もう世の中に対して言いたいことなんて何一つありません

なんらかの文章を読んでて、それに触発されてなんらかの文章を書きたいと思ってブログを書き始めるまではいけるけれども、書いてて途端にこれは書きたいだけで書いてるんであって言いたいことでもなんでもないんやと馬鹿らしくなり、全消去あるいはもう二度と見ないだろうにワンガリマータイよろしく律儀に下書きに残すかする。

 

で飽きた。

 

ところで言いたいことって何やねんと。言いたいことは必ずしも伝えたいことではなくて、絶妙に真意が伝わらんように我流の言葉遣いで言ったりしたいわけでさ。言いたいってのは自分の脳を書き起こしたいってわけで、なんせ忘れるからで、言いたいことと伝えたいことは別物。この前提を全人間と共有しておきたいということだけ伝えたいので伝えたつもり。

 

まだ話すけど、いつからか「もう世の中に対して言いたいことなんて何一つありません」ってセリフが不意にリフレインするようになってしまって、はてどこで聞いたセリフ、調べるとandymoriのクレイジークレーマーって曲の締めの言葉やった。

 

この、世の中に対して言いたいことってのが、自分の辞書的な意味での伝えたいことなんだね。世の中に対さずに言いたいことはたくさんあるってことよ。あるってわけよ。年がら年中頭ん中毒々しい言葉がしっちゃかめっちゃかしてたら、健康を害す。こう見えて健康には気を遣うタイプ。気だけ遣って金は費わないのでなんら無意味。けど気持ちが大事、気持ちや気持ち! 朝一眞。

 

で、そうするとまあ、世の中に対して言いたいことなんて何一つありません、と自分も思ってるってわけ。潜在的にも顕在的にも。で、こうなると、物申したい輩、とりわけいいねを蒐集したいがために物申す輩、これはもう断じて許せないつうか気に食わないのであって、なぜなら自分の裏側の立場であるわけで、自分に影を落としてくる。それがコレクター冥利ですかと。物申したくなるんだがこれは引っ掛け、大いなるトラップ、自家撞着。必死でそんな思いを抑えて自我を守るプライドの塊、大化の改新した生ゴミの塊も真っ青なほどの塊であって、そんな自分が生ゴミも真っ青なほど穢らわしいことを主張したくて、書いている、真っ黒な夜。

 

 

 

 

歯並びいいね

 

 

歯並びがいいねと君が言ったから 

 

……

 

 

先日、歯並びがいいねと褒められた。

多分、人生通算2回目。山田哲人のトリプルスリー達成回数と同じ。栄えがある。

 

別に、歯並びなんて努力の結果でもなく、ただ生まれ持ったものに過ぎないし、生まれ持ったものの中でも社会的に認められる類のものではない。

 

けど、褒められて悪い気はしないから、せっかくなので破顔して、その褒められた歯並びを見せつけてみた。ニカッ

 

確かに鏡を見てみると、自分の歯並びは綺麗だ。相場はわからないが、美しいと感じた。

 

 

……

 

 

無論、そんな自慢がしたいわけではない。

 

ここで大事なのは、他人から褒められるまで、自分は歯並びがいいなどと思ったことは一度たりともなかったということよ。

 

初めて指摘されたのも今年で、その時初めて歯並びにいい/わるいという観点があることを知った。

 

爪の形とか、ヒゲの艶とか、こんなことを言い出すとキリがないと思うけども、今回再び褒められたことで確信したのさ。

 

歯並びにいい/わるいがあると認識している人が、一人ではないということを!

 

あれは偶然ではなかったんだ。

 

 

……

 

 

たったひとつ、ちっぽけなエピソードから壮大な話を導いてしまうのだけど

 

自分では気付かないけど、他人から見出されて、初めて気付けるいいところってのが、人にはあるんだろなぁということ。

 

逆に、自分が引け目を感じてることでも、他人はまったくもって、気にも留めたことがないということがあり得るということ。

 

 

改めて、気付きました。

 

そーうだったらいいのになー

そーうだったらいいのにな、ジャン

 

 

……

 

 

 

 

これ、絵本になりませんかね??

