虚無ソーヤの暴言(詩)

浮遊

 

自由を装っている 

僕は不自由だった

 

人間は自由という刑に処されている

存在と無において 

サルトルはそう云った

ならば僕はサルトルを 

読まなければならない

苦肉の策で

執行猶予を作り出した

目的は思想を奪い 

狭隘は心臓を鳴らす

 

光が終わった午前四時 

インクは闇に吸い上げられ

自由という底に沈んでいく

幻覚を形作る煙は 

いつまで浮遊するのだろう 

 

喉が渇いた 

冬を殺そう

 

I pretend to be free, but actually l know I do not. 

 

Sartre said,

humans have been sentenced to punishment of freedom, 

on the book 'Being and Nothingness".

That's why I must read it.

That's how I managed to regain my life.

Ends should deprive philosophy, and hearts could beat only in the narrow box.

 

At four o'clock, lights went.

Letters were absorbed in the darkness.

I started falling down to the bottom of infinity.

How long would smoke, which seems to be imaginary, keep floating?

 

I got thursty, so I would kill this winter.

2018年に読んだ本10選

 こんばんは、ゆうひんと申します。以後お見知りおきください。明日から冬眠に入るので、少し早いですが「今年読んだ本10選」を紹介したいと思います。10選といってもベスト・セレクションではなく、読んだ時期、ジャンル、知名度、紹介しやすさなどのバランスを考慮して選びました。誰も僕が読んだ本なんかに興味ないかもしれませんが、こういう名も分からぬ一般人が紹介しているものの中から、一生ものが見つかることだってあると思いますよ。

 それではどうぞ!

 

1.(評論)希望難民ご一行様 ─ピースボートと「承認の共同体」幻想─ / 古市憲寿

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 こういう怪しげなポスター、町を歩いたことがある人ならば(つまり全員)見たことあるのではないだろうか? マジでどこに行っても貼っている、クソ田舎であっても。ピースボート(あの辻元清美氏が創設の中心人物)という団体主催のこの世界一周クルーズ自体はちゃんと行われていて、最低価格だと本当に99万+αで行くことができる。しかも、このポスターを街中に貼りまくることで参加費が減額されるボランティア・スタッフという制度があって、街中やたらめったら貼られているのはこういうカラクリなわけだ。全額免除になることを「全クリ」というんだとか。

 前置きが長くなったが、本の紹介へ移るとしよう。この本は数年前にメディアでよく見かけた若手の社会学者・古市憲寿が、フィールドワークとして実際にピースボートに乗船した経験を元に「若者」を考察したもの。ルポルタージュとしても読める。

 社会学的な考察は目新しいものではなかったが、若者の旅の歴史やピースボートの内実などが詳細に書かれており、面白かった。自分が「承認の共同体」を求めているに過ぎないことに気付かされ、猛烈に反省した。「9条ダンス」というワードが気になった人は是非。

 

 

2.(小説)ミュージック・ブレス・ユー!! / 津村記久子

 津村記久子は『ポトスライムの舟』で2009年の芥川賞を受賞した、僕の好きな作家の一人。ちなみに『ポトスライムの舟』は冴えない契約社員が「世界一周クルーズ」乗船を夢見て貯金していく様を描いている。

 さて本作だが、主人公は高校三年生のオケタニアザミ。勉強はできず将来の進路も未定、親友のチユキらとグダグダな日常を送っている。そんなアザミにとって何よりも大切なのは音楽。バンドをやったり、聴いたアルバムのデータを逐一Excelファイルに記録したり、海外で暮らす音楽好きのアミーと文通をしたり。

 グダグダでも後から振り返れば愛おしい青春の日々、というのが僕は大好きである。さらにこの小説の主人公は、音楽が大好き。バカでかいヘッドホンをして、誰とも挨拶をせず、気怠げに始業間際の教室に入っていた僕の高校時代を思い出して、痛々しくも懐かしくなった。ラストの二行が本当に秀逸で、感情がこみあげてくる。

 

3.(エッセイ)にょっ記 / 穂村弘

 現代短歌の第一人者として知られる穂村弘のエッセイ。といっても普通のエッセイの体裁とはやや異なり、パスタのニョッキをもじったタイトルからも分かる通り、日記形式で書かれている。4月1日から3月31日までoftenぐらいの頻度で、短いものだと2,3行のものまで。

 現実と空想の境界が絶妙で、日常に天使を探したくなる。穂村氏の女性人気も納得。寝る前にちまちま読むのがいいです。きっと穏やかな、いい眠りにつけるはず。僕もこんな日記を書いて小学校の担任を驚かせたりしてみたかった。

 

4.(小説)送り火 / 高橋弘希 

 こちらは今年上半期の芥川賞受賞作。今回紹介する中では、唯一今年刊行された本。

 舞台は青森の山間部、主人公は東京から越してきた中学三年生の歩。これまで何度か転校を経験してきた歩は周囲を観察し分析するのが得意で、今回もうまくクラスに溶け込めたつもりで過ごしていた。そう、あの夏、川へ火を流す日までは──。

 歩、リーダー格の晃、いじめられっ子の稔の3人が物語の中心。この構図や経過は既視感があり、ラストも急展開だと思ったが、一貫してじんわりとした緊張感が張り付いた文体は美しく、よもや軽くホラーだった。田舎、そして思春期特有のやり場のない息苦しさが伝わってくる。それぞれの少年に潜む残酷性に向き合わされる一冊だった。

 

