信念や感受性のマイノリティ

 

新しい言葉、つまり新しい概念を知ったとき、人は自らの思考をより的確に言語化できるようになり、より深い思考が可能になる。その意味で新たな言葉との出会いは限りなく貴重であり、そのために見聞を広めたいと思うわけである。

前置きはどうでもよくて、小学生みたく知ったばかりの言葉を使いたいがためにこの記事を書く。読む人によっては不快に思われるかもしれない。しかし、そこで踏みとどまらないのが私が私たる所以である。この意味は後々わかる。

 

漠然とした「生きづらさ」を抱えて過ごして、何年になるだろうか。もっとも、程度の差こそあれ誰もが生きづらいと思うことはあるだろう。自分が被害者面しているだけだと思わないこともない。むしろ反省的に思うようにしている。それでも、"普通"の人々よりは自分が生きづらいと思い込みたいほどには、生きづらさを感じてきた。

その原因が長らくわからず、また不思議だった。自分はいわゆるマイノリティではない。日本人の両親のもとに日本で生まれ、日本で育った。比較的裕福な家庭であり、家族仲も良好。迫害という重めの言葉を使うまでもなく、いじめはおろか、いじられ、からかわれたという経験も特段ない。セクシュアリティに関して違和感をもったこともない。幸運に恵まれ東大に入ることもできた。

現に自分は圧倒的マジョリティであり、それによる特権については自覚せねばならないと思っている。

 

確かになかなかコミュニティに定着できないし、友達は多くないし、人から好かれることもほとんどない。なまじ頭がいい分、世間に対していら立つことは日常だし、しかし緻密に論駁できるほど頭がよいわけではない。といっても人から虐げられたり、裏切られたり、悲劇的、屈辱的な思いをしてきたことなど皆無なのだ。いや、あるにはあるのだが、根に持つようなものではさらさらない。不当な扱いでは決してなかった。

そんな自分が生きづらいなどと言ってもよいものか、については常に葛藤がある。客観的には駄々をこねているようにしか見えないのだから。

 

しかしこの度、暫定的な答えを得ることができた。哲学に関する一般書を数多く執筆し、「闘う哲学者」として知られる中島義道の『反<絆>論』という本が、自分にはとても好意的な内容であった。タイトルから主旨は想像してもらえると思う。感じるものがあった箇所を、いくつか引用したい。

感受性や信念の少数派であるマイノリティは社会的に迫害されているがゆえに、自分を反省的に捉える能力を自然に養う。(p56)

信念や感受性のマイノリティは、大変苦労する人生を歩まねばならないが、その代償として宝が与えられる。(中略)マイノリティは「普通の視点」と「特殊の視点」という二重の視点を獲得でき、二倍も人生が豊かになるのである。(p59) 

私を鍛えてくれたことは、マジョリティの信念や感受性は間違っていて自分こそが正しいのだ、あるいはみな平等に正しいのだ、と思わないようにする訓練である。(p60)  

三つの引用で登場した「信念や感受性のマイノリティ(マジョリティ)」という言葉が、革命的だった。いわゆるマイノリティでない私が、なぜ生きづらいのか。それは"信念"や"感受性"においてマイノリティであるからにほかならない。以前、躊躇いながらも自分をマイノリティと称して生きづらさを吐露するツイートをしたことがあったが、このように言えば誤解を生みづらいだろうと得心した。(人間誰もが何かしらのマイノリティである、という言説もある。私の場合は信念や感受性であったのだ。)

ここで、その信念や感受性のマイノリティとは具体的にどういうものなのか気になる方もおられようが、述べることはしない。マイノリティの自覚がある人は勝手に自分を重ねてくれればいいし、マジョリティの人々にわかってもらいたいわけでも毛頭ないのだ。ただ、自分のための言葉として出会えたことがよかった。

 

まだ疑問は残る。一体なぜ「信念や感受性のマイノリティ」になってしまったのか、ということだ。この点については分析がなされていない。いともシンプルに片付けられている。

社会が緊急事態に陥ると、共同体の防衛に何の疑問も抱かずに驀進する人、疑問を抱きながらも全体の風潮に従う人、疑問を抱きながら、それに(内的・外的に)抵抗する人という人間類型が浮き立ってくる。