 

 

 

 

 

 

ひとりで

普段

一人で過ごすのを好む

僕が

生きているのは

専らインターネット

 

批判 自慢

批評 自嘲

 

自重しろよ

言いたくなる

 

家を出て

町に出て

町を出て

島に着き

 

自然 自然 自然

人 人 人

 

自然 人

自然 人

自然 人

 

しぜんじん

なんて読むと

教科書に逆戻り

だけど

 

しぜん&ひと

ラヴ&ピース

なんてもんじゃない

 

しぜん・ひと

あるがままのひと

 

壁を介して

見ている人が  

ひゅーっと

馬鹿らしくなる

 

君はひとで

俺も多分ひとだ

ひとりひとりひと

ひとひとりひと

ひとひとりでにひと

 

ひと

ひとひとりでにひとりひとりひと

 

 

ひとりではない

 

 

 

 

 

深夜徘徊

今夜も街を歩いている。

ここ最近、四日に一度ぐらいの頻度で深夜徘徊をしている。

今はどこかわからない公園のブランコに腰掛け、これを書いている。蝉の声が聞こえる。

深夜に出歩く背徳感というものも初めのうちはあっただろうが、今では純粋に夜の街を眺めることを楽しんでいるように思う。

 

衝動的に部屋を飛び出したくなる。

夏という季節がその最たる要因であることはわかる。日中出歩けない運動不足を解消したいと身体が主張するのが聞こえるし、何より夏の夜風は爽やかで、最高に心地いい。

昼間がいくら暑くなろうが、深夜はかろうじて裏切らないでくれている。

 

目に入るのは家、家、家。

しかし駅周辺に活動範囲が限定されている自分にとっては存外、退屈な風景でない。

家の近くを歩く機会は意外と少なく、全てが新鮮である。ホテル街があったり、線路沿いにはボロ屋が並んだり、政治色の濃いポスター、楽器教室の看板を掲げる民家、コインランドリー、新聞配達の留学生、介護施設などなど、人々の生活や社会問題の気配を感じさせる。

 

寂寥感という言葉がよく似合う。昼間歩けば何でもない一角だろうが、漆黒と心許ない街灯がそれを漂わせる。

途中、イヤホンが完全に断線した。ストックがあるので凹みはしなかったが、普段自分を包んでいる音楽が消えるとこれほど人は孤独かと強く実感した。

人通りがないのをいいことに、スマホのスピーカーから直に音楽を流す。(根がDQNなのが露見してしまった。)

結果、地方のシャッター街にかかる哀愁たっぷりの謎の音楽を思わせ、かえって寂しさは増した。

 

帰りに等距離を歩く手間など一顧だにせず、ただ気の向くままに歩く。

これの何に意味があるのかと思うが、半ば生の無意味さを肯定したいがためにそうするのだ。

 

いつか、どこかへ辿り着きたい。

そんな思いと裏腹、いやむしろこんな漠然とした気持ちにさせる、希望を思い描けない将来。

けど、辿り着けなくてもいい。

あてもないハイク。

逆説的に不安を払拭させたいがゆえ、解の無い歩みに魅了されるのかもしれない。

 

半ズボンから露出した足に群がってくる虫が鬱陶しい。ブランコの軋む音、時折響く車の通る音が不安を抱かせ、帰りを決意する。

長い時間が経っていた。

犬を引き連れ散歩する女性と、おはようございますと挨拶を交わした。どうやら世間では一日が始まるらしい。

数時間後には期末試験だ。

 

P.S. 僕はいつでも深夜徘徊メイツを募集しています。さよなら。

 