5.(評論)哲学入門 / 戸田山和久

 戸田山和久は大学生必携『論文の教室』の著者として知られている。東大の哲学科出身で、専門は科学哲学。「哲学概論」という授業の参考文献リストの一番上にいたので、手に取ってみた。

 哲学「入門」と謳っているが、いわゆる哲学の入門書とは異なる。哲学史の概説ではないということだ。つまりデカルトもカントもニーチェも登場しない。この本は、意味、機能、情報、表象、目的、自由、道徳という「ありそでなさそでやっぱりあるもの」を探求する。これらの概念が唯物論的世界観(世界は全て原子から成り立っており、科学で説明可能である)の中にいかにして描かれるのか、そのパフォーマンスを見せてくれる。哲学するとはどういうことかを教えてくれるという意味での入門書である。

 新書で450ページほどあるので分厚さに気圧されるが、内容は非常に明快、ロジカルで知的好奇心を刺激し続けてくれるため、僕でも読破できた。特に哲学を学んでいるというわけではないが、人生の意味だとか哲学っぽいことをあれこれ考えるのが好きな人には格好の本。

 

6.(ノンフィクション)スローカーブを、もう一球 / 山際淳司

 スポーツ・ノンフィクション不朽の名作にして、金字塔的作品。出来事自体が名高い『江夏の21球』をはじめ、野球を題材にしたものが4編、その他スポーツが4編。それぞれの主人公となる実在の人物は、江夏を除いてWikipediaに記事があるかないかぐらいの認知度で、(その実績とは裏腹に)決して華々しい選手生活を送ったわけではない。日本スカッシュ界の英雄や、突如ボートでオリンピック出場を目指し始めてしまう、東海大学に通う普通の学生。彼らだからこその物語が収められている。

 丹念な取材に基づいた緻密な描写はさること、ここぞの場面で登場する人生の核心を突くようなフレーズが緩急をつけ、詩的な表現も実に巧妙である。スポーツ・ノンフィクションとはこうも色鮮やかに書けるものかと、本当に感服した。特にお気に入りの一節を引きたい。

使い古しの、すっかり薄く丸くなってしまった石鹸を見て、ちょっと待ってくれという気分になってみたりすることが、多分、だれにでもあるはずだ。日々、こすられ削られていくうちに、新しくフレッシュであった時の姿はみるみる失われていく。まるで──と、そこで思ってもいい。これじゃまるで自分のようではないか、と。(「たった一人のオリンピック」より)

 

7.(評論・エッセイ・詩歌)書を捨てよ、町へ出よう / 寺山修司

 今年は寺山が亡くなって35年になる。特別展や上映イベントが開催され、にわかに盛り上がりを見せた年だった。寺山がどういう人物か、一言で言い表すのは難しい。職業・寺山修司を自称し、歌人シナリオライター、劇作家、映画監督、評論家、作詞家など、60年代を中心に八面六臂の活躍を見せた、伝説的なマルチクリエイターである。

 この本はどう説明したらいいのか、本当にわからない。裏表紙には「本を読み疲れた貴方を楽しい空想の世界に導いてくれるバツグンに面白い本でない本!」とある。野球や競馬、賭博、歌謡曲、男女、サラリーマン、不良、家出、自殺など様々なテーマが書かれ、全国の少年少女から募った詩も多数掲載。僕が寺山のファンになった本で、寺山のエッセンスが詰まっていると思う。こんなにも無秩序な本は初めてだった。

 

8.(小説)次の町まで、きみはどんな歌をうたうの? / 柴崎友香

 町へ出たらば、歌をうたおう。僕がタイトルに一目惚れした本書は、表題作と『エブリバディ・ラブズ・サンシャイン』の二編から成っている。

 『次の町まで、きみはどんな歌をうたうの?』は、友人カップルがディズニーランドへ向かう車に、男二人が理由をこじつけて同乗するという青春物語。主人公はカップルのどちらかではなく、友人の一人・望の視点で語られる。実は、彼はカップルの女の子に想いを寄せているのだが──。

 あらすじからエンタメ色が濃いものと想像していたが、良くも悪くも思い違いだった。設定がすごく魅力的に思えた分、ボリューム不足に感じたが、始めはイラついた望の人間性に段々惹かれていった。傍若無人な振る舞いを見せる彼は、芸術的才能に恵まれた繊細な心の持ち主。このようなキャラクターが一人称視点で描く小説は目新しかった。

 『エブリバディ・ラブズ・サンシャイン』は、失恋を機に睡眠病に陥り、半年間学校を休んでいる大学生の女の子が主人公。年が明け、彼女が学校に再び通い始めようとする様子を描いている。

 僕自身、2年の秋学期はおそらく孤独感が原因で、大学に行かない日々を過ごしていた。そんな事情もあり、面白くないはずがなかった。展開されるのは切ない恋模様。随所に登場する「戦うこと。眠らないこと。」というフレーズが脳裏に焼き付いた。眠らないことが戦いとは、文脈が無ければ絶対に理解することはできない。

 

9.(エッセイ)そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります / 川上未映子

 『乳と卵』『ヘヴン』などで有名な川上未映子の第一エッセイ集。まだ文壇デビューを果たす前、歌手時代にしたためていたブログ「純粋悲性批判」を纏めたもの。なんと136本ものエッセイが収録されている。

 彼女の持ち味はなんといってもその独特な文体。『乳と卵』では樋口一葉を彷彿とさせる文体で注目を集めたが、本作でもまさに怒涛という言葉が相応しい勢いで、文を区切らず延々と濃い関西弁を連ねていく。読めばひとたび、未映子色に染まること間違いなし。とりわけ『性の感受地帯、破竹のあはん』は全男児必見である、と個人的に思う。