こうした差異は、天性のものとしか思われない。

人類は、共同体の利害やその時代の風潮にほとんど疑問を抱かない人、あるいは抱いてもほとんど悩まずにそれに同調する人と、そうではない人、そこで「悩む」人とに二分される。(p84)

太字の前後はマイノリティ/マイノリティについて少し解説してくれている。私が感じるものについては、もっと卑近なレベルで考えてもらえるとありがたい。

肝心の太字だが、実に拍子抜けするものであり、それでいて核心であるように思った。そう、天性のものなのだ。私がマイノリティであるのも、大抵の人間がマジョリティでいられるのも。

天性のものと知って、自分は救われた気がした。自分にとっては切実に生きづらさを感じているのであっても、生い立ちや現状を客観的に分析するとそう感じることにどうしても負い目を感じてしまう苦しみを、味わう必要はないと思えるからだ。それは天性のものだから、じたばたしたってしかたないんですよ、と。

そしてこれを受け入れられるほどに、実は私は苦しんでいないのだ。マジョリティに生まれたかったとは思わない。ただ、あるがまま、受け入れた。それでいい。この感覚は、他のマイノリティ理解にも有効かもしれない。

 

もう少しちゃんとした言及がないか探してみた。以下の引用箇所ではキーワードが「孤独」に変わっているが、能動的であれ受動的であれ孤独を選び取った人々は、信念や感受性のマイノリティに属する人である。

こういう私の「システム」をある程度わかってくれる人、あるいは天性において繊細な人とのみ付き合うようにしたのである。(p151)

先ほど省略したのだが、中島は「いま・ここ」で生じている個々の物ないし個別の出来事を重要視する精神を、パスカルの使った意味に従って「繊細な精神」と呼んでいる。(私はそれを信念や感受性のマイノリティと重なるものと解釈した。)これを踏まえて繊細という言葉を解釈してほしい。

ここでもまた、天性によるものだと書かれている。圧倒的、天性という言葉の魔力。

 

最後に中島の言葉を借りて、私のような人に対する世間の誤解を解きたい。

私は一人でいることが好きである。(中略)基本的に孤独を好む人でも、時には他人と交わりたいと願うことはあるのに、それをどうしても許してくれないのである。(p140)

とくに「自発的孤独者」はきわめて繊細であり人間に興味を持っている人が多い。(中略)とても嬉しそうな愛嬌を見せたり、心のこもったもてなしをしたり、あけすけな、情愛の深い、物のわかった話をすることもある。(p149)

これが人付き合いに関する態度である。

そして、自分のマイノリティ性への認識について、改めてまとめておく。

世間が、自分を排斥することも「理に適っている」と思い、世間の価値観からすると、自分は「下」に位置することもわかっている。 

 

以上、私と似た境遇の人にとって、少しでもヒントになることが書けていたら嬉しい。わざわざ記事を書いたのも、私がマイノリティであることを裏付ける。この感情に蓋をし、ごまかすことで認識を歪められるならば、まさしくマジョリティなのだから。

 

 

反〈絆〉論 (ちくま新書)

反〈絆〉論 (ちくま新書)

 

 

To drink, or not to drink.

 

この10月から、NHK連続テレビ小説で『まんぷく』が放送されている。自分は連続テレビ小説、いわゆる朝ドラを通して見た記憶がなく、あれだけ流行った『あまちゃん』すらも『暦の上ではディセンバー』のイメージしかない。小学生では楽しみ方がイマイチわからないし、中高の頃は8時には家を出なければいけなかった。大学に入ってはもちろん、一定の規則で生活するということがどうあがいても不可能になったし、そもそもテレビは野球とスポーツニュース以外見ない。母親が再放送を熱心に見ていたことだけが思い出される。

 

