図画工作:課題「思い出を作りなさい」

 

 もう三週間以上も前のこと、深夜に堪えきれない思いの丈を下書きに書き殴った。そのことは確かに記憶している。今それを引っ張り出し、編集しようと思い立った。その時の僕の思考回路を等しく辿ることは到底不可能であるから、この試みが成功するかはわからない。もはや過去の自分から現在の自分へと、言語だけを介した翻訳に臨むような気持である。

 

 先日、大好きな文学作品が映画化することが発表された。僕は嬉しくて小躍りどころか追加料金を払い大踊りまでした。一方で「ついにか」と妙に納得、冷静な自分も当然同居していた。作品への想いを噛み締めていたらご飯を食べるのを忘れた。数日後に新たな情報が入ってきた。ある重要なシーンのエキストラが募集されたのだ。「皆さんとともに盛り上げていきたいと思います」当たり前だ。俺なくしてこの映画は成り立たない。もう、もうそれは、参加するに決まっている。確定している。定義されている。猛然と応募メールを打ち込もうとしたのだが、一応その日付を確認しておく。するとあろうことか、開いたスケジュール帳には「絶対に外せない用事」と書かれているではないか! 「バイト」「親戚の結婚式」とかならわかるが、絶対に外せない用事と書かれていた時の衝撃よ! おそらく君たちは経験したことがない。なぜなら自分個人のスケジュール帳において具体的な予定を秘匿する必要はないからだ。やはり過去の自分の思考回路というものは理解に窮する。ともかく、僕は大好きな映画のエキストラに出演できないとわかって、堪らなく悔しいのか悲しいのかなんとも形容しがたい初めての気持を味わった。端的には事を成すことができなかったということだが、当初から計画されていたわけではなく突如降ってきた機会だし、自分の不徳によるものでもない。僕はどう感情を扱えばよいのかわからなかった。

 ここから哲学の森の無免許ドライブが始まってしまう。臨場感を伝えるべく、先日の下書きにほとんど手を加えないままお届けしたい。

 

・『青少年のための自殺学入門』を手に取るに至った経緯(思い出が全てか)
 

 「そして、思い出というものの必要性に想いを馳せることになった。今回の件も、陳腐な言葉で言ってしまえば目的としては思い出づくりなのであり、というのもその記憶が完全に消去されるとしたらそこまでして参加したいか、と言われると微妙なものだ(記憶が保持されるなら、通常なら猛然と参加したいのであるが、ゆえにこんなものを書いてしまっているのであるが)。エキストラとして演技をしているその瞬間の楽しみだけを求めているわけではないからだ。映画を観た際に、自分がエキストラとして出演した事実を思い出せることが特権なのである。

 しかし、果たして思い出が全てであろうか?
 物事は何のためにあるのか。全ての営為はなぜ行われるのか。その瞬間の全身全霊、それだけのためではないことが大半であると思う。次へ、未来へ、未来の自分を立たせることに繋がるからこそ行われるのであり、であれば未来がなかったら? もちろん一回性の、その限られた時間で完結させるべき物事も存在する。(未来を否定して考えると)僕はそういうもののために生きているのだと気が付いた。

 先ほど、記憶が保持されないならば何とか溜飲を下げることはできると述べたが、それは違う。エキストラの詳細を説明すると、その物語の舞台となる実在の都市に行き、実際に代々行われている祭りのシーンを撮影するというものだ。この祭りのシーンは物語中でかなり重要であり(これを境に物語は次のステップへ移行する)、総勢数百人の人手が必要だという。これの何がいいかというと、まずその文学作品の舞台の地に行けるというのがそうだし、一番大きいのは、全国のファンが集って一斉に作品を現実のものに起こすという大がかりな作業を行うということだ。これは限りなく一回性の、限られた時間で完結させるべき物事だ。たとえ未来に繋がることがなかろうと(仮に映画の公開が中止になったとしても)、自分にとってはその瞬間だけに意義がある。だからなおさら、今回の件は悔やまれる。人生の最大の目的を逃したわけだ。

 

 しかし、現在も過ぎ去れば過去へ、思い出へと成り下がってしまうのではないか?

 僕は自分の果たされなかった気持ちを払い捨てるためが如く、過去は全て過去であるし、現在もいずれ全て過去であると、悟りに近いことを考えた。ただ一切は過ぎて行きますではないが、ならば何のために生きているのか、何のために未来がある、あるいは未来を志向するのだろうか? さっきは未来の可能性を否定したとて現在はまさしく現に在るのであって、そこに生きる価値があると言った。しかし、現在もいずれ全て過去であるならば、何の意味があろうか? 未来など言語道断だ。ツーステップ踏むわけであるから。過去になってしまえば一切が無に帰するのであれば、現在を現在のものとして完結させなければならない。自らを完全な形で満たそうと思ったら、必ず終わりを定める必要があると感じた。ここぞというタイミング、頂点に立った瞬間、絶頂の中で死ななければ欺瞞だと感じた。
 こうした経緯で死に興味を抱き、自殺というものは自分で生涯を完結させるための手段だと思うと、ある思想が思い当たった。そこで本棚から引っ張り出してきたのがこの作品である。
 

 ──死ぬ自由くらいは自分で創造しよう! 