 

10.(小説)赤頭巾ちゃん気をつけて / 庄司薫

 最後を飾るのは、60年代末という時代を反映した一作。作者と同名の主人公、日比谷高校三年生の庄司薫は、学生運動の煽りを受け、志望していた東大の入試が中止になるという悲劇に見舞われる。そんな彼の踏んだり蹴ったりなある一日を詳細に描く。

 薫くんは、動揺する社会のあらゆる人々、体制、風潮への底知れぬ反発心を抱えるも、自分の胸の内から完全に湧き上がるものがないことも自覚し、悶々と人当たりのいい外面を装っている。平成最後の年を生きる自分も、まさに同じ青年であった。

 また、物語そのものを別にしても、知性についての考察やインテリの三分類、国内随一の進学校だった日比谷高校の実情、女の子をものにできない男の子の心理など、作中で多くの分量が割かれた項目は、どれも深い洞察、感受に基づいた秀逸なものだった。特に大学生に薦めたい。

 

 以上です。解説が多くなってしまいました。皆さんも何かオススメがあればコメントください。ありがとうございました。

 

図画工作:課題「思い出を作りなさい」

 

 もう三週間以上も前のこと、深夜に堪えきれない思いの丈を下書きに書き殴った。そのことは確かに記憶している。今それを引っ張り出し、編集しようと思い立った。その時の僕の思考回路を等しく辿ることは到底不可能であるから、この試みが成功するかはわからない。もはや過去の自分から現在の自分へと、言語だけを介した翻訳に臨むような気持である。

 

 先日、大好きな文学作品が映画化することが発表された。僕は嬉しくて小躍りどころか追加料金を払い大踊りまでした。一方で「ついにか」と妙に納得、冷静な自分も当然同居していた。作品への想いを噛み締めていたらご飯を食べるのを忘れた。数日後に新たな情報が入ってきた。ある重要なシーンのエキストラが募集されたのだ。「皆さんとともに盛り上げていきたいと思います」当たり前だ。俺なくしてこの映画は成り立たない。もう、もうそれは、参加するに決まっている。確定している。定義されている。猛然と応募メールを打ち込もうとしたのだが、一応その日付を確認しておく。するとあろうことか、開いたスケジュール帳には「絶対に外せない用事」と書かれているではないか! 「バイト」「親戚の結婚式」とかならわかるが、絶対に外せない用事と書かれていた時の衝撃よ! おそらく君たちは経験したことがない。なぜなら自分個人のスケジュール帳において具体的な予定を秘匿する必要はないからだ。やはり過去の自分の思考回路というものは理解に窮する。ともかく、僕は大好きな映画のエキストラに出演できないとわかって、堪らなく悔しいのか悲しいのかなんとも形容しがたい初めての気持を味わった。端的には事を成すことができなかったということだが、当初から計画されていたわけではなく突如降ってきた機会だし、自分の不徳によるものでもない。僕はどう感情を扱えばよいのかわからなかった。

 ここから哲学の森の無免許ドライブが始まってしまう。臨場感を伝えるべく、先日の下書きにほとんど手を加えないままお届けしたい。

 

・『青少年のための自殺学入門』を手に取るに至った経緯(思い出が全てか)
 

 「そして、思い出というものの必要性に想いを馳せることになった。今回の件も、陳腐な言葉で言ってしまえば目的としては思い出づくりなのであり、というのもその記憶が完全に消去されるとしたらそこまでして参加したいか、と言われると微妙なものだ(記憶が保持されるなら、通常なら猛然と参加したいのであるが、ゆえにこんなものを書いてしまっているのであるが)。エキストラとして演技をしているその瞬間の楽しみだけを求めているわけではないからだ。映画を観た際に、自分がエキストラとして出演した事実を思い出せることが特権なのである。

 しかし、果たして思い出が全てであろうか?
 物事は何のためにあるのか。全ての営為はなぜ行われるのか。その瞬間の全身全霊、それだけのためではないことが大半であると思う。次へ、未来へ、未来の自分を立たせることに繋がるからこそ行われるのであり、であれば未来がなかったら? もちろん一回性の、その限られた時間で完結させるべき物事も存在する。(未来を否定して考えると)僕はそういうもののために生きているのだと気が付いた。

 先ほど、記憶が保持されないならば何とか溜飲を下げることはできると述べたが、それは違う。エキストラの詳細を説明すると、その物語の舞台となる実在の都市に行き、実際に代々行われている祭りのシーンを撮影するというものだ。この祭りのシーンは物語中でかなり重要であり(これを境に物語は次のステップへ移行する)、総勢数百人の人手が必要だという。これの何がいいかというと、まずその文学作品の舞台の地に行けるというのがそうだし、一番大きいのは、全国のファンが集って一斉に作品を現実のものに起こすという大がかりな作業を行うということだ。これは限りなく一回性の、限られた時間で完結させるべき物事だ。たとえ未来に繋がることがなかろうと(仮に映画の公開が中止になったとしても)、自分にとってはその瞬間だけに意義がある。だからなおさら、今回の件は悔やまれる。人生の最大の目的を逃したわけだ。

 

 しかし、現在も過ぎ去れば過去へ、思い出へと成り下がってしまうのではないか?