それで、今やってる『まんぷく』の話だが、主人公のモデルは日清食品を創業し、インスタントラーメンの生みの親として知られる安藤百福である。とりわけ、チキンラーメンカップヌードルの開発が功績だろう。チキンラーメンに関しては賛否両論分かれるところもあるが、僕はわりかし好きな方だ。カップヌードルは、万国共通で人気だと思う。実は日本版のカップヌードルは日本でしか売られておらず、海外では現地の食文化にマッチした、独自のカップヌードルが誕生してきた。全部で10種類以上あるという。高校でイギリス研修に行ったとき、先輩からお土産にもっていくことをやたらと推奨され、皆が皆一様のそれを持参してきたのは、日本人の無個性を象徴しているようで滑稽だった。

 

カップヌードルが美味いことに異論はないと思う。時折無性に食べたくなる、マックのポテトと同じ中毒性。深夜に啜る味は格別で、テスト期間に無為に徹夜するのはこれとモンスターエナジーのためといっても過言ではない。

 

一つ苦言を呈すとすれば、「謎肉祭」と銘打ったキャンペーンである。あの見るからに身体に悪そうな、毒々しいドッグフード色の立方体の名称がネット上で「謎肉」として定着するまではよかった。しかし、日清側が「謎肉」というネーミングを押し出すようになってからはいけない。第一、謎肉の正体は「豚肉と大豆、野菜由来の成分を混ぜ合わせてフリーズドライした」ものと公表されているのであって、なんら謎ではない。日清側は製法を知っているという真っ当すぎる指摘を除いても、販売促進という明確な意図をもって謎という言葉を冠すのは、ちゃちな自作自演に過ぎない。

 

そんないちゃもんは馬の耳に念仏。特に一人暮らし民からの需要は絶大で、自分なんかはとうとう通販で箱買いしてしまった。20個入りだったのだが、ものの一カ月でなくなった。こうなってくると、心配なのは健康面だ。とりわけ深刻なのが、残り汁をどう処理するか、である。

 

生みの親の安藤百福自身は、当時あった健康面を不安視する声を払拭すべく、365日欠かさず昼食にチキンラーメンを摂っていたそうだが、汁まで飲み干していたのかはわからない。実際96歳まで生きたというのはすごいが、カップヌードルの方が塩分は明らかに濃さそうだ。知らぬが仏、数値を調べたことはない。

 

飲み干すか、飲み干さないか。それが問題に違いないが、答えは明快で、後者に決まっている。しかしあの香りの誘惑にはいかんとも抗いがたいものがある。ならば、物理的に飲めなくしてしまえばいい。麺をあらかた食べ終えたら、消しかすを放り込むのだ。これはtwitterで知ったライフハックで、なるほどこれでは飲もうにも飲めない。しかし、いつでも都合よく消しかすがあるわけではないし、放り込むのには強大な意思を要する。それは汁を前にして逡巡している最中、自身の将来を考えて飲むのを断念するのと同じ大きさの意思である。根本的な解決には全く至っていない。

 

かく言う僕はどうしているかというとこれも明快で、きっちり飲み干す。リスクは顧みない。人生はハイリスク・ハイリターンだ。でも、最近はちょっとだけ警戒している。ローリスク・ハイリターンなどというものは存在しない。選ぶのは、ローリスク・ローリターンとハイリスク・ハイリターンの中庸に決まっている。半分だけ飲んで半分残すのかと思われるだろうが、そんな中途半端なことはしたくないし、一度飲みだすともう止められないのが常である。僕は、自分でも賢いと思う。初めに注ぎ込むお湯の量を目印より少なくするのだ。こうすれば汁はほとんど残らず、一切の躊躇を挟まず飲み干すことができる。これぞ男子の本懐である。完飲。

 

カップヌードルの残り汁といえば、思い出したことがある。初めての面接試験のことだ。中学受験で無事志望校に合格した後、入学する可能性はもはやゼロに等しいが、出願していた義理で何校かを受験してまわった。そのうちの一つで、面接があった。京都の高校で、塾ぐるみで前泊して受験に臨んだため、異様にハイテンションだった。テンションのあまり、一時間目の試験前に自分の席の引き出しを壊してしまい、しまえなくなったため胸が圧迫され続ける羽目になりかけた。

 