 以前はなんら感傷を抱かなかった言葉が、今の僕には響いたのである。」

 

 理解されない人には何ら理解されないかもしれない。国語の入試問題のような、何ら理解できない文章を強制的に読まされる苦痛、あれに近いものを感じているかもしれない。しかし、誰もが中学生くらいの頃に考えたことがあるような内容ではないか? 生きるのが実に苦しくなったとき、生きることの価値を否定してしまえば驚くほど楽になる。価値を見出すから満たされない苦悩が必然的に生じるのであって、万物の価値を否定する。あるいは価値そのものを否定する。努力が得意な人であれば努力によって乗り越えていけばよいだろう。僕のように努力が不得手な人が打ちうる生への対処法は、未だこの程度のものしか発見できていない。かつて強く抱いていた生への諦めは、今なおこうしてぶり返すことが間々ある。

 

 僕はこれを書いただけでは飽き足らず、「思い出」について思索することになる。小学校では「思い出のアルバム」というものを制作したりもしたが、僕が引っかかることが多いのは「思い出を作る」という表現である。世の人々は往々にして(口に出すかはともかく)思い出作りなる名目のもと、思い思いのワイワイガヤガヤ・キャッキャウフフ的イベントの発生に精を出していると思われるのだが、思い出は作るものなのだろうか? ちなみに「(作られた?)思い出」には、SNSに投稿することで満たされる自己顕示欲や承認欲求、単にあるイベントを経験したという事実から生じる満足感(多くの場合、回数を意識している。初めては特別がち)という周辺事項も含めて考えている。それらは全てある出来事の過去性に意味を見出しているからだ。

 

・ブログ下書き「それでもなお、悶々と」(思い出は「作れる」のか)

 

 「(まだ僕は件を引きずっている) 映画の一部になるということに価値があるのだ。映画になるというのは瞬間の出来事ではない、できあがったものとして認識することによって生まれる快である。そして、というのは記憶に深く依存しているということだ。SNSの投稿などというのはすべてそれだ。終わった出来事をわざわざ報告するのである。報告で得られる快はその出来事による快とは違った性質のものだ。記憶に頼る出来事に、果たしてどれほどの価値があるのか。僕の疑問はそのように生まれた。

 物事の快には二つある。認識を経て快を得るものと、認識を経ずしてその場によって喚起される快。単純な時間軸の差異に由来するのではない。「俺は今これをしている」という認識が引き起こす現在行為における快もたくさんある。

 思い出は永続するから価値があるんだろう。思い出が尊いことは認めている。それにしても不思議な感覚である。立ち止まって考えると、まるっきりわからなくなる。でも、一瞬間の熱狂には勝ることがないように思う。比較軸などないし、勝る劣るではないのだろうけれど、熱狂というものはどうにも不遇な扱いを受けている気がする。すべて思い出に昇華されてしまっているからだ。瞬間は瞬間で留めることができない。記憶とは矛盾だ。僕は全身全霊で熱狂を感じたままに物語を完結させたいのかもしれない。やさぐれたアーティスト等が表明する意思に、初めて同意することができた瞬間である。

 思い出は作るし、振り返る。けど、「"思い出"する」ことはできない。つまり現在の行為としては成り立たない。確かに思い出の元となる出来事については、現在発生している。しかしこれが思い出として認識されるのは未来のことであり、現在ではない。だから思い出を作るというのは本来あり得ない(「カワイイ」は作れるらしいが)。思い出になり得るという次元の話に止まる。瞬間の出来事は過ぎ去れば、瞬時に思い出のフォルダに収まってしまえば、もう瞬間には回帰できない。

 思い出の次元に入り、それぞれに見合った時が経過し、様々な経験を積むことで快に転じる出来事はたくさんある。そこに思い出の真価がある。しかし、本来的に人生は思い出を積み重ねるものではないと思うのだ。その瞬間、熱狂できない営為に価値はあるか? それを求めずして、何を生きたというのか?

 本当は、思い出を振り返る暇すらもない生活が理想なのだろうか。そうなれば、僕の文章というものは全て消え去ってしまうわけだが。もっとも、今こうして文章を書いているように、過去の出来事、現在思い出となっているものを基盤として、現在について思いを馳せることから得られる快は人生の一つの意義に違いない。まさしく僕は今楽しんでいる。そして今後、何度もこの文章を読み返すだろう。それもまた別の形の楽しみである。」

 

 壊れるほど愛しても1/3も伝わらないのだから、今回の手記が1ミリも伝わらないことは百も承知だ。なんなら自分でも何を考えているのか把握できていない。僕は決して未来を志向すること、達成したという事実自体に価値を見出すこと、その物事の達成・実現のために現在を軽んずることを否定しているわけではない。自分もやっていることだから、肯定せざるを得ない。しかし、時折立ち止まって自分の足元を見つめたくなってしまう。自己を批判することは世間を批判することだ。至って平々凡々な思考しかしていない。今回の、現在も未来もいずれ過去になるという発想から生の苦しみを乗り越える試みは、客観的には破綻している。ゆえ、苦しみから逃れる術を僕はまだ知らない。根性論も価値の盲信も跳ね除け、生きていく方法を模索してくれる人を僕は応援したい。

 

 

 

 

 

 

 

クジラの日々(後編)

 