 僕は自分の果たされなかった気持ちを払い捨てるためが如く、過去は全て過去であるし、現在もいずれ全て過去であると、悟りに近いことを考えた。ただ一切は過ぎて行きますではないが、ならば何のために生きているのか、何のために未来がある、あるいは未来を志向するのだろうか? さっきは未来の可能性を否定したとて現在はまさしく現に在るのであって、そこに生きる価値があると言った。しかし、現在もいずれ全て過去であるならば、何の意味があろうか? 未来など言語道断だ。ツーステップ踏むわけであるから。過去になってしまえば一切が無に帰するのであれば、現在を現在のものとして完結させなければならない。自らを完全な形で満たそうと思ったら、必ず終わりを定める必要があると感じた。ここぞというタイミング、頂点に立った瞬間、絶頂の中で死ななければ欺瞞だと感じた。
 こうした経緯で死に興味を抱き、自殺というものは自分で生涯を完結させるための手段だと思うと、ある思想が思い当たった。そこで本棚から引っ張り出してきたのがこの作品である。
 

 ──死ぬ自由くらいは自分で創造しよう! 

 以前はなんら感傷を抱かなかった言葉が、今の僕には響いたのである。」

 

 理解されない人には何ら理解されないかもしれない。国語の入試問題のような、何ら理解できない文章を強制的に読まされる苦痛、あれに近いものを感じているかもしれない。しかし、誰もが中学生くらいの頃に考えたことがあるような内容ではないか? 生きるのが実に苦しくなったとき、生きることの価値を否定してしまえば驚くほど楽になる。価値を見出すから満たされない苦悩が必然的に生じるのであって、万物の価値を否定する。あるいは価値そのものを否定する。努力が得意な人であれば努力によって乗り越えていけばよいだろう。僕のように努力が不得手な人が打ちうる生への対処法は、未だこの程度のものしか発見できていない。かつて強く抱いていた生への諦めは、今なおこうしてぶり返すことが間々ある。

 

 僕はこれを書いただけでは飽き足らず、「思い出」について思索することになる。小学校では「思い出のアルバム」というものを制作したりもしたが、僕が引っかかることが多いのは「思い出を作る」という表現である。世の人々は往々にして(口に出すかはともかく)思い出作りなる名目のもと、思い思いのワイワイガヤガヤ・キャッキャウフフ的イベントの発生に精を出していると思われるのだが、思い出は作るものなのだろうか? ちなみに「(作られた?)思い出」には、SNSに投稿することで満たされる自己顕示欲や承認欲求、単にあるイベントを経験したという事実から生じる満足感(多くの場合、回数を意識している。初めては特別がち)という周辺事項も含めて考えている。それらは全てある出来事の過去性に意味を見出しているからだ。

 

・ブログ下書き「それでもなお、悶々と」(思い出は「作れる」のか)

 

 「(まだ僕は件を引きずっている) 映画の一部になるということに価値があるのだ。映画になるというのは瞬間の出来事ではない、できあがったものとして認識することによって生まれる快である。そして、というのは記憶に深く依存しているということだ。SNSの投稿などというのはすべてそれだ。終わった出来事をわざわざ報告するのである。報告で得られる快はその出来事による快とは違った性質のものだ。記憶に頼る出来事に、果たしてどれほどの価値があるのか。僕の疑問はそのように生まれた。

 物事の快には二つある。認識を経て快を得るものと、認識を経ずしてその場によって喚起される快。単純な時間軸の差異に由来するのではない。「俺は今これをしている」という認識が引き起こす現在行為における快もたくさんある。

 思い出は永続するから価値があるんだろう。思い出が尊いことは認めている。それにしても不思議な感覚である。立ち止まって考えると、まるっきりわからなくなる。でも、一瞬間の熱狂には勝ることがないように思う。比較軸などないし、勝る劣るではないのだろうけれど、熱狂というものはどうにも不遇な扱いを受けている気がする。すべて思い出に昇華されてしまっているからだ。瞬間は瞬間で留めることができない。記憶とは矛盾だ。僕は全身全霊で熱狂を感じたままに物語を完結させたいのかもしれない。やさぐれたアーティスト等が表明する意思に、初めて同意することができた瞬間である。

 思い出は作るし、振り返る。けど、「"思い出"する」ことはできない。つまり現在の行為としては成り立たない。確かに思い出の元となる出来事については、現在発生している。しかしこれが思い出として認識されるのは未来のことであり、現在ではない。だから思い出を作るというのは本来あり得ない(「カワイイ」は作れるらしいが)。思い出になり得るという次元の話に止まる。瞬間の出来事は過ぎ去れば、瞬時に思い出のフォルダに収まってしまえば、もう瞬間には回帰できない。

 思い出の次元に入り、それぞれに見合った時が経過し、様々な経験を積むことで快に転じる出来事はたくさんある。そこに思い出の真価がある。しかし、本来的に人生は思い出を積み重ねるものではないと思うのだ。その瞬間、熱狂できない営為に価値はあるか? それを求めずして、何を生きたというのか?

