眼鏡をかけて生じた、特別意識

「自分の顔を中の上ぐらいだと思っている奴にろくな奴はいない」

と思う今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

 

前回の予告とは異なるが、自分が「東大入っても品性は養われなかったイキリオタク」になってしまったきっかけかもしれない出来事について、書こうと思う。

 

記憶は小学一年生の頃に遡る。

僕は昔から目が悪かった。どのくらい昔かと確定するのは難しいが、少なくとも物心ついた時期には、既に目が悪かった。

幼少期に関し、エピソードとしての記憶が少なからずある一方で、鮮明なビジュアルとしての記憶が存在しない。ぼんやりとした光景は思い出せるのだが、どうしてもクリアに見えていたという感覚、記憶がない。もちろん過去の一時点で見えていたものは、段々と色あせてしまうものであり、まして幼少期のことである。

自分が外界を視覚ではっきり捉えられていたかなど今振り返ってわかるものでは到底ないが、徐々に周りが見えなくなってきたという覚えもないので、生まれつきわりかし視力が低かったのではないかと邪推する。両親ともに恐ろしく目が悪いのも関係しているはずだ。

 

とうとう自分から白状したのか、さすがに両親が諦めて認めたのか、小1の秋口、新学期が始まるタイミングで僕は眼鏡をかけ始めた。

当然だが、眼鏡をかけるということは見た目が変わるということだ。顔にものが引っかかる違和感もあるが、それは自分の身体感覚だけの問題で、見た目が変わるということは他者が自分に注ぐまなざしも変わることを意味する。

だからだろう。とにかく恥ずかしかった。初めて眼鏡姿をお披露目する日、緊張に耐えられずおもらし、はしなかったが、不安で仕方なかった。同じマンションの友達数人と集団登校していたが、学校に着くまで、教室に入るまで、そして先生から皆へのアナウンスがあるまで、僕は眼鏡をかけられなかった。

(そういえば、初めてコンタクトで登校した日も緊張したな。お前ごときが見た目気にしてどうする、みたいに思われるのがたまらなく恥ずかしく、眼鏡が壊れてしゃあなし裸眼という設定にしたぐらい。)

 

「ゆうひん君は今日から、眼鏡をかけることになりました」

こんなセリフだったろうか。なに「私たち今日から付き合うことになりました」的なテンションで言うとんねんとツッコむ余裕もなく、こんなことを皆の前で物々しく発表するんだ……と動揺した、気がする。

そして僕は眼鏡への一生愛を誓う、ということはなかったが、机の上に置いていた眼鏡ケースから本体を取り出し、装着した。

「お似合いじゃん」

という声があちらこちらから飛んでくる、ということもなかったが、何の意味も目的もわからないパチパチという拍手の音が聞こえた。僕は終始動揺していた。

 

もちろん母親や先生が配慮して、小学一年生に物事を理解させるためにこういう手順を踏んだことはわかる。急にクラスメイトが眼鏡をかければ、一斉に好奇の目を向けてしまうことは避けられないと思うからだ。しかし、この出来事が強く脳裏に刻まれているように、ただならぬ感じが、違和感というものがあった。

 

自分への特別意識に結び付けるのは安直だが、妙な意識が芽生えるきっかけだったと思おうと思えば、思える。

単純な話、クラスで自分だけが眼鏡をかけていれば、自分は他の人とは違うんだと思ってしまうのは自然なことだ。得てして子どもの方が「違い」というものに敏感である。

それも優越感のような心地いい特別ではなく、目が悪いすなわち欠陥という否定的な感情と結びつくものだった。

幼稚園の頃、赤い眼鏡をかけた女の子がいた。その子は少し周りの子らと違って、しんどい部分があった。配慮が必要な部分があった。

(ちなみに、今なおその子の名前を思い出すことができた。それだけ目立った存在だった。)

その子のイメージもあって、僕は自分が眼鏡であることが好ましくなかった。

 

 

学年が上がるごとに眼鏡人口は増えていき、自分が特別ということはなくなった。それでも、あの、初めて教室で眼鏡をかけた日に芽生えた特別な意識は、じっとりと残り続けてきたのだろう……。