東大入っても品性は養われなかったイキリオタクの懺悔

日々のツイートの希釈 頑張って生きまっしょい

深夜徘徊

今夜も街を歩いている。

ここ最近、四日に一度ぐらいの頻度で深夜徘徊をしている。

今はどこかわからない公園のブランコに腰掛け、これを書いている。蝉の声が聞こえる。

深夜に出歩く背徳感というものも初めのうちはあっただろうが、今では純粋に夜の街を眺めることを楽しんでいるように思う。

 

衝動的に部屋を飛び出したくなる。

夏という季節がその最たる要因であることはわかる。日中出歩けない運動不足を解消したいと身体が主張するのが聞こえるし、何より夏の夜風は爽やかで、最高に心地いい。

昼間がいくら暑くなろうが、深夜はかろうじて裏切らないでくれている。

 

目に入るのは家、家、家。

しかし駅周辺に活動範囲が限定されている自分にとっては存外、退屈な風景でない。

家の近くを歩く機会は意外と少なく、全てが新鮮である。ホテル街があったり、線路沿いにはボロ屋が並んだり、政治色の濃いポスター、楽器教室の看板を掲げる民家、コインランドリー、新聞配達の留学生、介護施設などなど、人々の生活や社会問題の気配を感じさせる。

 

寂寥感という言葉がよく似合う。昼間歩けば何でもない一角だろうが、漆黒と心許ない街灯がそれを漂わせる。

途中、イヤホンが完全に断線した。ストックがあるので凹みはしなかったが、普段自分を包んでいる音楽が消えるとこれほど人は孤独かと強く実感した。

人通りがないのをいいことに、スマホのスピーカーから直に音楽を流す。(根がDQNなのが露見してしまった。)

結果、地方のシャッター街にかかる哀愁たっぷりの謎の音楽を思わせ、かえって寂しさは増した。

 

帰りに等距離を歩く手間など一顧だにせず、ただ気の向くままに歩く。

これの何に意味があるのかと思うが、半ば生の無意味さを肯定したいがためにそうするのだ。

 

いつか、どこかへ辿り着きたい。

そんな思いと裏腹、いやむしろこんな漠然とした気持ちにさせる、希望を思い描けない将来。

けど、辿り着けなくてもいい。

あてもないハイク。

逆説的に不安を払拭させたいがゆえ、解の無い歩みに魅了されるのかもしれない。

 

半ズボンから露出した足に群がってくる虫が鬱陶しい。ブランコの軋む音、時折響く車の通る音が不安を抱かせ、帰りを決意する。

長い時間が経っていた。

犬と散歩する女性と、おはようございますと挨拶を交わした。どうやら世間では一日が始まるらしい。

数時間後には期末試験だ。

 

P.S. 僕はいつでも深夜徘徊メイツを募集しています。さよなら。

 