 本当は、思い出を振り返る暇すらもない生活が理想なのだろうか。そうなれば、僕の文章というものは全て消え去ってしまうわけだが。もっとも、今こうして文章を書いているように、過去の出来事、現在思い出となっているものを基盤として、現在について思いを馳せることから得られる快は人生の一つの意義に違いない。まさしく僕は今楽しんでいる。そして今後、何度もこの文章を読み返すだろう。それもまた別の形の楽しみである。」

 

 壊れるほど愛しても1/3も伝わらないのだから、今回の手記が1ミリも伝わらないことは百も承知だ。なんなら自分でも何を考えているのか把握できていない。僕は決して未来を志向すること、達成したという事実自体に価値を見出すこと、その物事の達成・実現のために現在を軽んずることを否定しているわけではない。自分もやっていることだから、肯定せざるを得ない。しかし、時折立ち止まって自分の足元を見つめたくなってしまう。自己を批判することは世間を批判することだ。至って平々凡々な思考しかしていない。今回の、現在も未来もいずれ過去になるという発想から生の苦しみを乗り越える試みは、客観的には破綻している。ゆえ、苦しみから逃れる術を僕はまだ知らない。根性論も価値の盲信も跳ね除け、生きていく方法を模索してくれる人を僕は応援したい。

 

 

 

 

 

 

 

クジラの日々(後編)

 

ikiriotaku.hatenablog.com

 

 なんて割り切れるはずもなく(親譲りの神経症だ)、腹も神に祈るほど深刻ではなかったから、数百メートル先にある大学へと向かった。5限は工学部の教室で、ストレス・マネジメント概論という授業だった(工学部というところがミソだ)。これまで初回を除いて奇跡と感動の全出席を果たしている、通称メンヘラ概論である。だから今日休んだところでこちらの単位は安泰なのだが、メンヘラの方が僕をおびき寄せてしまうのだ。

 そういうわけでテーマは僕と非常に親和性が高いのだが、似たような授業はこれまでも散々履修しておりほとんどが既知の内容なわけであるから、あまり実のあるものではない。どの講師も判で押したように淡々と授業を進める。必要十分な情報が載ったスライドを一定のリズムで繰っていき、抑揚のなさはむしろギャグなのかと勘違いするほど、周波数が変動しない。各授業の最後に長大なレポートが課されるのだが、用紙の下方に今回の授業は何点でしたか?という質問項目が置かれていて、僕は記入したことがない。自分を守るためだけの、かえって失礼な見せかけのやさしさを弄しなければ、どれも5点満点で0か1になってしまうから。

 

 今日の授業も違わなかった。タイトルこそ「ストレスとの付き合い方」と授業の名前と同内容であるため、短編集の表題作というものの全ては作者の自信作である、という偏見から期待したのだが、見事に恐ろしく退屈だった。陰鬱と退屈は全くもって違うが、上塗りされるものでもないから、依然陰鬱としていた。思うに陰鬱なときというのは、外部からの情報をなるべく取り込みたくなくなる。あらゆる感覚器官の動作を停止させ、内部から外部への自力脱出を試みたくなるのだが、結局はスーパーマン(時間)の救出が先になる。しかしながら、まさに陰鬱の最中においては、決して救われることは想定していない。

 することが本当に無いので、シャーペンを手に取ってキャップの方を持つというよりは軽く包み、重力にまかせて紙に向かわせてみた。鉛筆を振るとグニャグニャして見えるラバー・ペンシル・イリュージョンみたいに。はじめは白い部分を攻めていたが、次第にレジュメが黒くなっていくのが心地よくなり、文字の上にも被せていった。手に力も入っていって、完全に紙を塗りつぶすという態勢に移行した。どんどん闇が深くなっていく、黒塗りのレジュメ。黒鉛が紙を痛めつけるシャシャシャという音も快感に変わってきて(DVとはこういう構造なのだろうか)、隣の席の学生に迷惑でないか気を払いながらも、やばい奴だと認識されたい心理も働いてその行為を続けていった。無心になるのは本当に難しいことなのだ。

 

 ふと、こんな風に白い紙をひたすら黒で塗りつぶし続ける映像があったことを思い出した(ちょっと違うけど『くれよんのくろくん』なんて絵本もあった)。YouTubeを開いてなんとなくのワードで検索すると目的にたどり着いた。つくづくインターネットは便利だと思う。小学生まではネットを使わせてもらえなかったから、気になったことをすぐ調べられず(まあ母親が大体答えてくれはしたが)好奇心を無駄にしてしまっていた。

 目的というのはAC・公共広告機構の「黒い絵」というCMだった。「あ、これや!」すぐさま合点がいった。そしてこれを昔テレビで見て、(発達障害の)少年の母親に感情移入してしまい、なんとも言えず悲しい、苦しい気持ちになった記憶も蘇ってきた。家を出る前に思い出した貧困家庭の子どもにしろ、この発達障害の少年にしろ、僕が苦しくなるのは彼らの心中を測ってのこともあるのだが、何より親、母親は嫌でも自分の気持ち、現実をまざまざと直視させられてしまう分辛いだろうな、と同情してしまう。同情という言葉は冷たいけれど、こういう場面においては同情というほかないとも思う。共感とは決していわないのがせめてもの配慮なのだ。

 

 自分にはまだ、他人のことを気にかける余裕がある。留年がなんだそれがどうした僕ゆうひん。そんなあまりに人間的で非人道的なロジックでということは断固としてないが、僕の陰鬱さはどこかへ行ってしまっていた。記憶が僕を救ったのか。これもスーパーマンの働きといえてしまうだろうか。

 

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 そうこうして僕は今、食堂でこれを書いているわけだけれど。もはや気分が安定していて、やっぱり何のために書いているのかわからない。食堂は9時で閉まることを知った。閉店準備に客席を片付ける女性店員が可愛いと思った。思うに美人は卑怯だ。顔というのは人が人を認知する際、初めにとりかかる箇所であるのは明らかで、だから何もかもの初手が美人という切り札であるのは圧倒的すぎると思うのだ。ゲームバランスが崩壊している気がするのだ。

 

「あの」

「……はい?」

 