そんな具合に緊張はしていなかったが、筆記試験が終わり、いざ面接という段になると体が硬直し始め、5人ぐらいのグループで入室した時には最高潮だったに違いない。面接官は3人で、そりゃ相手は小学生なので圧迫なんかとは程遠く、優しい質問と柔らかい応答で進んでいったから、安心した。最近読んだ本を聞かれてパラパラ捲っただけの本の名を挙げ、感想を求められると(小学生並みの感想)しかいうことができなかったが、小学生なのだからもっともである。

 

最後の質問が難関だった。「環境保全のために日頃からしていることは何ですか?」という問いだった。「ありますか?」ではなく「何ですか?」と、そういうことをしている前提で問われた以上、なんでもいいからでっちあげなければならなかった。他の受験生が何を答えたか記憶してないし、一律に同じ質問がされたかもわからないが、ほかならぬ僕がオリジナルな答えを発しなければならなかった。受験をしていて最大の窮地だったことは間違いない。

 

カップヌードルの残り汁を植物にあげています。」

こう答えた。敬語の訂正問題で散々やった「植物に水を×あげる〇やる」を思い出し死にそうになったが、どう考えても焦点はそこではない。なんらかの紙媒体から得た知識だったはずだが、実際にやったことなどありゃしないのはともかく、知識に対する疑念が半端ではなかった。カップヌードルの残り汁が、植物にとっての栄養になるだと? 化学のことなど何もわからなかったが、人間が飲まないからといって恩着せがましく押し付けるのは、違うと直感した。当時の僕はどうにも焦点がズレがちだったようだ。

 

知らぬが仏。ことの真相は未だ解明されていない。結果は受かっていた。端から面接の合否への影響はないのだろうが、妙な自信を得ることになった。

カップ麺の残り汁の処理に困っている人は、一度試して、植物の生育の経過を見守ってみるといいと思う。もっとも、一番いいのはカップ麺を食べないことなのだが。健康にとっても、環境にとっても。

完全なるひとりごと

「ふと思ったんやけど、書き言葉と話し言葉って、違うよね」

「書き言葉、まあ文章って基本的にかしこまってるやん、〜〜だ。とか普通言わんし、語彙レベルもある程度ちゃんとしてるしさ、その分書くのは頭使うし、時間もかかる」

「じゃあなんで書くときも話すときと同じぐらいのフランクさで書かへんのか?って思ったんで、話し言葉で書いてみてるわけ。仮説としては、話し言葉ぐらいの乱れた感じを文章に出されると、ウザい。話す速度で言われたらええけど、わざわざ読んでやってるのにスローで話し言葉再生されたら鬱陶しい、もっと整えてくれってなる。だからちゃんと書くんかな? いや別にそんなことないわ、乱れてたらその分早く読めるし、ツイートとかそうやろ、まあだから蔑ろにされるってのはあるかもしれん。てかそもそも根本的に話すとき、まあ会話を想定して言ってるけど、相手が口を挟む余地があるよな。余地ってか普通言葉のキャッチボールよな、やりとりが発生するよな。けど書いてある文章は読み手が一人で読むしかないから、書いた人と直接話されへんから、一発でちゃんとわかるように書かなあかんと。やからちゃんとした感じになるんちゃう。といっても、語彙レベルは別に高める必要ないと思うし、語尾も適当でよくない?」

「まあそんな感じで、これ書いてて思ったけど、話し言葉で文章書くのって意外とむずいな、ていうのも、話してる時って構成考える必要あんまりないやん、その場の会話の流れってのがあるからさ、もちろん言いたいことはあるけど、まあ相手の返しに合わせてってとこもあるし、やからきっちり順序立てて話す必要ないけど、書くとなるとそんなめちゃくちゃにするわけにいかないんで、やっぱある程度頭使ってしまうよね、やからテンポが悪くなる、いや別に今まったく構成とか考えてへんけど、意識下で、多分知らんけど。インタビュー記事とかもがっつり構成されてるし校正もされてるしな、てか今の話してたらは?てなるやつやろ。もっとシンプルに脳から音声、音声から文字化って二段階踏んでるからそれは怠いし時間かかるわって話。今思ったけど、音声入力すればええだけの話では?」

「てかこういうのはYouTuberやるべきや」

現代文:段落並び替え問題

戻ってきてしまった。

 