百一行書きたい

今すぐ眠りたい

朝早く起きたい

埴谷雄高の死霊読みたい

フェティシズムを告白したい

寝なくていい身体なら全然労働したい

ルオーでコーヒーを飲みたい

誰かのポスターを破りたい

後悔したい

ぶち破りたい

傷心旅行で出会いたい

昭和に戻りたい

霞より綿菓子が食べたい

ギターを上達したい

通りすがりの伊達眼鏡を叩き割りたい

連載もちたい

コンビニのレシートをもらってあげたい

絨毯を編みたい

福沢諭吉を破りたい

昆虫ゼリーを食べたい

3Pしたい

個人を脱したい

理解されたい

パパ活を詰りたい

オウムを激賞したい

"living for today"をスローガンにしたい

駅前で君が代を歌いたい

重力を感じたい

激しい相撲をとりたい

電球を取り替えたい

高校生の自分を抱きしめたい

やっぱりゆかにゃに抱きしめられたい

発想力を鍛えたい

地方に巡業したい

人間すごろくをしたい

走馬灯株式会社に迷い込みたい

公園で酒飲みたい

落ち込んでるふりをしたい

ココイチで好きなだけトッピングしたい

三日連続お風呂に入りたい

パリピになりたい

本をプレゼントされたい

オーケストラに行きたい

北欧行きたい

老いたくない

誰にも会いたくない

誰かに会いに来てほしい

癌になりたくない

2099年まで生きたい

2112年まで生きたい

スカしたい

あなたと破滅したい

飴とムチムチの教育されたい

自販機で当たり引きたい

自叙伝書きたい

埋もれたい

本質に先立ちたい

第三の性を肯定したい

半年だけ吉田寮に住みたい

はじけたい

取り柄ないのを取り柄にしたい

宇宙人と交信できたい

空からグミを降らせたい

君に俺をフラせたい

素直に他人を褒めたい

願い事は少なくしたい

家賃は滞納したい

"しがない"と形容されたい

あの頃に戻りたい

二段ベットの上で思いつめたい

スカウトされたい

哲学したい

甲子園の砂を持ち帰りたい

全人類の弱みを握りたい

卒業したくない

!を使いたい

告白されたい

不動の動者になりたい

今年の漢字を当てたい

精根尽き果てて死にたい

やっぱ気分良く終わりたい

かっぱらいたい

傾倒したい

呆れられたい

笑いたい

不条理を暴きたい

心の底から笑いたい

誰かと一緒に笑いたい

一生友人でいたい

豊かになりたい

日高屋オールしたい

君の横でブランコを漕ぎたい

界隈に加わりたい

とろけたい

勉強してから語りたい

革命したい

寵児と呼ばれたい

生まれ変わったら黒虎に入りたい

オシャレしたい

飲めない酒をあおりたい

欲望を欲望したい

"今日暇?"と聞かれたい

まだまだ続けたひ

嘔吐

 

昨日の夕方、大学で嘔吐した。

 

 

4限に出席し、食堂でつけ麺大盛りを食べ、書籍部で新書を漁っていた。

 

つけ麺はスパイシーフェアの限定商品で、つけ汁が辛口だった。同じくフェア商品のキーマカレーは私の舌を唸らせたのだが、こいつはダメだった。良いところがなかった。目指すところがわからなかった。

基本的に貧乏舌の私は、大半の人間が文句を言うような料理であっても、食材や味付けそのものが苦手という場合を除けば美味しくいただけるのだが、それをもってしても厳しい評価を下さざるを得なかった。もう二度と注文しないであろう。

 

チープな食レポもとい憤懣本舗はさておき、昨日あの時点で口にしていた物はこのつけ麺だけだった。

 

 

食事を済ませてバイトへ向かう途中、書籍部へ寄った。バイト先へは根津駅から電車に乗る。書籍部の方面と重なるため、都合がよいのだ。

一度も出席していない、試験一発勝負がゆえ履修しただけの授業の教科書を見ようと思っていた。

 

実は、本屋にはあまり行きたくない。

本を読むこと自体よりも、本屋という空間が好きだ。新刊や当店のベストセラーといったコーナーは、新しいや売れているというだけで気になってしまうし、平積みされた本たちはそれぞれに魅力を放っている。その時点で何冊かを手に取ってしまい、飽き足らず背表紙のタイトルを追っていくと、また数冊が自分のアンテナに引っかかる。

際限なく消費意欲をそそられてしまうから、本屋に行くときは気を張らなければならない。本屋に行きたくないとは、そういう意味だ。

 

なのでブックオフを除けば(ブックオフは中古で安いので気軽に入れる)、本屋を訪れるのは久方ぶりだった。

入ると大学生協ならではのコーナーがあり、早速夢中になっていった。ハードカバーは買わないが、文庫・新書3冊以上で15%オフというフェアをやっていたのもあり、気になる新書を片っ端から右手に携えていく。

 