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 なんて割り切れるはずもなく(親譲りの神経症だ)、腹も神に祈るほど深刻ではなかったから、数百メートル先にある大学へと向かった。5限は工学部の教室で、ストレス・マネジメント概論という授業だった(工学部というところがミソだ)。これまで初回を除いて奇跡と感動の全出席を果たしている、通称メンヘラ概論である。だから今日休んだところでこちらの単位は安泰なのだが、メンヘラの方が僕をおびき寄せてしまうのだ。

 そういうわけでテーマは僕と非常に親和性が高いのだが、似たような授業はこれまでも散々履修しておりほとんどが既知の内容なわけであるから、あまり実のあるものではない。どの講師も判で押したように淡々と授業を進める。必要十分な情報が載ったスライドを一定のリズムで繰っていき、抑揚のなさはむしろギャグなのかと勘違いするほど、周波数が変動しない。各授業の最後に長大なレポートが課されるのだが、用紙の下方に今回の授業は何点でしたか?という質問項目が置かれていて、僕は記入したことがない。自分を守るためだけの、かえって失礼な見せかけのやさしさを弄しなければ、どれも5点満点で0か1になってしまうから。

 

 今日の授業も違わなかった。タイトルこそ「ストレスとの付き合い方」と授業の名前と同内容であるため、短編集の表題作というものの全ては作者の自信作である、という偏見から期待したのだが、見事に恐ろしく退屈だった。陰鬱と退屈は全くもって違うが、上塗りされるものでもないから、依然陰鬱としていた。思うに陰鬱なときというのは、外部からの情報をなるべく取り込みたくなくなる。あらゆる感覚器官の動作を停止させ、内部から外部への自力脱出を試みたくなるのだが、結局はスーパーマン(時間)の救出が先になる。しかしながら、まさに陰鬱の最中においては、決して救われることは想定していない。

 することが本当に無いので、シャーペンを手に取ってキャップの方を持つというよりは軽く包み、重力にまかせて紙に向かわせてみた。鉛筆を振るとグニャグニャして見えるラバー・ペンシル・イリュージョンみたいに。はじめは白い部分を攻めていたが、次第にレジュメが黒くなっていくのが心地よくなり、文字の上にも被せていった。手に力も入っていって、完全に紙を塗りつぶすという態勢に移行した。どんどん闇が深くなっていく、黒塗りのレジュメ。黒鉛が紙を痛めつけるシャシャシャという音も快感に変わってきて(DVとはこういう構造なのだろうか)、隣の席の学生に迷惑でないか気を払いながらも、やばい奴だと認識されたい心理も働いてその行為を続けていった。無心になるのは本当に難しいことなのだ。

 

 ふと、こんな風に白い紙をひたすら黒で塗りつぶし続ける映像があったことを思い出した(ちょっと違うけど『くれよんのくろくん』なんて絵本もあった)。YouTubeを開いてなんとなくのワードで検索すると目的にたどり着いた。つくづくインターネットは便利だと思う。小学生まではネットを使わせてもらえなかったから、気になったことをすぐ調べられず(まあ母親が大体答えてくれはしたが)好奇心を無駄にしてしまっていた。

 目的というのはAC・公共広告機構の「黒い絵」というCMだった。「あ、これや!」すぐさま合点がいった。そしてこれを昔テレビで見て、(発達障害の)少年の母親に感情移入してしまい、なんとも言えず悲しい、苦しい気持ちになった記憶も蘇ってきた。家を出る前に思い出した貧困家庭の子どもにしろ、この発達障害の少年にしろ、僕が苦しくなるのは彼らの心中を測ってのこともあるのだが、何より親、母親は嫌でも自分の気持ち、現実をまざまざと直視させられてしまう分辛いだろうな、と同情してしまう。同情という言葉は冷たいけれど、こういう場面においては同情というほかないとも思う。共感とは決していわないのがせめてもの配慮なのだ。

 

 自分にはまだ、他人のことを気にかける余裕がある。留年がなんだそれがどうした僕ゆうひん。そんなあまりに人間的で非人道的なロジックでということは断固としてないが、僕の陰鬱さはどこかへ行ってしまっていた。記憶が僕を救ったのか。これもスーパーマンの働きといえてしまうだろうか。

 

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 そうこうして僕は今、食堂でこれを書いているわけだけれど。もはや気分が安定していて、やっぱり何のために書いているのかわからない。食堂は9時で閉まることを知った。閉店準備に客席を片付ける女性店員が可愛いと思った。思うに美人は卑怯だ。顔というのは人が人を認知する際、初めにとりかかる箇所であるのは明らかで、だから何もかもの初手が美人という切り札であるのは圧倒的すぎると思うのだ。ゲームバランスが崩壊している気がするのだ。

 

「あの」

「……はい?」

 

「とてもおきれいですね」

 僕が今日発した意味のある最初の言葉だった。気まぐれシェフのなんとやらだ。彼女は最初戸惑ったようだったけど、すぐに微笑んでくれた。やっぱり美人は卑怯だ。

 

 返す言葉もないような一日どころか、この一瞬だけをもって、死の間際から前借りしてきたかのような、どうしても生きたかった一日になっていた。

 

 

 

 


公共広告機構 CM 『黒い絵』

 