さっき、公園に行ってきた。公園でブランコを漕いだ。漕ぎながら、イヤホンから流れる曲を歌手に重ねて歌った。周りに人がいた。外国人カップルだった。日本語などわかるまい、と見くびって気にせず声を上げた。仮に日本語を理解できたのなら、恥という感情が掻き立てられただろうか。あるいは、日本人であったなら。感情とはどうでもいいわりに、すごく複雑なものだ。あるいは言語も、国籍も。歌に乗せちまえば全て忘れ去れるとでもいうつもりなのか。

 

先日、東京にも台風が襲来した。まさに台風と呼ぶにふさわしい、猛烈な雨風だった。街中の諸々が吹き飛ばされたりしていたそうだ。夜家にいて、一人で風を聞いていた。窓ガラスががたがたと揺れ、煩わしく眠れないという人もいるだろうが、自分には関係ない。平常から寝る時間ではないのだ。俺は部屋にいられることに感謝した。世界との隔たりを感じた。俺は守られている。この部屋だけは私空間だった。独立して宙に浮かんでいるような気になった。

 

恋の病に侵されている。四六時中とまでは言わないが、起きてる時間の半分は女の子のことを考えている。というか、それ以外に考えることがとるに足らな過ぎて。みんなは普段、何を考えて生きているんだろう? 人生はあまりにも退屈だから考えてしまうけど、まさに人生が退屈だから、考えに浮かぶようなこともおそろしく退屈。それを哲学などと称して崇め奉る。この世界の恐ろしいこと!

 

鏡をよく見る。家でも外でも自分の姿が写る媒体があれば、一瞥してしまう。鏡によって見え方は結構変わる。風呂場の鏡はいい具合に修正を施してくれるから、勘違いしそうになる。まだだ、まだ早い。焦るな。あの娘の気持ちを知りたい。アンニュイな表情を浮かべたって仕方ない。俺は微笑む。口角を上げるのが下手だ。ばかばかしくて大げさに笑う。とある会の面談で、しんどくなったら鏡の前で笑いなさい、とスピリチュアルな助言を賜った。あなたの笑顔は素敵だから。

 

季節の変化に感情が呼応する。感情なんて単純だ。目下、秋である。どこかから漂う金木犀の香り。そんなものは幻想だ。我が東京大学は銀杏に毒されている。公害と呼んでいいレベルに。秋風が立つという言葉があるように、秋という季節は山の装いの安らぎとうらはら、どことなく寂しい気持ちがするものである。ならば冬は? 寒気がする。心一面に障子を張りたい。台風はもう過ぎ去ったんだから。

 

巷では恋愛が持て囃されすぎているとずっと思ってきた。プライベートの質問になればすぐ彼女はいる?だの、なんら無意味。第一、これからの時代は彼"女"に限定しない方がいいんじゃない? うるさい人はいるわよ。恋愛しないなんてありえないと、大手を振って歩く人々。ヒットする世の楽曲の大半は恋愛を飾りにつけたもので、大体少女漫画って、あれはなんだ。とにかくどんなコンテンツも恋愛と絡めたがる。反吐がでる。なんていえば非難轟轟。

 

恋をしたのだ。そんなことは全くはじめてであった。いつも恋は塗り替えられていく。歴代記録を更新していくから、いつだって初めてかもしれないと思う。この太宰治の小説に登場するフレーズを想起したのは、二回目。ほら矛盾だ。でも今回は、今回ばかりは、まぎれもなくはじめてだと思いたい。恋愛感情の高まりはほんの一時のことだけど、一瞬の煌きが素敵すぎて、歌にしてしまうのだろう。自炊が推奨されるというのなら、歌だって自分のために作ってやればいい。

 

東大の英語の入試問題(1B)みたいに「段落を並び替えよ」と言われたら、解答が一意に定まらないようなパラグラフを気ままに配置してしまいました。ここで思う、文章に必然性は要らないと。今日は10月4日。このブログを始めたのが去年の10月3日らしく、戻ってきてしまった……と思わざるを得ない。とめどなく溢れる言葉を発散したくて始まったのがコレ。今日だってだ。恋の病で狂った頭と季節のせいにしようと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