百一行書きたい

今すぐ眠りたい

朝早く起きたい

埴谷雄高の死霊読みたい

フェティシズムを告白したい

寝なくていい身体なら全然労働したい

ルオーでコーヒーを飲みたい

誰かのポスターを破りたい

後悔したい

ぶち破りたい

傷心旅行で出会いたい

昭和に戻りたい

霞より綿菓子が食べたい

ギターを上達したい

通りすがりの伊達眼鏡を叩き割りたい

連載もちたい

コンビニのレシートをもらってあげたい

絨毯を編みたい

福沢諭吉を破りたい

昆虫ゼリーを食べたい

3Pしたい

個人を脱したい

理解されたい

パパ活を詰りたい

オウムを激賞したい

"living for today"をスローガンにしたい

駅前で君が代を歌いたい

重力を感じたい

激しい相撲をとりたい

電球を取り替えたい

高校生の自分を抱きしめたい

やっぱり○○(あなたの想像する人)に抱きしめられたい

発想力を鍛えたい

地方に巡業したい

人間すごろくをしたい

走馬灯株式会社に迷い込みたい

公園で酒飲みたい

落ち込んでるふりをしたい

ココイチで好きなだけトッピングしたい

三日連続お風呂に入りたい

パリピになりたい

本をプレゼントされたい

オーケストラに行きたい

北欧行きたい

老いたくない

誰にも会いたくない

誰かに会いに来てほしい

癌になりたくない

2099年まで生きたい

2112年まで生きたい

スカしたい

あなたと破滅したい

飴とムチムチの教育されたい

自販機で当たり引きたい

自叙伝書きたい

埋もれたい

本質に先立ちたい

第三の性を肯定したい

半年だけ吉田寮に住みたい

はじけたい

取り柄ないのを取り柄にしたい

宇宙人と交信できたい

空からグミを降らせたい

君に俺をフラせたい

素直に他人を褒めたい

願い事は少なくしたい

家賃は滞納したい

"しがない"と形容されたい

あの頃に戻りたい

二段ベットの上で思いつめたい

スカウトされたい

哲学したい

甲子園の砂を持ち帰りたい

全人類の弱みを握りたい

卒業したくない

!を使いたい

告白されたい

不動の動者になりたい

今年の漢字を当てたい

精根尽き果てて死にたい

やっぱ気分良く終わりたい

かっぱらいたい

傾倒したい

呆れられたい

笑いたい

不条理を暴きたい

心の底から笑いたい

誰かと一緒に笑いたい

一生友人でいたい

豊かになりたい

日高屋オールしたい

君の横でブランコを漕ぎたい

界隈に加わりたい

とろけたい

勉強してから語りたい

革命したい

寵児と呼ばれたい

生まれ変わったら黒虎に入りたい

オシャレしたい

飲めない酒をあおりたい

欲望を欲望したい

"今日暇?"と聞かれたい

まだまだ続けたひ

嘔吐

 

昨日の夕方、大学で嘔吐した。

 

 

4限に出席し、食堂でつけ麺大盛りを食べ、書籍部で新書を漁っていた。

 

つけ麺はスパイシーフェアの限定商品で、つけ汁が辛口だった。同じくフェア商品のキーマカレーは私の舌を唸らせたのだが、こいつはダメだった。良いところがなかった。目指すところがわからなかった。

基本的に貧乏舌の私は、大半の人間が文句を言うような料理であっても、食材や味付けそのものが苦手という場合を除けば美味しくいただけるのだが、それをもってしても厳しい評価を下さざるを得なかった。もう二度と注文しないであろう。

 

チープな食レポもとい憤懣本舗はさておき、昨日あの時点で口にしていた物はこのつけ麺だけだった。

 

 

食事を済ませてバイトへ向かう途中、書籍部へ寄った。バイト先へは根津駅から電車に乗る。書籍部の方面と重なるため、都合がよいのだ。

一度も出席していない、試験一発勝負がゆえ履修しただけの授業の教科書を見ようと思っていた。

 

実は、本屋にはあまり行きたくない。

本を読むこと自体よりも、本屋という空間が好きだ。新刊や当店のベストセラーといったコーナーは、新しいや売れているというだけで気になってしまうし、平積みされた本たちはそれぞれに魅力を放っている。その時点で何冊かを手に取ってしまい、飽き足らず背表紙のタイトルを追っていくと、また数冊が自分のアンテナに引っかかる。

際限なく消費意欲をそそられてしまうから、本屋に行くときは気を張らなければならない。本屋に行きたくないとは、そういう意味だ。

 

なのでブックオフを除けば(ブックオフは中古で安いので気軽に入れる)、本屋を訪れるのは久方ぶりだった。

入ると大学生協ならではのコーナーがあり、早速夢中になっていった。ハードカバーは買わないが、文庫・新書3冊以上で15%オフというフェアをやっていたのもあり、気になる新書を片っ端から右手に携えていく。

 