※このCMの男の子が発達障害だと断定しているわけではありません。周囲の大人が「おかしい子だ」と遠ざける様が記憶されており、その記憶に基づいて書いたためこういう表現になっただけです。CMの制作意図は僕にはわかりませんが、放送禁止になってしまったのは仕方がない部分もあるかなと思います。誤解はつきものなので。

 

 

 

クジラの日々(前編)

 

「今日あなたが無駄に過ごした一日は、昨日死んだ人がどうしても生きたかった一日である」

なんて強い言葉をぶつけられたら、返す言葉もないような一日を送っている。現在進行形なのは、今から文章に成形するナルシシズムなどクソの役にも立たないことを知っているからだ。

 

 今日も留年に一歩近づいた。どんな一日か、簡単に振り返るとしよう。

 まず昨日は、部屋にこもってレポートを書こうとしていた。一向に筆は進まなかったものの、何とか締め切り当日、23:59に提出することには成功した。その達成感と安堵に包まれて眠ればよかったものを、なぜか消化不良感が脳を占拠していた。自分はこんなものしか書けないのかと、ひどく失望した。この先もレポートを書いていけるという展望が見えなくなった。つまるところ卒業できない。気分が沈んだら浄化せねばならない。明日はムンク展にでも行こうと思いつき、3時ごろ就寝した。

 6時間睡眠で目が覚め、若干の物足りなさとせっかく早く起きれたのだから時間を有効活用したい気持ちがせめぎ合い、どっちつかずでダラダラしていた。いつものことだ。布団から起き上がるまで1時間はかかる。まして冬がどんどん近づいている。これから一層、長丁場の戦いを強いられることになろう。そう思うといっそ冬眠してしまいたい。

 シャワーを浴びて風呂場から出ると、思いのほか寒くて弱った。せっかく早く起きれたのだから時間を有効活用したい気持ちだったが、ゆっくり身体を温めることこそ最も有効な時間の使い方ではないか、と思うことにして湯を張り、若干のぼせながらkindle(アプリの方)で読書した。贅沢なひとときを終えると、幸福感と錯覚するような優しい熱圏に僕はいて、下着のまま布団に潜り込んだ。直に肌に触れる布団はひんやりと冷たく、ほてった肉体と健全な中和反応を起こしてくれる。

 もうそれだけですっかり憂さは晴れており、わざわざ両手を頬に当て絶叫する男の図などを眺めに行く気にはならなかった。 不意に自分が空腹であることに気付く。毎度のことながら家に手頃な食材はない。冷蔵庫にはマヨネーズと焼き肉のタレが無造作に配置されているだけである(それを食事としてしまう猛者もいるのだろうが)。4限には早すぎるが食事のために登校することを決めた。貧困家庭の子どもにとっては学校給食が重要な役割を占めているという話が頭に浮かんだ。だから学校がなくなる夏休み、そういう子たちの栄養状態を特に気にかけなければならないという。

 

 今日の気温に適した服装を吟味しすぎたせいか、回避できるはずだった昼休みにバッティングしようとしていた。僕は予定を変更し、駅と大学の中間にあるサイゼリヤでランチを摂ることにした。ほうれん草のパスタ、フォカッツァ、スープにサラダがついて税込500円。ドリンクバーもつけて610円。決して高くはないが、安くないのもまた事実だ。空きっ腹にコンソメスープ。空腹とは不思議なもので、たかがスープ、それも具無しのものであっても必死に吸い込もうとする。気付けば3杯おかわりしていた。

 ほどなくサラダ、パスタとフォカッツァが順番に運ばれ、またしてもkindleで読書をしつつ食事をした。どう考えても効率は良くならないのだが、わざわざ食事中も読書をしているとなんとなく様になるというか、読書家気取りの雰囲気に酔いしれることができるからそうするのだ。食事にすら集中できないなんてどうかしていると思うのだが、見渡せばこれが現代流というものらしい。

 ランチのあとはちょっとシエスタ、もう体が自動化されていて、辺り構わず突っ伏して休息をとる。この一週間は忙しかったからか(当人比)、起きた時には4限が始まる目前だった。なんだか萎えてしまい、急げばかろうじて間に合うにもかかわらず、動こうとはできなかった。寝起きの頭にグループワークは厳しいものがある。いや、そうでなくてもここ一週間でCP(コミュニケーション・ポイント)は使い果たしていた。僕は何でもパラメータで数値化する妙な癖がある。やけになって再び目覚めると短針は3と4の間、長針は6の付近を指していた。留年の可能性が頭をもたげる。

15:30 スケジュールアプリを開き、これまで欠席した回数を注意深く数える。そもそも休講だった回がないかとメールボックスも確認する。淡い期待は簡単に打ち砕かれる。

15:40 今日は休んでも大丈夫だが、これ以上休むと危うくペース的には完全にアウト。せっかく大学のすぐ側にいるのだから出席しないのは馬鹿らしい。この期に及んで迷い始める。

15:45 授業開始から50分が経過。教室に着く頃には授業の半分が終わってしまっているだろう。これで出席と言い張る根性はない。やはり今日のところは諦めるしかない。

すっかり気が抜けてしまった。たちまち陰鬱な気分になっていった。せめてドリンクバーの元を取ろうと、コーヒーとコンソメスープを見境なく放り込んだ。腹を壊した。

 踏んだり蹴ったりだ。

 

