに微笑んでくれた。やっぱり美人は卑怯だ。

 

 返す言葉もないような一日どころか、この一瞬だけをもって、死の間際から前借りしてきたかのような、どうしても生きたかった一日になっていた。

 

 

 

 


公共広告機構 CM 『黒い絵』

 

※このCMの男の子が発達障害だと断定しているわけではありません。周囲の大人が「おかしい子だ」と遠ざける様が記憶されており、その記憶に基づいて書いたためこういう表現になっただけです。CMの制作意図は僕にはわかりませんが、放送禁止になってしまったのは仕方がない部分もあるかなと思います。誤解はつきものなので。