昨日amazonの「欲しいものリスト」に追加したばかりの本がないかと探しているとき、異変が起きた。

頭がふらついたのである。突如として、目の前の光景が急速回転を始めた。気分が悪かった。天動説も地動説もなく、世界は自分中心で回っているのだと陳腐なことを思った。

抱えた本を平積みの隅に置いてトイレへ向かおうと思ったが、棚に戻されると面倒なのでサービスカウンターに預けた。こんな時でも些末なことに脳ははたらく。

 

多少の吐き気はあったが、今にも嘔吐しそうというより、とにかく横になって頭を休めたかった。しかし都合の良いベンチなどが見当たらず、仕方なくトイレに入ると更に気持ち悪くなった。

個室が二つとも埋まっていた。

さほどのサイズもないゴミ箱の上に顔を持っていき、全て吐き出せば溢れ出してしまうであろう麺が飛び出てくるのを今か今かと待った。

すると、オエーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッというえずき声だけが響き渡り、出てきたのはベビースターラーメンの小さいパックぐらいの量だった。

 

吐き出せなかった。

まるで普段の私じゃないか。言いたいことを何も言えない。溜め込んだ毒や闇は割れ物のように空虚な言葉で包んで包んで、最終的にも空虚だ。

 

正直に言おう。

この時、私は期待した。誰か構ってくれないかと。

本当はいつも、誰かが自分を救ってくれないかと期待している。だから広大なインターネットへ航海に出る。そして毎度後悔する。

 

結局、誰も助けてくれるはずがない。私を救済できるのは尊師か私ぐらいのもので、尊師亡き今、私ただ一人だ。

個室から出てきた若者は私に一瞥くれただけだった。

 

 

それからしばらく、個室で気を失っていたのかもしれない。

というのも、先ほどのベビースターラーメン以上のものを吐き出してようやく少し回復し、外へ出ると、もう薄暗くなっていた。時刻を確認すると午後7時20分。バイトには間に合わない時間だった。

記憶が正しければ、トイレへ入ってから一時間以上経過していた。けれど、あの密室でそんなに過ごした感覚はなかった。だからさっき言った判断を下したわけだ。

 

アクエリアスは美味しかった。

学内のローソンで買って一気に飲んだ。気分が悪い時はポカリスエット、というマイルールがあって、昨日もポカリスエットを買おうとしたが、隣のアクエリアスが割引されていたのでそっちを選んだ。なんて金の亡者なのだろう。否、生活がかかっている。

 

安田講堂前のベンチに座った。左隣の外国人カップルの会話が煩わしく(大体私は外国語が聞こえると無性にムシャクシャする)、右隣ではオンラインで会話する東大生の口調がこの世の終わりで、おとなしく帰ることにした。

 

 

丸の内線に乗りながら、なぜ嘔吐したのかを考えた。

やはりつけ麺が粗悪品だったのだろうか。でも、さすがに大学生協がそんなものを提供するとは思いづらい。

そういえば4限の途中、友達が手で口を押えて出ていくのを見た。何らかの病気が流行っているのかもしれない。

 

正しい理由などどうでもよかった。私は「情報」に酔ったのだと思うことにした。

 

膨大な本が並ぶ本棚が直接の原因ではない。

インターネットの海を毎日航海していれば、いつかは船酔いする。私の精神は繊細で、ちょっとした波にもやられてしまう。

砂漠と海を往ったり来たりで混乱するが、頭の中を高橋優の『駱駝』という曲が流れた。

 

「砂漠の中を行く 駱駝にまたがれず

靴の中を汚す 情報(インフォメーション)の砂 重たいな」

 

全てに嫌気がさしていた。あらゆる情報に、事物に、存在に。

しばらく海に出るのは控えようと思った。

 

 

 

家に着いてまだしんどさが残っていたので、すぐに寝た。寝たら快復するだろと楽観的だった。

3時間ほどで目が覚め、まだ頭が痛かった。

スマホもいじれない(いじらないと決めた)ので久々にテレビを見た。ワールドスポーツMLBアメトーーク、その後のよくわからん番組。

 

面白い情報を得た。メモしようと、結局iPhoneの電源を入れてしまった。evernoteだけでなく、twitterを開いた。三日坊主も驚く早さ。

 

 

 