昨日amazonの「欲しいものリスト」に追加したばかりの本がないかと探しているとき、異変が起きた。

頭がふらついた。突如として目の前の光景が急速回転を始めた。気分が悪かった。天動説も地動説もなく、自分中心で世界が回っているのだと陳腐なことを思った。

抱えた本を平積みの隅に置いてトイレへ向かおうと思ったが、棚に戻されると面倒なのでサービスカウンターに預けた。こんな時でも些末なことに脳ははたらく。

 

多少の吐き気はあったが、今にも嘔吐しそうというより、とにかく横になって頭を休めたかった。しかし都合の良いベンチなどが見当たらず、仕方なくトイレに入ると更に気持ち悪くなった。

個室が二つとも埋まっていた。

さほどのサイズもないゴミ箱の上に顔を持っていき、全て吐き出せば溢れ出してしまうであろう麺が飛び出てくるのを今か今かと待った。

すると、オエーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッというえずき声だけが響き渡り、出てきたのはベビースターラーメンの小さいパックぐらいの量だった。

 

吐き出せなかった。まるで普段の私じゃないか。言いたいことを何も言えない。溜め込んだ毒や闇は割れ物のように空虚な言葉で包んで包んで、最終的にも空虚だ。

 

この時、私は期待した。誰か構ってくれないかと。

本当はいつも、誰かが自分を救ってくれないかと期待している。だから広大なインターネットへ航海に出る。そして毎度後悔する。

 

結局、誰も助けてくれるはずがない。私を救済できるのは尊師か私ぐらいのもので、尊師亡き今、私ただ一人だ。

個室から出てきた若者は私に一瞥くれただけだった。

 

 

それからしばらく、個室で気を失っていたのかもしれない。

というのも、先ほどのベビースターラーメン以上のものを吐き出してようやく少し回復し、外へ出ると、もう薄暗くなっていた。時刻を確認すると午後7時20分。バイトには間に合わない時間だった。

記憶が正しければ、トイレへ入ってから一時間以上経過していた。けれど、あの密室でそんなに過ごした感覚はなかった。だからさっき言った判断を下したわけだ。

 

アクエリアスは美味しかった。

学内のローソンで買って一気に飲んだ。気分が悪い時はポカリスエット、というマイルールがあって、昨日もポカリスエットを買おうとしたが、隣のアクエリアスが割引されていたのでそっちを選んだ。なんて金の亡者なのだろう。否、生活がかかっている。

 

安田講堂前のベンチに座った。左隣の外国人カップルの会話が煩わしく(大体私は外国語が聞こえると無性にムシャクシャする)、右隣ではオンラインで会話する東大生の口調がこの世の終わりで、おとなしく帰ることにした。

 

 

丸の内線に乗りながら、なぜ嘔吐したのかを考えた。

やはりつけ麺が粗悪品だったのだろうか。でも、さすがに大学生協がそんなものを提供するとは思いづらい。

そういえば4限の途中、友達が手で口を押えて出ていくのを見た。何らかの病気が流行っているのかもしれない。

 

正しい理由などどうでもよかった。私は「情報」に酔ったのだと思うことにした。

 

膨大な本が並ぶ本棚が直接の原因ではない。

インターネットの海を毎日航海していれば、いつかは船酔いする。私の精神は繊細で、ちょっとした波にもやられてしまう。

砂漠と海を往ったり来たりで混乱するが、頭の中を高橋優の『駱駝』という曲が流れた。

 

「砂漠の中を行く 駱駝にまたがれず

靴の中を汚す 情報(インフォメーション)の砂 重たいな」

 

全てに嫌気がさしていた。あらゆる情報に、事物に、存在に。

しばらく海に出るのは控えようと思った。

 

 

 

家に着いてまだしんどさが残っていたので、すぐに寝た。寝たら快復するだろと楽観的だった。

3時間ほどで目が覚め、まだ頭が痛かった。

スマホもいじれない(いじらないと決めた)ので久々にテレビを見た。ワールドスポーツMLBアメトーーク、その後のよくわからん番組。

 

面白い情報を得た。メモしようと、結局iPhoneの電源を入れてしまった。evernoteだけでなく、twitterを開いた。三日坊主も驚く早さ。

 

 

 

再び吐き気を催した。

今度は自分の存在に、である。

 

 

 

 

眼鏡をかけて生じた、特別意識

「自分の顔を中の上ぐらいだと思っている奴にろくな奴はいない」

と思う今日この頃ですが、皆さんいかがお過ごしでしょうか?