 本音を言うと、どちらかといえば留年はしてもいいと思っている。4年で卒業というペースは、歩みの遅い僕には端から無理な話だったのだ。浪人したのもそういう事情だし、通っていた高校は3年間の授業内容を2年で終わらせるようなエリート校で、卒業した時点で実質1浪と言われる(冗談じゃなく本当に先生が言うのだ)ほどだったから、僕は2浪して東大に入ったことになる。僕が経済的に独立していれば打つ手はあるが、まだまだ両親に頼りっぱなしの身分、自分の意思(単なる怠惰って?)で決められるものではないのだ。母親は理想を僕に押し付けるきらいがあり、どうしても東大に行ってほしいようだったし(実際来れた)、僕の交際相手にも口を出してくる(昔の話だが)。

 おまけに神経症気質で、僕ら兄弟が悪さをするたび、「今でも薬飲んでるんやからね」が口癖だった。以前、留年という言葉をちらつかせただけで、その可能性が0であることを丁寧に論証する羽目になったほどだ。そんな母親だから、僕が実際に留年したらどうなることか想像もしたくない。まさに彼女譲りの神経症気質で、僕は留年の危機に瀕しているのであるが。

 

 ともかく今日のことは取り返しがつかない。

 

 

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人格のバラ売り、サラリーとして3億円 

 はいどーも「東大入っても品性は養われなかったイキリオタクの懺悔」管理人のゆうひんです!

 プチメモリアルということで、忍者めしと懐かしの味ジンジャエールでひっそり祝っております。プレミアムモルツではない。なんやかんやで続いて一年超え、50回目の顔合わせ。(各2回読んでいる人は100回目!)

 そもそもこのおどろおどろしいブログの名前はいかに、気になるあなたに狙いを決めてこの記事を処方。

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 なんか、若々しい。

 今やただの日常鬱屈系ブログ、名が体を表さぬ、ハッタリ感満載へとおよすきましたので(古語)、この商標をどなたかに売ってもいいと思っております。ただし体裁は整えてくださいまし。

 

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 以下、人格という言葉を多用します。この言葉は非常に多義で、普段関わる分野によって意味付けがおおよそ変わってくると思いますから、定義からしましょう。


㋐独立した個人としてのその人の人間性。その人固有の、人間としてのありかた。「相手の人格を尊重する」「人格を疑われるような行為」
㋑すぐれた人間性。また、人間性がすぐれていること。「能力・人格ともに備わった人物」
2 心理学で、個人に独自の行動傾向をあらわす統一的全体。性格とほぼ同義だが、知能的面を含んだ広義の概念。パーソナリティー。「人格形成」「二重人格」
倫理学で、自律的行為の主体として、自由意志を持った個人。
4 法律上の行為をなす主体。権利を有し、義務を負う資格のある者。権利能力。

人格-デジタル大辞泉より

 日常的には、1㋐の意味で使われることが多いように思います。また人格者という言葉があるように、㋑のように+のニュアンスが付随することもある。

 僕は+・-は抜きに(そもそも1㋐の意味で人格は尊重されるべきものとされているから+)、ニュートラルな単語として2のような意味合いで使っていると思います。性格とはまた違う、それより広い概念。人間の総体を指すものとして。僕の場合、いわゆるスペックというものもしっかり含んでいます。

 よくわからんという人は、人間のあらゆる側面を統合して、渾然一体ぐちゃあ、としたものとイメージしてください。いうたら、人間から骨肉を差し引いたもののような、けど骨肉から生まれるものが全てで、てか哲学的問題、ますますわからんくなるからやめましょう。

 

 で、僕の主張はごくごくシンプルに言うと、人格丸ごと愛してくださいな。極・言ってみても変わらんのやけれども。そういうことや。鈴木誠也

 

 貨幣経済が浸透し、分業が進んで進んでゆくことで、人は一面的な業績だけを評価してもらって、客観的な尺度に基づいた対等な金額を手にするようになった。そうして生活のサイクルを回していくようになった。要するに、野球選手は野球が上手けりゃ、学者は新発見の論文が書けりゃ、商売人は商売が上手けりゃ、サラリーマンは会社に言われたことをこなせりゃいいのであり、他の一切は不問(ではないが)というわけで。

 僕は、人格を切り売りしてると表現する。まあ、さっき言ったように人格ってぐちゃあとしたものなので、切り取ることは困難なのやけど、大抵マニュアルが決まってるから求められる一部を差し出すことはできる。相互に色々が絡み合ってはいるのやけど。

 

 今の時代よく言われるのが「タグ付け」、自分の好きなもの得意なもので自分をタグ付けしましょう、これは人格を切り売りせよというのと同義なのであり、まさしく資本主義の極致。あ、ちなみに資本主義という言葉は我、空気、と同じぐらいの深刻さで使うので、そんなに怒らんといてください。あいにく政治経済にとんと疎いのでござる。

 内的な自己主張欲求が激しい自分はこの潮流に乗っていかねばと思う一方で、違和感というか、突き詰めれば単なる実力不足による嫉妬なのだが、うーんと思ってしまう節もあって、結局将来が不安。。人格丸ごと愛してほしいと言いたくなってしまうの。

 少し言いたいことと意味合いは変わるけど、パワプロでいうとオールD(過小評価した鈴木大地)じゃダメですかということ。SやAのパラメータはないけれども、まとめたら結構いい感じやんってやつ。けれど、便利屋がいいとこなんでしょうか。スポットライトは浴びられませんかね。

 

 人格丸ごと愛してくれるって、何なんでしょうか? 母親でしょうか? 

