現代文:段落並び替え問題

戻ってきてしまった。

 

さっき、公園に行ってきた。公園でブランコを漕いだ。漕ぎながら、イヤホンから流れる曲を歌手に重ねて歌った。周りに人がいた。外国人カップルだった。日本語などわかるまい、と見くびって気にせず声を上げた。仮に日本語を理解できたのなら、恥という感情が掻き立てられただろうか。あるいは、日本人であったなら。感情とはどうでもいいわりに、すごく複雑なものだ。あるいは言語も、国籍も。歌に乗せちまえば全て忘れ去れるとでもいうつもりなのか。

 

先日、東京にも台風が襲来した。まさに台風と呼ぶにふさわしい、猛烈な雨風だった。街中の諸々が吹き飛ばされたりしていたそうだ。夜家にいて、一人で風を聞いていた。窓ガラスががたがたと揺れ、煩わしく眠れないという人もいるだろうが、自分には関係ない。平常から寝る時間ではないのだ。俺は部屋にいられることに感謝した。世界との隔たりを感じた。俺は守られている。この部屋だけは私空間だった。独立して宙に浮かんでいるような気になった。

 

恋の病に侵されている。四六時中とまでは言わないが、起きてる時間の半分は女の子のことを考えている。というか、それ以外に考えることがとるに足らな過ぎて。みんなは普段、何を考えて生きているんだろう? 人生はあまりにも退屈だから考えてしまうけど、まさに人生が退屈だから、考えに浮かぶようなこともおそろしく退屈。それを哲学などと称して崇め奉る。この世界の恐ろしいこと!

 

鏡をよく見る。家でも外でも自分の姿が写る媒体があれば、一瞥してしまう。鏡によって見え方は結構変わる。風呂場の鏡はいい具合に修正を施してくれるから、勘違いしそうになる。まだだ、まだ早い。焦るな。あの娘の気持ちを知りたい。アンニュイな表情を浮かべたって仕方ない。俺は微笑む。口角を上げるのが下手だ。ばかばかしくて大げさに笑う。とある会の面談で、しんどくなったら鏡の前で笑いなさい、とスピリチュアルな助言を賜った。あなたの笑顔は素敵だから。

 

季節の変化に感情が呼応する。感情なんて単純だ。目下、秋である。どこかから漂う金木犀の香り。そんなものは幻想だ。我が東京大学は銀杏に毒されている。公害と呼んでいいレベルに。秋風が立つという言葉があるように、秋という季節は山の装いの安らぎとうらはら、どことなく寂しい気持ちがするものである。ならば冬は? 寒気がする。心一面に障子を張りたい。台風はもう過ぎ去ったんだから。

 

巷では恋愛が持て囃されすぎているとずっと思ってきた。プライベートの質問になればすぐ彼女はいる?だの、なんら無意味。第一、これからの時代は彼"女"に限定しない方がいいんじゃない? うるさい人はいるわよ。恋愛しないなんてありえないと、大手を振って歩く人々。ヒットする世の楽曲の大半は恋愛を飾りにつけたもので、大体少女漫画って、あれはなんだ。とにかくどんなコンテンツも恋愛と絡めたがる。反吐がでる。なんていえば非難轟轟。

 

恋をしたのだ。そんなことは全くはじめてであった。いつも恋は塗り替えられていく。歴代記録を更新していくから、いつだって初めてかもしれないと思う。この太宰治の小説に登場するフレーズを想起したのは、二回目。ほら矛盾だ。でも今回は、今回ばかりは、まぎれもなくはじめてだと思いたい。恋愛感情の高まりはほんの一時のことだけど、一瞬の煌きが素敵すぎて、歌にしてしまうのだろう。自炊が推奨されるというのなら、歌だって自分のために作ってやればいい。

 

東大の英語の入試問題(1B)みたいに「段落を並び替えよ」と言われたら、解答が一意に定まらないようなパラグラフを気ままに配置してしまいました。ここで思う、文章に必然性は要らないと。今日は10月4日。このブログを始めたのが去年の10月3日らしく、戻ってきてしまった……と思わざるを得ない。とめどなく溢れる言葉を発散したくて始まったのがコレ。今日だってだ。恋の病で狂った頭と季節のせいにしようと思う。