 

前回の予告とは異なるが、自分が「東大入っても品性は養われなかったイキリオタク」になってしまったきっかけかもしれない出来事について、書こうと思う。

 

記憶は小学一年生の頃に遡る。

僕は昔から目が悪かった。どのくらい昔かと確定するのは難しいが、少なくとも物心ついた時期には、既に目が悪かった。

幼少期に関し、エピソードとしての記憶が少なからずある一方で、鮮明なビジュアルとしての記憶が存在しない。ぼんやりとした光景は思い出せるのだが、どうしてもクリアに見えていたという感覚、記憶がない。もちろん過去の一時点で見えていたものは、段々と色あせてしまうものであり、まして幼少期のことである。

自分が外界を視覚ではっきり捉えられていたかなど今振り返ってわかるものでは到底ないが、徐々に周りが見えなくなってきたという覚えもないので、生まれつきわりかし視力が低かったのではないかと邪推する。両親ともに恐ろしく目が悪いのも関係しているはずだ。

 

とうとう自分から白状したのか、さすがに両親が諦めて認めたのか、小1の秋口、新学期が始まるタイミングで僕は眼鏡をかけ始めた。

当然だが、眼鏡をかけるということは見た目が変わるということだ。顔にものが引っかかる違和感もあるが、それは自分の身体感覚だけの問題で、見た目が変わるということは他者が自分に注ぐまなざしも変わることを意味する。

だからだろう。とにかく恥ずかしかった。初めて眼鏡姿をお披露目する日、緊張に耐えられずおもらし、はしなかったが、不安で仕方なかった。同じマンションの友達数人と集団登校していたが、学校に着くまで、教室に入るまで、そして先生から皆へのアナウンスがあるまで、僕は眼鏡をかけられなかった。

(そういえば、初めてコンタクトで登校した日も緊張したな。お前ごときが見た目気にしてどうする、みたいに思われるのがたまらなく恥ずかしく、眼鏡が壊れてしゃあなし裸眼という設定にしたぐらい。)

 

「ゆうひん君は今日から、眼鏡をかけることになりました」

こんなセリフだったろうか。なに「私たち今日から付き合うことになりました」的なテンションで言うとんねんとツッコむ余裕もなく、こんなことを皆の前で物々しく発表するんだ……と動揺した、気がする。

そして僕は眼鏡への一生愛を誓う、ということはなかったが、机の上に置いていた眼鏡ケースから本体を取り出し、装着した。

「お似合いじゃん」

という声があちらこちらから飛んでくる、ということもなかったが、何の意味も目的もわからないパチパチという拍手の音が聞こえた。僕は終始動揺していた。

 

もちろん母親や先生が配慮して、小学一年生に物事を理解させるためにこういう手順を踏んだことはわかる。急にクラスメイトが眼鏡をかければ、一斉に好奇の目を向けてしまうことは避けられないと思うからだ。しかし、この出来事が強く脳裏に刻まれているように、ただならぬ感じが、違和感というものがあった。

 

自分への特別意識に結び付けるのは安直だが、妙な意識が芽生えるきっかけだったと思おうと思えば、思える。

単純な話、クラスで自分だけが眼鏡をかけていれば、自分は他の人とは違うんだと思ってしまうのは自然なことだ。得てして子どもの方が「違い」というものに敏感である。

それも優越感のような心地いい特別ではなく、目が悪いすなわち欠陥という否定的な感情と結びつくものだった。

幼稚園の頃、赤い眼鏡をかけた女の子がいた。その子は少し周りの子らと違って、しんどい部分があった。配慮が必要な部分があった。

(ちなみに、今なおその子の名前を思い出すことができた。それだけ目立った存在だった。)