Art You Money

誕生日はいかにさりげなくアピールできるかが肝心だと思う。

さりげなさに我慢できなくなって、「○歳になりました」と報告してしまっては終わりだ。それは去年の俺である。

いや、健全な諸君がしてくれる分には全然いいし、そうするべきだ。僕みたいな拗れた人間がしてしまうのが、痛々しいだけ。

そう、誕生日は祝われるべきものなのだ。そのためには誕生日を知らせる必要がある。そして誕生日は祝う、祝われるものという認識が皆にある以上、祝われないと無駄に落ち込む。そんな共通認識がなければ、自己肯定感が低まることもなかったのに。

そのかわり、一人におめでとうと言ってもらえるだけで、めちゃくちゃ嬉しいです。

 

今年はかなり計画的に、巧妙にアピールしようとした。

まず、誕生日の1週間ほど前に、LINEのひとことを「Art You Money」にした。なんのこっちゃ。密かに一人でカウントダウンをし、そして誕生日の昨日、22と付け足した。

今のLINEは友だちがプロフィールを更新すると表示されるようになっているから、気付く人には気付いてもらえるという期待を込めて、

 

Art You Money 22

 

あーっというまに22

(小沢健二『強い気持ち・強い愛』の「あーーーっというまの 夜明けだよね」が再生される)

 

「あっちゅうまに」とも読めるところがミソだったりする。

 

なんとしょうもないシャレ!と思うかもしれない。

それでも俺はこのフレーズに想いを込めた。

 

22歳で大切にしたいもの。

Art

そろそろ、さすがにいい加減人文系の勉強をしっかりやりたい。学科の勉強は当然のこと、広く読書を。最低限、http://www.mucoop.jp/suiryo/pdf/wisdom100.pdfに載っているものは在学中に読んでおきたい。

そして、芸術にもっと親しみたい。美術に限らず、小説や映画まで。歴史や理論を学ぶのもそうだが、主体的な鑑賞を心がけ、感想を発信していきたい。文芸といえるものを書けるように頑張ってみたいとも思う。

 

You

これはよくわからない。けど、皆さんのこと。周りの人を大切にしたいなどとくさいセリフを言ってみる。

人に依存せず一人で過ごせる自分は強いと思わなくもないが、Twitterに張り付いている時点で、直接的か間接的かの違いだけで人を必要としているには変わらないのだから、自ら殻に閉じ籠ろうとするのはやめにしたい。

主人公以外の登場人物がいない小説など無いように、自分しか出てこない人生は味気なくて生きた心地がしない、と思う。物語を面白くするには必ず魅力的な登場人物が必要なのである。そのために、あなた方を大切にしたい。複数形でなく、単数形の異性の存在が見つかれば、尚嬉しいに違いない。

 

Money

お金がないと生きていけない。だから人生には困難がつきまとう。資本主義に噛み付いても仕方ない。甘んじて受け入れるしかない。

順調にいけば一年半後には就職しているわけだが、そんな順調ならば果たしてほしいと思わない。しかし、お金がないと生きていけない。親の脛を齧るにも限度があろう。

ということで、院進するのであればマネタイズできるようになりたい。自分に人から必要とされる要素があるのかわからないけれど、見つけられたらいいと思う。それか身につけていくか。

 

ということで、しょうもない(自分では全然しょうもないと思っていないし、それゆえ多用する予感)シャレにもそれなりの意味は詰まっている、つもり。

 

あっという間にここまで来てしまったからこそ、この一年は無駄にできないという思い。

意外と前向きに生きてるでしょ。

 

今後ともよろしくお願いします。

 

東京都 ゆうひん(22)

 

アキレスと亀 

 

あなたはアキレスと亀を知っているか。

 

そう、かの有名なゼノンのパラドックスの一つ。

 

アキレスは永遠に亀に追いつけない。瞬足を履いてどれだけ早く走ろうと、ウサギのように怠けることなく走り続けようと。なぜなら、亀が元いた場所にアキレスが着いた時、亀もまた移動しているからだ。どれだけ繰り返しても、亀はいつもアキレスの先へ進んでいる。

 

数学を学んだ人ならおかしいことはすぐ指摘できるし、説得されそうになっても算数の計算をすれば絶対に追いつくことはわかる。

ていうか、スピードに差があって追いつけないわけないじゃない、と誰でも直感的に思うよね。あなたは『逃走中』に出て、ハンターから逃げきれると思うの?