再び吐き気を催した。

今度は自分の存在に、である。

 

 

 

 

眼鏡をかけて生じた、特別意識

「自分の顔を中の上ぐらいだと思っている奴にろくな奴はいない」

と思う今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

 

前回の予告とは異なるが、自分が「東大入っても品性は養われなかったイキリオタク」になってしまったきっかけかもしれない出来事について、書こうと思う。

 

記憶は小学一年生の頃に遡る。

僕は昔から目が悪かった。どのくらい昔かと確定するのは難しいが、少なくとも物心ついた時期には、既に目が悪かった。

幼少期に関し、エピソードとしての記憶が少なからずある一方で、鮮明なビジュアルとしての記憶が存在しない。ぼんやりとした光景は思い出せるのだが、どうしてもクリアに見えていたという感覚、記憶がない。もちろん過去の一時点で見えていたものは、段々と色あせてしまうものであり、まして幼少期のことである。

自分が外界を視覚ではっきり捉えられていたかなど今振り返ってわかるものでは到底ないが、徐々に周りが見えなくなってきたという覚えもないので、生まれつきわりかし視力が低かったのではないかと邪推する。両親ともに恐ろしく目が悪いのも関係しているはずだ。

 

とうとう自分から白状したのか、さすがに両親が諦めて認めたのか、小1の秋口、新学期が始まるタイミングで僕は眼鏡をかけ始めた。

当然だが、眼鏡をかけるということは見た目が変わるということだ。顔にものが引っかかる違和感もあるが、それは自分の身体感覚だけの問題で、見た目が変わるということは他者が自分に注ぐまなざしも変わることを意味する。

だからだろう。とにかく恥ずかしかった。初めて眼鏡姿をお披露目する日、緊張に耐えられずおもらし、はしなかったが、不安で仕方なかった。同じマンションの友達数人と集団登校していたが、学校に着くまで、教室に入るまで、そして先生から皆へのアナウンスがあるまで、僕は眼鏡をかけられなかった。

(そういえば、初めてコンタクトで登校した日も緊張したな。お前ごときが見た目気にしてどうする、みたいに思われるのがたまらなく恥ずかしく、眼鏡が壊れてしゃあなし裸眼という設定にしたぐらい。)

 

「ゆうひん君は今日から、眼鏡をかけることになりました」

こんなセリフだったろうか。なに「私たち今日から付き合うことになりました」的なテンションで言うとんねんとツッコむ余裕もなく、こんなことを皆の前で物々しく発表するんだ……と動揺した、気がする。

そして僕は眼鏡への一生愛を誓う、ということはなかったが、机の上に置いていた眼鏡ケースから本体を取り出し、装着した。

「お似合いじゃん」

という声があちらこちらから飛んでくる、ということもなかったが、何の意味も目的もわからないパチパチという拍手の音が聞こえた。僕は終始動揺していた。

 

もちろん母親や先生が配慮して、小学一年生に物事を理解させるためにこういう手順を踏んだことはわかる。急にクラスメイトが眼鏡をかければ、一斉に好奇の目を向けてしまうことは避けられないと思うからだ。しかし、この出来事が強く脳裏に刻まれているように、ただならぬ感じが、違和感というものがあった。

 

自分への特別意識に結び付けるのは安直だが、妙な意識が芽生えるきっかけだったと思おうと思えば、思える。

単純な話、クラスで自分だけが眼鏡をかけていれば、自分は他の人とは違うんだと思ってしまうのは自然なことだ。得てして子どもの方が「違い」というものに敏感である。

それも優越感のような心地いい特別ではなく、目が悪いすなわち欠陥という否定的な感情と結びつくものだった。

幼稚園の頃、赤い眼鏡をかけた女の子がいた。その子は少し周りの子らと違って、しんどい部分があった。配慮が必要な部分があった。

(ちなみに、今なおその子の名前を思い出すことができた。それだけ目立った存在だった。)

その子のイメージもあって、僕は自分が眼鏡であることが好ましくなかった。

 

 

学年が上がるごとに眼鏡人口は増えていき、自分が特別ということはなくなった。それでも、あの、初めて教室で眼鏡をかけた日に芽生えた特別な意識は、じっとりと残り続けてきたのだろう……。