「とてもおきれいですね」

 僕が今日発した意味のある最初の言葉だった。気まぐれシェフのなんとやらだ。彼女は最初戸惑ったようだったけど、すぐに微笑んでくれた。やっぱり美人は卑怯だ。

 

 返す言葉もないような一日どころか、この一瞬だけをもって、死の間際から前借りしてきたかのような、どうしても生きたかった一日になっていた。

 

 

 

 


公共広告機構 CM 『黒い絵』

 

※このCMの男の子が発達障害だと断定しているわけではありません。周囲の大人が「おかしい子だ」と遠ざける様が記憶されており、その記憶に基づいて書いたためこういう表現になっただけです。CMの制作意図は僕にはわかりませんが、放送禁止になってしまったのは仕方がない部分もあるかなと思います。誤解はつきものなので。

 

 

 

クジラの日々(前編)

 

「今日あなたが無駄に過ごした一日は、昨日死んだ人がどうしても生きたかった一日である」

なんて強い言葉をぶつけられたら、返す言葉もないような一日を送っている。現在進行形なのは、今から文章に成形するナルシシズムなどクソの役にも立たないことを知っているからだ。

 

 今日も留年に一歩近づいた。どんな一日か、簡単に振り返るとしよう。

 まず昨日は、部屋にこもってレポートを書こうとしていた。一向に筆は進まなかったものの、何とか締め切り当日、23:59に提出することには成功した。その達成感と安堵に包まれて眠ればよかったものを、なぜか消化不良感が脳を占拠していた。自分はこんなものしか書けないのかと、ひどく失望した。この先もレポートを書いていけるという展望が見えなくなった。つまるところ卒業できない。気分が沈んだら浄化せねばならない。明日はムンク展にでも行こうと思いつき、3時ごろ就寝した。

 6時間睡眠で目が覚め、若干の物足りなさとせっかく早く起きれたのだから時間を有効活用したい気持ちがせめぎ合い、どっちつかずでダラダラしていた。いつものことだ。布団から起き上がるまで1時間はかかる。まして冬がどんどん近づいている。これから一層、長丁場の戦いを強いられることになろう。そう思うといっそ冬眠してしまいたい。

 シャワーを浴びて風呂場から出ると、思いのほか寒くて弱った。せっかく早く起きれたのだから時間を有効活用したい気持ちだったが、ゆっくり身体を温めることこそ最も有効な時間の使い方ではないか、と思うことにして湯を張り、若干のぼせながらkindle(アプリの方)で読書した。贅沢なひとときを終えると、幸福感と錯覚するような優しい熱圏に僕はいて、下着のまま布団に潜り込んだ。直に肌に触れる布団はひんやりと冷たく、ほてった肉体と健全な中和反応を起こしてくれる。

 もうそれだけですっかり憂さは晴れており、わざわざ両手を頬に当て絶叫する男の図などを眺めに行く気にはならなかった。 不意に自分が空腹であることに気付く。毎度のことながら家に手頃な食材はない。冷蔵庫にはマヨネーズと焼き肉のタレが無造作に配置されているだけである(それを食事としてしまう猛者もいるのだろうが)。4限には早すぎるが食事のために登校することを決めた。貧困家庭の子どもにとっては学校給食が重要な役割を占めているという話が頭に浮かんだ。だから学校がなくなる夏休み、そういう子たちの栄養状態を特に気にかけなければならないという。

 

 今日の気温に適した服装を吟味しすぎたせいか、回避できるはずだった昼休みにバッティングしようとしていた。僕は予定を変更し、駅と大学の中間にあるサイゼリヤでランチを摂ることにした。ほうれん草のパスタ、フォカッツァ、スープにサラダがついて税込500円。ドリンクバーもつけて610円。決して高くはないが、安くないのもまた事実だ。空きっ腹にコンソメスープ。空腹とは不思議なもので、たかがスープ、それも具無しのものであっても必死に吸い込もうとする。気付けば3杯おかわりしていた。

 ほどなくサラダ、パスタとフォカッツァが順番に運ばれ、またしてもkindleで読書をしつつ食事をした。どう考えても効率は良くならないのだが、わざわざ食事中も読書をしているとなんとなく様になるというか、読書家気取りの雰囲気に酔いしれることができるからそうするのだ。食事にすら集中できないなんてどうかしていると思うのだが、見渡せばこれが現代流というものらしい。

 ランチのあとはちょっとシエスタ、もう体が自動化されていて、辺り構わず突っ伏して休息をとる。この一週間は忙しかったからか(当人比)、起きた時には4限が始まる目前だった。なんだか萎えてしまい、急げばかろうじて間に合うにもかかわらず、動こうとはできなかった。寝起きの頭にグループワークは厳しいものがある。いや、そうでなくてもここ一週間でCP(コミュニケーション・ポイント)は使い果たしていた。僕は何でもパラメータで数値化する妙な癖がある。やけになって再び目覚めると短針は3と4の間、長針は6の付近を指していた。留年の可能性が頭をもたげる。

15:30 スケジュールアプリを開き、これまで欠席した回数を注意深く数える。そもそも休講だった回がないかとメールボックスも確認する。淡い期待は簡単に打ち砕かれる。

15:40 今日は休んでも大丈夫だが、これ以上休むと危うくペース的には完全にアウト。せっかく大学のすぐ側にいるのだから出席しないのは馬鹿らしい。この期に及んで迷い始める。

15:45 授業開始から50分が経過。教室に着く頃には授業の半分が終わってしまっているだろう。これで出席と言い張る根性はない。やはり今日のところは諦めるしかない。