 あるいは恋人にそれを求める人も多いでしょう。

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こんなイメージ?

 僕はこのブログに対して、いつもいつも僕の人格をぶつけています。切り売りではなく、まるままドンッ!(ぐちゃあ) 文章こそが人格の晴れ舞台だと思っていて、例えば告白にしても、僕は直接口で言うよりも文章で丁寧にお気持ちを表現する方を好むと思う。されるにしても同様。ほんまにこれは知らんけど、なのやけど。
 言葉こそ切り売りの最たるものと思う方も当然いるでしょう。うまい下手もあるし、何割をちゃんとぶつけられるかわからん。全力ストレートを投げても、130km/hの人もいれば160km/hの人もいる。けど少なくとも、僕は表現したいと思っています。自分の部屋が浮かび上がってくるような感じを。腰を据えて、いったん落ち着かないとやってられんのです。

 

 

 こんな調子だと、将来結婚できない気がする。いわんや手に職をや。

 

恋とマシンガン

 

 TwitterのTLに元気がなく、布団から起き上がって何かをするような元気もなく、ただただ退屈に放置されている深夜、青空文庫を読むことにした。その名に反し、雨の日も風の日も、24時間いつでも青空文庫は読むことができる。

 選んだタイトルは太宰治の『斜陽』。

 この小説には数多くのパワーワード(もはや使われなくなった感がある)が登場する。気に入ったページのスクショを数枚撮ってみた。

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 その中でも最も印象的だったフレーズを紹介したい。作中で主に語り手を務めるかず子の言葉である。

人間は恋と革命のために生れて来たのだ。

 なんと力強いことか。

 僕にとって印象的だったのは、僕自身もこのように思ったことが何度かあるような気がするからだ。

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 大学入学当初の僕は「革命家になりたい」と口走っており、すぐ知り合った大学院の先輩もかつて同じ志を持っていたと知ったときは、何だか勇気が出た。誰も本気に捉えないだろうが、やはり人生のある時期においては、革命衝動が湧き起こって仕方なくなるものだという確信をそのとき得た。

 

 そして恋である。革命も恋も、口に出す、いや文字にして発信するだけでも恥ずかしいものに思われる。が、しかし、恋である。

 恋愛とはまた違うのが恋である。恋愛とは駆け引き、ある種ゲーム的な娯楽であるのに対し、恋とは自然発生的な感情の揺らぎである。恋愛は相互作用を基盤とするが、恋は一方通行で構わないし、見返りは求めないのが流儀だ。

 ところでガチ恋という言葉が流布しているが、あれは冗長である。ガチでない恋なんてあるものか。照れ隠しでガチとつけるだけ、日本語の妙味。

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 SHISHAMOに恋愛休暇という曲があるけれど、恋に休暇は要らない。恋愛は時に神経をすり減らし、時間も労力も奪われるだけだが、恋は生きる理由、活力を与えてくれる。

 

 イスファハーンが慈悲深く残した世界の半分を、丸々恋で覆いつくしてしまっていいとさえ思ったことがある。異性の割合は人間の半分であり、そう、半分であるのだ。

 

 もちろん、常日頃から恋と革命を意識することはない。それは我々があまりに疲弊しているからである。一見逆(特に後者について)かと思うかもしれないが、恋と革命のためには心が健全でないといけない。若い精神を携えた時点では、「人間は恋と革命のために生れて来た」と感じることがあると僕は思う。

 ちなみに作中のかず子は二十九歳である。

 

 これで締めてもよいのだが、僕はある発見をしてしまった。

 この名文のエッセンスを凝縮したかのようなタイトルの曲があった。

 

 フリッパーズ・ギターの『恋とマシンガン』である。

 冒頭の「ダーバーダ ダダーバダバダバ」というスキャットが耳に残る曲だが、

真夜中のマシンガンで

君のハートも撃ち抜けるさ

という歌詞も実に素敵で強烈だと思う。ハートを射止めるとか撃ち抜くとか、それだけなら陳腐な表現かもしれないが、武器になるのは真夜中のマシンガンだ。

 そして、次の発想に至るわけである。

 

 マシンガンとは革命のことではないか!?

