信念や感受性のマイノリティ

 

新しい言葉、つまり新しい概念を知ったとき、人は自らの思考をより的確に言語化できるようになり、より深い思考が可能になる。その意味で新たな言葉との出会いは限りなく貴重であり、そのために見聞を広めたいと思うわけである。

前置きはどうでもよくて、小学生みたく知ったばかりの言葉を使いたいがためにこの記事を書く。読む人によっては不快に思われるかもしれない。しかし、そこで踏みとどまらないのが私が私たる所以である。この意味は後々わかる。

 

漠然とした「生きづらさ」を抱えて過ごして、何年になるだろうか。もっとも、程度の差こそあれ誰もが生きづらいと思うことはあるだろう。自分が被害者面しているだけだと思わないこともない。むしろ反省的に思うようにしている。それでも、"普通"の人々よりは自分が生きづらいと思い込みたいほどには、生きづらさを感じてきた。

その原因が長らくわからず、また不思議だった。自分はいわゆるマイノリティではない。日本人の両親のもとに日本で生まれ、日本で育った。比較的裕福な家庭であり、家族仲も良好。迫害という重めの言葉を使うまでもなく、いじめはおろか、いじられ、からかわれたという経験も特段ない。セクシュアリティに関して違和感をもったこともない。幸運に恵まれ東大に入ることもできた。

現に自分は圧倒的マジョリティであり、それによる特権については自覚せねばならないと思っている。

 

確かになかなかコミュニティに定着できないし、友達は多くないし、人から好かれることもほとんどない。なまじ頭がいい分、世間に対していら立つことは日常だし、しかし緻密に論駁できるほど頭がよいわけではない。といっても人から虐げられたり、裏切られたり、悲劇的、屈辱的な思いをしてきたことなど皆無なのだ。いや、あるにはあるのだが、根に持つようなものではさらさらない。不当な扱いでは決してなかった。

そんな自分が生きづらいなどと言ってもよいものか、については常に葛藤がある。客観的には駄々をこねているようにしか見えないのだから。

 

しかしこの度、暫定的な答えを得ることができた。哲学に関する一般書を数多く執筆し、「闘う哲学者」として知られる中島義道の『反<絆>論』という本が、自分にはとても好意的な内容であった。タイトルから主旨は想像してもらえると思う。感じるものがあった箇所を、いくつか引用したい。

感受性や信念の少数派であるマイノリティは社会的に迫害されているがゆえに、自分を反省的に捉える能力を自然に養う。(p56)

信念や感受性のマイノリティは、大変苦労する人生を歩まねばならないが、その代償として宝が与えられる。(中略)マイノリティは「普通の視点」と「特殊の視点」という二重の視点を獲得でき、二倍も人生が豊かになるのである。(p59) 

私を鍛えてくれたことは、マジョリティの信念や感受性は間違っていて自分こそが正しいのだ、あるいはみな平等に正しいのだ、と思わないようにする訓練である。(p60)  

三つの引用で登場した「信念や感受性のマイノリティ(マジョリティ)」という言葉が、革命的だった。いわゆるマイノリティでない私が、なぜ生きづらいのか。それは"信念"や"感受性"においてマイノリティであるからにほかならない。以前、躊躇いながらも自分をマイノリティと称して生きづらさを吐露するツイートをしたことがあったが、このように言えば誤解を生みづらいだろうと得心した。(人間誰もが何かしらのマイノリティである、という言説もある。私の場合は信念や感受性であったのだ。)

ここで、その信念や感受性のマイノリティとは具体的にどういうものなのか気になる方もおられようが、述べることはしない。マイノリティの自覚がある人は勝手に自分を重ねてくれればいいし、マジョリティの人々にわかってもらいたいわけでも毛頭ないのだ。ただ、自分のための言葉として出会えたことがよかった。

 

まだ疑問は残る。一体なぜ「信念や感受性のマイノリティ」になってしまったのか、ということだ。この点については分析がなされていない。いともシンプルに片付けられている。

社会が緊急事態に陥ると、共同体の防衛に何の疑問も抱かずに驀進する人、疑問を抱きながらも全体の風潮に従う人、疑問を抱きながら、それに(内的・外的に)抵抗する人という人間類型が浮き立ってくる。

こうした差異は、天性のものとしか思われない。

人類は、共同体の利害やその時代の風潮にほとんど疑問を抱かない人、あるいは抱いてもほとんど悩まずにそれに同調する人と、そうではない人、そこで「悩む」人とに二分される。(p84)

太字の前後はマイノリティ/マイノリティについて少し解説してくれている。私が感じるものについては、もっと卑近なレベルで考えてもらえるとありがたい。

肝心の太字だが、実に拍子抜けするものであり、それでいて核心であるように思った。そう、天性のものなのだ。私がマイノリティであるのも、大抵の人間がマジョリティでいられるのも。

天性のものと知って、自分は救われた気がした。自分にとっては切実に生きづらさを感じているのであっても、生い立ちや現状を客観的に分析するとそう感じることにどうしても負い目を感じてしまう苦しみを、味わう必要はないと思えるからだ。それは天性のものだから、じたばたしたってしかたないんですよ、と。

そしてこれを受け入れられるほどに、実は私は苦しんでいないのだ。マジョリティに生まれたかったとは思わない。ただ、あるがまま、受け入れた。それでいい。この感覚は、他のマイノリティ理解にも有効かもしれない。

 

もう少しちゃんとした言及がないか探してみた。以下の引用箇所ではキーワードが「孤独」に変わっているが、能動的であれ受動的であれ孤独を選び取った人々は、信念や感受性のマイノリティに属する人である。

こういう私の「システム」をある程度わかってくれる人、あるいは天性において繊細な人とのみ付き合うようにしたのである。(p151)

先ほど省略したのだが、中島は「いま・ここ」で生じている個々の物ないし個別の出来事を重要視する精神を、パスカルの使った意味に従って「繊細な精神」と呼んでいる。(私はそれを信念や感受性のマイノリティと重なるものと解釈した。)これを踏まえて繊細という言葉を解釈してほしい。

ここでもまた、天性によるものだと書かれている。圧倒的、天性という言葉の魔力。

 

最後に中島の言葉を借りて、私のような人に対する世間の誤解を解きたい。

私は一人でいることが好きである。(中略)基本的に孤独を好む人でも、時には他人と交わりたいと願うことはあるのに、それをどうしても許してくれないのである。(p140)

とくに「自発的孤独者」はきわめて繊細であり人間に興味を持っている人が多い。(中略)とても嬉しそうな愛嬌を見せたり、心のこもったもてなしをしたり、あけすけな、情愛の深い、物のわかった話をすることもある。(p149)

これが人付き合いに関する態度である。

そして、自分のマイノリティ性への認識について、改めてまとめておく。

世間が、自分を排斥することも「理に適っている」と思い、世間の価値観からすると、自分は「下」に位置することもわかっている。 

 

以上、私と似た境遇の人にとって、少しでもヒントになることが書けていたら嬉しい。わざわざ記事を書いたのも、私がマイノリティであることを裏付ける。この感情に蓋をし、ごまかすことで認識を歪められるならば、まさしくマジョリティなのだから。

 

 

反〈絆〉論 (ちくま新書)

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