すっかり気が抜けてしまった。たちまち陰鬱な気分になっていった。せめてドリンクバーの元を取ろうと、コーヒーとコンソメスープを見境なく放り込んだ。腹を壊した。

 踏んだり蹴ったりだ。

 

 本音を言うと、どちらかといえば留年はしてもいいと思っている。4年で卒業というペースは、歩みの遅い僕には端から無理な話だったのだ。浪人したのもそういう事情だし、通っていた高校は3年間の授業内容を2年で終わらせるようなエリート校で、卒業した時点で実質1浪と言われる(冗談じゃなく本当に先生が言うのだ)ほどだったから、僕は2浪して東大に入ったことになる。僕が経済的に独立していれば打つ手はあるが、まだまだ両親に頼りっぱなしの身分、自分の意思(単なる怠惰って?)で決められるものではないのだ。母親は理想を僕に押し付けるきらいがあり、どうしても東大に行ってほしいようだったし(実際来れた)、僕の交際相手にも口を出してくる(昔の話だが)。

 おまけに神経症気質で、僕ら兄弟が悪さをするたび、「今でも薬飲んでるんやからね」が口癖だった。以前、留年という言葉をちらつかせただけで、その可能性が0であることを丁寧に論証する羽目になったほどだ。そんな母親だから、僕が実際に留年したらどうなることか想像もしたくない。まさに彼女譲りの神経症気質で、僕は留年の危機に瀕しているのであるが。

 

 ともかく今日のことは取り返しがつかない。

 

 

ikiriotaku.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

 

人格のバラ売り、サラリーとして3億円 

 はいどーも「東大入っても品性は養われなかったイキリオタクの懺悔」管理人のゆうひんです!

 プチメモリアルということで、忍者めしと懐かしの味ジンジャエールでひっそり祝っております。プレミアムモルツではない。なんやかんやで続いて一年超え、50回目の顔合わせ。(各2回読んでいる人は100回目!)

 そもそもこのおどろおどろしいブログの名前はいかに、気になるあなたに狙いを決めてこの記事を処方。

ikiriotaku.hatenablog.com

 

 なんか、若々しい。

 今やただの日常鬱屈系ブログ、名が体を表さぬ、ハッタリ感満載へとおよすきましたので(古語)、この商標をどなたかに売ってもいいと思っております。ただし体裁は整えてくださいまし。

 

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 以下、人格という言葉を多用します。この言葉は非常に多義で、普段関わる分野によって意味付けがおおよそ変わってくると思いますから、定義からしましょう。


㋐独立した個人としてのその人の人間性。その人固有の、人間としてのありかた。「相手の人格を尊重する」「人格を疑われるような行為」
㋑すぐれた人間性。また、人間性がすぐれていること。「能力・人格ともに備わった人物」
2 心理学で、個人に独自の行動傾向をあらわす統一的全体。性格とほぼ同義だが、知能的面を含んだ広義の概念。パーソナリティー。「人格形成」「二重人格」
倫理学で、自律的行為の主体として、自由意志を持った個人。
4 法律上の行為をなす主体。権利を有し、義務を負う資格のある者。権利能力。

人格-デジタル大辞泉より

 日常的には、1㋐の意味で使われることが多いように思います。また人格者という言葉があるように、㋑のように+のニュアンスが付随することもある。

 僕は+・-は抜きに(そもそも1㋐の意味で人格は尊重されるべきものとされているから+)、ニュートラルな単語として2のような意味合いで使っていると思います。性格とはまた違う、それより広い概念。人間の総体を指すものとして。僕の場合、いわゆるスペックというものもしっかり含んでいます。

 よくわからんという人は、人間のあらゆる側面を統合して、渾然一体ぐちゃあ、としたものとイメージしてください。いうたら、人間から骨肉を差し引いたもののような、けど骨肉から生まれるものが全てで、てか哲学的問題、ますますわからんくなるからやめましょう。

 

 で、僕の主張はごくごくシンプルに言うと、人格丸ごと愛してくださいな。極・言ってみても変わらんのやけれども。そういうことや。鈴木誠也

 

 貨幣経済が浸透し、分業が進んで進んでゆくことで、人は一面的な業績だけを評価してもらって、客観的な尺度に基づいた対等な金額を手にするようになった。そうして生活のサイクルを回していくようになった。要するに、野球選手は野球が上手けりゃ、学者は新発見の論文が書けりゃ、商売人は商売が上手けりゃ、サラリーマンは会社に言われたことをこなせりゃいいのであり、他の一切は不問(ではないが)というわけで。

 僕は、人格を切り売りしてると表現する。まあ、さっき言ったように人格ってぐちゃあとしたものなので、切り取ることは困難なのやけど、大抵マニュアルが決まってるから求められる一部を差し出すことはできる。相互に色々が絡み合ってはいるのやけど。

 

 今の時代よく言われるのが「タグ付け」、自分の好きなもの得意なもので自分をタグ付けしましょう、これは人格を切り売りせよというのと同義なのであり、まさしく資本主義の極致。あ、ちなみに資本主義という言葉は我、空気、と同じぐらいの深刻さで使うので、そんなに怒らんといてください。あいにく政治経済にとんと疎いのでござる。

 内的な自己主張欲求が激しい自分はこの潮流に乗っていかねばと思う一方で、違和感というか、突き詰めれば単なる実力不足による嫉妬なのだが、うーんと思ってしまう節もあって、結局将来が不安。。人格丸ごと愛してほしいと言いたくなってしまうの。

 少し言いたいことと意味合いは変わるけど、パワプロでいうとオールD(過小評価した鈴木大地)じゃダメですかということ。SやAのパラメータはないけれども、まとめたら結構いい感じやんってやつ。けれど、便利屋がいいとこなんでしょうか。スポットライトは浴びられませんかね。

 

 人格丸ごと愛してくれるって、何なんでしょうか? 母親でしょうか? 

