「時間は平等」論という名の、弱音

「時間は平等」

「時間こそが、人類に与えられた唯一にして最大の平等である」

 

聞き飽きたこのフレーズに、皆さんは何を思うだろうか。

 

努力しない言い訳を一蹴する意図を持って、僕のような鼻垂れに向けて放たれることが多いと感じる。

 

確かに定義上の時間、すなわち1秒は「セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍の継続時間である」と国際的に定義されており、これは解釈の余地を挟まない、紛れもない事実であると言える。

 

しかし、時の流れというものの感じ方は人様々であろう。「人は年を取れば取るほど、1年が経つのを短く感じる」というジャネーの法則によれば、20歳までの体感時間は20〜80歳のそれと同等であるらしい。全く恐ろしい話だ。(まあ、永遠に生きればいいのだ!)

 

このように一人の人間の体感時間は、一生の各段階において異なってくる。僕ら若者が実感するにはまだ早い気がするが、自分より上の世代が嘆くのをよく耳にする。

 

ただ、このことは僕にとって大した問題ではない。皆そう感じるならそれでいい、と思うからだ。それにあくまで推測ではあるけれど、年を取るにつれて「初めて」の体験がどんどん減っていくことで、主観的な時間の速さが上がっていくのだと思う。マンネリ化を避けるため、常に新しい刺激を求めて生きていけば、時間なんてのび太ぐらいのろまに感じられるかもしれない。もっとも、僕らがいくら拒もうとも、社会は目まぐるしいスピードで変化を続けていくだろう。

 

 

だが、他者と比べての時間の質という話になってくると、考えは一変する。

 

第一に、個人の経済面など生活環境からして、生活の利便性、質というものは当然異なる。時間というものはそのものに価値があるのではなく、どう過ごしたかで事後的に価値が決まるのだから、生活の基盤が異なる以上、実質的に時間が平等なんてことは絶対にない。この側面に関しては、自分自身恵まれている方だという自覚があるため、深く言及することは避ける。

 

もう一つ。同じ一日にしても、有意義に過ごす人、無為に終える人、というのが確かに存在する。多くの日において僕が後者に甘んじていることは、このブログの愛読者にはお見通しであろうか。

 

この事実が僕に焦燥感だけを与える。自分が漫然と生きた間に、ある人は確かな進歩を遂げているのだと思うと、死にたくなる。僕は不平等が嫌いだ、というより、自分が損する側に回ることが嫌いなだけだ。だから、自分が他人より密度の薄い時間を過ごしてしまうと、無性に腹が立ち、焦り、だけでは何も解決するはずなくて、死にたくなる。もっともここで想定する他人なんてのは、自分のポテンシャルを100パーセント発揮できた時の自分、だったりするのかもしれない。わかりやすい例だと試験前、今日は何時間も寝てしまったとアピールしてしまうのは虚しい自己防衛に過ぎないが、実際めちゃくちゃ死にたくなっている。

 

何かに悩んでいる時、悩みの対象に辛いと感じているというよりは、悩むことで時間が奪われていることが勿体なさすぎて死にたい。だったら悩まなければいいのだが、弱い人間なので悩むし、悩むことが人生を色合い豊かなものにしてくれると、無理やりポジティブに捉えようともしてみているけど、やはり時間は有意義に過ごしたいものである。実際悩むのは時間の無駄だと思って気を紛らわせるため、他のことに精を出せる人がいるけど、尊敬の念を抱くほかない。

 

そして、無為のスパイラルに陥るわけだ。一回時間を無駄にしてしまえば、そのことについてひたすら後悔し、死にたいと心の声を漏らす。そうしている間にまた時間は過ぎていき、これを永遠に繰り返す……。全く恐ろしい。

 

ようやく、自分が高頻度で死にたいと思ってしまうメカニズムが解明できた。死にたいなんて気持ちは皆無ということだ。ただ自分への期待が高すぎるだけだ。

 

自分なりに有意義と思えるように過ごすだけの権利は、平等に与えられているはずだ。そういう意味合いをこめ、成功者は冒頭の言葉をもって、僕たち未来の成功者を激励してくれるのだろう。

 

最後に。

この文章に共感してくれる人がいれば、二月の初日を寝て過ごした自分を肯定してくれるだろうという僕の期待を、読み取っていただけただろうか。