 

いま僕がしたいのは数学や論理学の話じゃないので、これについては皆さんが納得するまで考えてくれればいい。

 

……

 

自己肯定感というものを考えていた時、アキレスと亀の話が浮かんできた。

最近の僕は自己肯定感が低い。著しく低い。ここ一年ぐらいかな。

別に自分に自信がないというのではない。現状はともかくとして、これからに関しては自信、少なくとも希望、野心を持っている。こうして生きてるわけだし。

 

問題は自己肯定感どうこうじゃないかもしれない。使い勝手がいいからそういったけど、もっと、生に関する根源的な、何か。

 

僕の理想(僕´)はいつも僕の前にいて、いずれそこへ辿り着けたとて、そのころには僕´もさらに先へ進んでいる。僕が努力を続けて着実に前へ前へと進んでも、僕´には追い付けない。理想はどんどん高くなって、いつまでも満たされることがない。

 

まさしくアキレスと亀だと思った。

 

これはパラドックスじゃない。誰もが抱えるアポリア

現実として、認識する限りそこにある。

いくら早く走ろうと追いつけないんだから、解決策はないに等しい。

精神が枯れ、歩みを止めた時までは。

 

価値というものには真正面から立ち向かいたく思っている僕でも、

どうしたって崇高な自分を求めてしまう。美には抗えない。

生きるための必要条件。生きているということは、それがあるということ。

仕方ないから、受け入れる。

 

受け入れるから、しんどい。

 

アキレスには、ほとほとあきれるよ。

 

 

 

 

 

 

 

もう世の中に対して言いたいことなんて何一つありません

なんらかの文章を読んでて、それに触発されてなんらかの文章を書きたいと思ってブログを書き始めるまではいけるけれども、書いてて途端にこれは書きたいだけで書いてるんであって言いたいことでもなんでもないんやと馬鹿らしくなり、全消去あるいはもう二度と見ないだろうにワンガリマータイよろしく律儀に下書きに残すかする。

 

で飽きた。

 

ところで言いたいことって何やねんと。言いたいことは必ずしも伝えたいことではなくて、絶妙に真意が伝わらんように我流の言葉遣いで言ったりしたいわけでさ。言いたいってのは自分の脳を書き起こしたいってわけで、なんせ忘れるからで、言いたいことと伝えたいことは別物。この前提を全人間と共有しておきたいということだけ伝えたいので伝えたつもり。

 

まだ話すけど、いつからか「もう世の中に対して言いたいことなんて何一つありません」ってセリフが不意にリフレインするようになってしまって、はてどこで聞いたセリフ、調べるとandymoriのクレイジークレーマーって曲の締めの言葉やった。

 

この、世の中に対して言いたいことってのが、自分の辞書的な意味での伝えたいことなんだね。世の中に対さずに言いたいことはたくさんあるってことよ。あるってわけよ。年がら年中頭ん中毒々しい言葉がしっちゃかめっちゃかしてたら、健康を害す。こう見えて健康には気を遣うタイプ。気だけ遣って金は費わないのでなんら無意味。けど気持ちが大事、気持ちや気持ち! 朝一眞。

 

で、そうするとまあ、世の中に対して言いたいことなんて何一つありません、と自分も思ってるってわけ。潜在的にも顕在的にも。で、こうなると、物申したい輩、とりわけいいねを蒐集したいがために物申す輩、これはもう断じて許せないつうか気に食わないのであって、なぜなら自分の裏側の立場であるわけで、自分に影を落としてくる。それがコレクター冥利ですかと。物申したくなるんだがこれは引っ掛け、大いなるトラップ、自家撞着。必死でそんな思いを抑えて自我を守るプライドの塊、大化の改新した生ゴミの塊も真っ青なほどの塊であって、そんな自分が生ゴミも真っ青なほど穢らわしいことを主張したくて、書いている、真っ黒な夜。