 

 マシンガンぐらいでは足りないのかもしれない、がしかし、「恋とマシンガン」とは「人間は恋と革命のために生れて来たのだ。」のパラフレーズではないか。作り手の意図はともかく、おめでたい僕は二つを強引に結びつけてしまったのである。

 おまけに思わず車内で、やっぱり恋と革命だよな、とつぶやいてしまった。いや、あえて聞こえるように。

 

 試しに「斜陽 恋とマシンガン」と検索してみたが、まったくヒットしなかった。これは僕だけの発見である。

 

理由のあるものに 意味はないと思う

恋に理由はない 革命に理由はない

ただ衝動 それだけがある

 

 ちなみに本の主題歌を決めるサイトがあって、斜陽には恋とマシンガンを設定したい。明るい曲調と破滅へ向かう小説の展開はマッチしないかもしれないが、誰も気にしてはならぬ。

 

 

斜陽 (新潮文庫)

斜陽 (新潮文庫)

 

 


Flipper's Guitar - 恋とマシンガン (Young, Alive, In love)

 

 

 

 

 

今日、僕は

 

 東大生が逮捕された。ワイドショーでは事件の概要より顔のコンプレックスの話に時間が割かれていた。東大入っても品性は養われなかったイキリオタクのくせに、普段から懺悔しておかないからこうなるんだ。

 けどまあ、人が死んだわけじゃない。死を絶対視するのもどうかと思うが、今回の件は騒ぎ立てるほどのことではない。みんなも、他人の権利を侵害しない領域で、好きなように生きればいいと思う。

 

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 明日はコンタクトレンズの交換日です

 

というスマホの通知があった。昨日のことである。つまり、今日はコンタクトレンズの交換日である。

 コンタクトレンズにはソフトとハードがあって、ハードは年単位で使うことができる。ソフトは1day(いわゆる使い捨て)、2weeks、1monthとあって、僕は2weeksを使用している。1つのレンズにつき使えるのは2週間までということだ。それ以上使い続けると最悪失明に至る危険もあるらしい。

 当然、ハードであれば同じものを使い続けられるので、単価は高いがトータルで見れば断然お得だ。とはいえ砂埃が入るととんでもない痛みが発生し、万が一落とした場合の損失は莫大で、悲惨だ。

 漫画『ドラえもん』で、コンタクトを落とした通行人に情けをかけコンタクト探しを手伝ってやるのび太が、あろうことか踏んづけて割ってしまう場面は、ドジを踏むシチュエーションとしては鉄板だが、あまり笑える話ではない。特に、どちらかというとお金がない大学生にとっては。

 

 ドジで、マヌケで、ウスラバカで……とのび太を形容する言葉は、そっくりそのまま我が身にもふりかかる。

 眼鏡をかけた小学生の男の子というのは、往々にしてあだ名がのび太ハリー・ポッターの二択を迫られるわけだが、僕は前者であった。いや、話を盛るのはやめておこう。一度か二度、のび太みたいと言われたことがあるだけで、キャラを確立するほどではなかった。敏感な教師であればいじめと疑う可能性もあるだろうし。

 ちなみにハリーは、ちゃんといた。中島という奴だった。サザエさんから出てきたような純朴少年というより、目鼻立ちの整った外国風のイケメンだったから、まあ納得である。

 

 少なくとも漫画を読んでいるときの自分は、のび太に没入していた。ただテストで100点を取ることができるだけののび太。あやとりも射的も、ピーナッツの投げ食いも0.93秒で入眠することもできないのび太だった。

 それはもうのび太ではないのではないか、という声もあろうが、幼少期にドラえもんを読んで育った子は、必ず自らの中に「のび太性」を見出してしまう。怠惰で人を羨んでばかり、けれど心根は優しいというのは、実は誰だってそうなのだ。

 

 そして、程度の差こそあれ、人はみなマヌケだ、というよりマヌケであってほしい。一見ハイスペで完璧な人間の意外な側面を形容する「天然」なんてレベルでなく。努力で直せないのが厄介なのだから。

 マヌケなのは恥ずかしい。僕は人生の大事な局面であればあるほど、マヌケさを露呈してきた。母親からも散々指摘されてきた。もっとも、関西の人間にとってはバーモントカレーばりにマイルドな罵倒であるアホという二文字をもって。

 

 失敗を重ね、歳を重ね、自分との付き合い方がなんとなくわかっていくことを成長というけれど(冒頭の東大生は果たして)、「コンタクトレンズの交換日」を通知してもらうようになったのは、成長に含んでいいのだろうか。

 僕は二度、いや三度だったか、ハード・コンタクトを紛失したことがある。大学進学とともにソフトからハードに切り替えたのだが、一度目はあっという間になくした。コンタクトレンズというものは、左目と右目、二枚あってようやく成り立つ。まだ一機残ってるからセーフ、とはいかないのだ。

 二度目もすぐやってきた。ハードは外すのが難しい。目尻を横に引っ張って、上下の瞼に挟み込んで落ちてくるのを受け止めるのだが、まれにあらぬ方向へ飛んでいくことがある。

 一度目も二度目も、同じ失態を犯した。一般に人は物をなくしたとき、「その物がこの世界から消滅することはあり得ないわけで、絶対どこかにはあるはずだから見つかるまで探し続ける」という方針をとるのだが、どうしても見つからないことがなぜかある。

 世界どころか、目の前の洗面台周辺にあるはずなのに、見つからない。あらゆる平面を確認しつくしたはずなのに、見つからない。要は洗面台の穴からストンと落ちてしまったのだろうが、そんな単純明快な出来事にかき乱されるなんて、かえって腹立たしい。

 最終的に二度諦め、二度再購入し、俺はこのままだと永遠になくすということに気付いた。そこで、100均で小さな鏡を買い、洗面所でなくリビングにて、机に向かって外すことにしたのである。こうすれば、穴から落ちてしまうことはない。飛んでいっても必ず見つけられる。もうお前を離さない。はずだったのだが。

 