その子のイメージもあって、僕は自分が眼鏡であることが好ましくなかった。

 

 

学年が上がるごとに眼鏡人口は増えていき、自分が特別ということはなくなった。それでも、あの、初めて教室で眼鏡をかけた日に芽生えた特別な意識は、じっとりと残り続けてきたのだろう……。

 

【問題提起】なぜ勉強するのか?

久しぶりにブログを書こう。

 

これまでなんとなく解答を曖昧にしていた、

「なぜ勉強するのか?」

といういつの日も大人たちの頭を悩ませてきた問いに対する、個人的な見解を示したい

 

この問いに自信をもって答えられる人は少ないのではないか。

 

勉強の定義は何でもよいと思ったが、広すぎると雑駁としてしまうので、教育機関における学びということにしたい。特に学問というものを念頭に置いて話す。

 

目的がはっきりしている場合、例えば国家資格や受験勉強であれば、それに受かるため。将来の仕事や実生活で必要な知識やスキルを身に付けるのも、生活のため。つまり、(主に金銭面で)より充実した生を送るためである。

目的がはっきりしていない場合は、「教養のため」とか「知的好奇心を満たすため」とかいう内容のない解答になるだろう。これも結局は、(主に精神面で)より充実した生を送るためということに他ならない。

そして、この2つは相互に行き来するということはいうまでもない。

 

とても乱暴な議論だが、勉強するのは「より充実した生を送るため」とまとめてしまって差し支えないように思う。

 

うーん、なんか釈然としないではありませんか?

僕もこのように抽象的な答えをとりあえずの精神的支柱にして、これまで生きてきたんですけども、それだと

なぜ生きる?→色んなこと(世界)を知るため、知的好奇心を満たすため(そのために勉強する)→(上記の議論から)より充実した生を送るため→なぜ充実した生を送りたい?→生きているから→なぜ生きる?

という風に、生きることそれ自体が目的となり、循環論法に陥ってしまう

(もちろん、生きる上での欲求を何にしたところで、こうなってしまうことには皆気付いていると思います。それを承知の上で、よりよい生を追求しているのだと思います。簡単に言えば「生まれてきたからには」ってことですね。僕が後述する理由も突き詰めれば袋小路に行き当たる困難さを排除できていません、ということを予め断っておきます。)

 

しかし最近、勉強する(正確には「したい」という段階で留まっている)理由が2つほど浮かんできた。

全く斬新ではなく、それぞれ「教養のため」「知的好奇心を満たすため」を具体化しただけなのだが、

底の浅い人間になりたくない」と「なぜかくも世界は不条理なのかを暴きたい」ということである。

 

「あさましい理由やな~~~」

って自分でも全力で思う。

けど仕方ない。自分が、いや人間という存在が、そもそもあさましいのだから。

 

今回はここまでにして、次回からこう思うに至った背景を説明したい。

 

 

GO!GO!7188

うずうずしている 

何かやりたい

でもやりたいことがない

ロック / GO!GO!7188

 


GO!GO!7188- 『ロック』

 

GO!GO!7188は、2000年にデビューしたスリーピースバンド。2012年解散。

代表曲は『こいのうた』でしょうか。00年代前半に特に人気を集めたそうです。チャットモンチーが出てくる前ぐらいですかね。なので僕はリアルタイムで知りません。

中学生のころ、ベストアルバムを聴いていました。そして大学生になって、ふと思い出して聴くことがあります。相変わらずベストしか聴いてないけど。

『文具』『浮舟』『おとなのひみつ』『おとなのくすり』『C7』『ジェットにんじん』などなど、独創的なタイトルに面食らいます。好きな曲を並べただけなんですけどね、文具ってマジでなんやねん!