 あるいは恋人にそれを求める人も多いでしょう。

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こんなイメージ?

 僕はこのブログに対して、いつもいつも僕の人格をぶつけています。切り売りではなく、まるままドンッ!(ぐちゃあ) 文章こそが人格の晴れ舞台だと思っていて、例えば告白にしても、僕は直接口で言うよりも文章で丁寧にお気持ちを表現する方を好むと思う。されるにしても同様。ほんまにこれは知らんけど、なのやけど。
 言葉こそ切り売りの最たるものと思う方も当然いるでしょう。うまい下手もあるし、何割をちゃんとぶつけられるかわからん。全力ストレートを投げても、130km/hの人もいれば160km/hの人もいる。けど少なくとも、僕は表現したいと思っています。自分の部屋が浮かび上がってくるような感じを。腰を据えて、いったん落ち着かないとやってられんのです。

 

 

 こんな調子だと、将来結婚できない気がする。いわんや手に職をや。

 

恋とマシンガン

 

 TwitterのTLに元気がなく、布団から起き上がって何かをするような元気もなく、ただただ退屈に放置されている深夜、青空文庫を読むことにした。その名に反し、雨の日も風の日も、24時間いつでも青空文庫は読むことができる。

 選んだタイトルは太宰治の『斜陽』。

 この小説には数多くのパワーワード(もはや使われなくなった感がある)が登場する。気に入ったページのスクショを数枚撮ってみた。

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 その中でも最も印象的だったフレーズを紹介したい。作中で主に語り手を務めるかず子の言葉である。

人間は恋と革命のために生れて来たのだ。

 なんと力強いことか。

 僕にとって印象的だったのは、僕自身もこのように思ったことが何度かあるような気がするからだ。

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 大学入学当初の僕は「革命家になりたい」と口走っており、すぐ知り合った大学院の先輩もかつて同じ志を持っていたと知ったときは、何だか勇気が出た。誰も本気に捉えないだろうが、やはり人生のある時期においては、革命衝動が湧き起こって仕方なくなるものだという確信をそのとき得た。

 

 そして恋である。革命も恋も、口に出す、いや文字にして発信するだけでも恥ずかしいものに思われる。が、しかし、恋である。

 恋愛とはまた違うのが恋である。恋愛とは駆け引き、ある種ゲーム的な娯楽であるのに対し、恋とは自然発生的な感情の揺らぎである。恋愛は相互作用を基盤とするが、恋は一方通行で構わないし、見返りは求めないのが流儀だ。

 ところでガチ恋という言葉が流布しているが、あれは冗長である。ガチでない恋なんてあるものか。照れ隠しでガチとつけるだけ、日本語の妙味。

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 SHISHAMOに恋愛休暇という曲があるけれど、恋に休暇は要らない。恋愛は時に神経をすり減らし、時間も労力も奪われるだけだが、恋は生きる理由、活力を与えてくれる。

 

 イスファハーンが慈悲深く残した世界の半分を、丸々恋で覆いつくしてしまっていいとさえ思ったことがある。異性の割合は人間の半分であり、そう、半分であるのだ。

 

 もちろん、常日頃から恋と革命を意識することはない。それは我々があまりに疲弊しているからである。一見逆(特に後者について)かと思うかもしれないが、恋と革命のためには心が健全でないといけない。若い精神を携えた時点では、「人間は恋と革命のために生れて来た」と感じることがあると僕は思う。

 ちなみに作中のかず子は二十九歳である。

 

 これで締めてもよいのだが、僕はある発見をしてしまった。

 この名文のエッセンスを凝縮したかのようなタイトルの曲があった。

 

 フリッパーズ・ギターの『恋とマシンガン』である。

 冒頭の「ダーバーダ ダダーバダバダバ」というスキャットが耳に残る曲だが、

真夜中のマシンガンで

君のハートも撃ち抜けるさ

という歌詞も実に素敵で強烈だと思う。ハートを射止めるとか撃ち抜くとか、それだけなら陳腐な表現かもしれないが、武器になるのは真夜中のマシンガンだ。

 そして、次の発想に至るわけである。

 

 マシンガンとは革命のことではないか!?

 

 マシンガンぐらいでは足りないのかもしれない、がしかし、「恋とマシンガン」とは「人間は恋と革命のために生れて来たのだ。」のパラフレーズではないか。作り手の意図はともかく、おめでたい僕は二つを強引に結びつけてしまったのである。

 おまけに思わず車内で、やっぱり恋と革命だよな、とつぶやいてしまった。いや、あえて聞こえるように。

 

 試しに「斜陽 恋とマシンガン」と検索してみたが、まったくヒットしなかった。これは僕だけの発見である。

 

理由のあるものに 意味はないと思う

恋に理由はない 革命に理由はない

ただ衝動 それだけがある

 

 ちなみに本の主題歌を決めるサイトがあって、斜陽には恋とマシンガンを設定したい。明るい曲調と破滅へ向かう小説の展開はマッチしないかもしれないが、誰も気にしてはならぬ。

 

 

斜陽 (新潮文庫)

斜陽 (新潮文庫)

 

 


Flipper's Guitar - 恋とマシンガン (Young, Alive, In love)