 あろうことか三度目もやってきた。未だに釈然としないのだが、起きてしまったことは取り消せない。

 拠点をリビングに移した後は、豪快にレンズを飛ばしてしまっても、取り乱さずに対処することができた。次第に余裕が生まれ、その距離を競うようにもなっていた。 ある時もレンズを落としてしまったが、カーペットを隅々まで探せば必ず見つかる確信があるため、落ち着き払って捜索を開始した。

 1分経っても2分経っても見つからない。人命救助でないから一刻を争う必要などないのだが、すぐにカーペット全体に目を通せるのであって、すぐに見つからないということはいつまで経っても見つからないということを意味する。

 またも、コンタクトレンズを紛失した。二度あることは三度ある。サンドバッグにされた気分だった。なんてマヌケなのだろう。

 

 その後、悩んだ末にソフト・コンタクトに戻した。妥協して2weeksにした。なくしてもダメージは少ないし、何より簡単に外せるためなくすことはなくなったが、新たな問題が浮上してきた。

 レンズの交換日問題である。いつ自分は新しいレンズを使い始め、今日が何日目であるのか。あと何日で今付けているものを捨て、新たなものに切り替えればよいのか。算数の問題にするには条件が足りない。

 それぐらい覚えていられると思っていたのだが、毎度毎度怪しくなった。注意書きには「絶対に二週間を超えて使用しないでください」と書かれている。そんなにまずいのか? 世の中に絶対なんてないだろう! と思うが、心配性なのでその文言を信じてしまう。

 それだけ心配ならば早めに使い捨てればいいのだが、コストパフォーマンスという面で勿体ない。チキンレースが始まるわけだが、少しオーバーしたかなと感じたときでも、自分のような人間のために二週間を数日超えても眼に害はないよう、元から2weeks+α用ぐらいに作られているんだろう、と思って気にしないことにした。車のメーターが事故防止のため実際より速く表示されるのと同じように。

 

 でも、時代はどんどん便利になっていくらしい。やはり世の中の人々は、みなマヌケであるようなのだ。

 アイシティの公式アプリに、レンズ交換日タイマーという機能が追加されていることに気付いてしまった。あまりにおせっかいが過ぎると思うのだが、便利なものは便利だ。こんなニッチに思われる需要が、まさか実を結ぶとは。恐ろしいぐらいだった。

 僕は僕との付き合い方を学んで、ハード・コンタクトを諦め、自分で交換日を管理することを諦めた。他者に頼ることを覚えた。

 

 

 今日はコンタクトレンズの交換日です

 

 空を見上げると、ついこないだ半分だった月は立派な満月になっていて、タンスには履くパンツがなくなっていた。そのうちエントリーシートの締め切りが来て、卒論の提出日が迫り、惜しむ間もなく卒業していくのだろう。それまでに何度かコンタクトレンズを追加購入し、幾度も失恋をするだろう。そしていつか、明日を思い描くこともなくなるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 明日はのび太さんとの結婚式です

 

 しずかちゃんはのび太との結婚前夜、お父さんに胸の内を打ち明ける。

 ──あたし、のび太さんと結婚するのやめる! だって、あたしがいなくなったら、パパさみしがるでしょ。

 ──とんでもない。君はたくさんの贈りものを残していってくれたんだよ。のび太くんを選んだ君の判断は、正しかったと思うよ。

 パパに諭されたしずかちゃんはのび太と結婚し、ノビスケという子どもを授かる。明日はのび太さんとの結婚式だったから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 今日、僕はコンタクトレンズを交換する。

 今日はコンタクトレンズの交換日なのだから。

 

 

P.S. 偶然にも今日10/25は、のび太としずかちゃんの結婚記念日でした。

 

 

 

 

 

 

人生ファイナルラップ -秋葉原通り魔・加藤智大に捧ぐ-

人生ファイナルラップ

a.k.a.ゆうひん

 

刑務所から書く 俺の計画

腐った性格 生殺与奪

沸きたつ界隈 しとけよ大概

人生最下位? いや俺は無敗

変わらん環境 慰める無聊

親の顔より見た鉄格子 心の内では抵抗し

溜めこんだ言葉 ほとばしるここは

人生ファイナルサーキット

 

残り人生あと何周?

呑みこんだ批判 見逃した欺瞞

無駄にした時間 このままじゃいかん

ひたすらスマホ お前はドアホ

消え失せぬ過去 失った故郷(さと)

発想が貧弱 それでももがく 

いいね数ゼロ お前は消えろ

持て余すポテンシャル 開花せず自殺

 

残り人生あと何周?

生きる甲斐なし ただ一つ世界

爆音 孤独 貧困 暴力

幻想 快楽 奔放 腹立つ

無知無知蒙昧 ムチモウマイ

ゼクシィ廃刊 やったぜ快感

アカチャン本舗もつぶれるよ?

バースデーケーキ なくても平気

沈黙の春 訪れるはず

サイレントスプリング ダンス・ダンス・ダンス

 

残り人類あと何周? 地球が何回まわったとき?

 

執行日まであと何日?

蒸発した意思 せいせいし

縄の感触 一人ゾクゾク

人間失格 太宰治 喝!

飾るは一面 際立つブサメン

お母さん 最後の晩餐 

この新聞に ぶちまけるように