どんな過激な曲なんだろうと思って聴くと、意外やキャッチーなメロディー。どこか懐かしい感じと確かなロック感、女性ボーカルの力強い声。確かに、当時GReeeeNやファンモンを熱心に聴いてた僕は、なんやこれって思いましたけど、聴いてるうちにハマりました。大学に入ってからは、もっともっと良さがわかるようになりました。そして、現在進行形でベスト以外の曲も聴いていますがいいね!

 

話を戻そう、てかちゃんと始めよう。

別に音楽の話をするために冒頭の引用があったわけではないです。今の気分を率直に表してくれる詞が浮かんできたからです。

こんな気持ちになったこと、皆さんもあるのではないでしょうか。なんかやりたいけど別にやりたいこともないし、あるいは、やりたいことは沢山あるけどどうしてもやりたいってほどのことはないとか……。僕は人生のどの時点でも、こういった悩みに取り憑かれている気がします。

何かに没頭するということがない。何かに傾倒してみたい。アーティストや作家のwikiを見てると、必ず出てくる傾倒というワード。頽廃の中にある傾倒。うん。めちゃくちゃカッコいい。大学生の今がラストチャンス的な感じもあるし、傾倒してえなぁ(こういう発想はめちゃくちゃダサい) 。けど「傾倒」って言葉の字面もニュアンスも登場シーンも何もかもカッコよく思える。一方で依存する人のことは基本的に小馬鹿にしてます。自分の存在証明に他人を使ってんじゃねーよって。無茶苦茶言ってます。許して。

 

けど最近は、とにかく勉強欲だけが強い。勉強したいし、しなきゃならないと思う。せっかく学びたい学科に入れたのに、消化不良じゃもったいないから。授業に出ているだけじゃ何も身に付かないなと、本当の意味で気付いて、それは授業の意味がないというのではなく、自学自習も欠かせないということ。

教育学部の教育学という学問をやる学科なのですが、この教育学が難しい。まず教育学とはなんたるかがわからない。ざっくり言うと教育って生きることと密接に関わってるから、まず哲学を勉強しないといけない。哲学と一口に言っても、広すぎる上にじっくり深く向き合わないと意味がない。なので勉強頑張らんとな、と思うようになった。

 

普段ほとんどPCを開かないのですが(肩凝るから)、たまに開くとどうしても何か書きたくなってしまう。ということで無理やり記事を書きました。けど内にあるモヤモヤした思いを吐き出したぞ。

 

 

「頑張らせて神様

 

報わらせてなんて贅沢なお願いはしないから」

 

 

 

 

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俳優に憧れる(憧れシリーズ2)

少々長いですが、お付き合いください。俳優になりたいという話ではありません。

 

今年に入り、ぼちぼち映画を観ている。ほとんど最近の邦画で、評論ほどの高尚なことは全くできないのだが、観て楽しむ分には自由だ。ちなみに今年映画館で観たのは『勝手にふるえてろ』『リバーズ・エッジ 』『娼年』『アイスと雨音』の4作。7月には押見修造原作の『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の実写化があり、今から楽しみだ。そして、今まで注目したことのなかった俳優という職業に、憧れに近い感情を抱いていると思うようになった。

本当に笑ってしまうぐらい単純な話で、続けて観た作品に同じ俳優が出演していて、それぞれ全く別の役柄を演じていること。そのことが、与えられた役を演じるのに徹することができるという俳優の特権に気づかせた。これは僕なりの歪んだ解釈かもしれない、が。

そもそも、僕は「キャラ」という概念があまり好きではない。そのくせ陽キャ陰キャと節操なく口にしてしまう点は反省したい。誰しも一言では片付けられない特徴を持っているものだし、集団の均衡を保つために、期待される役割通りに振る舞うということがどうにも息苦しい。キャラなり立ち位置なりが、集団の結成には必ず伴う。それもあって、僕はあまり集団に属するのが得意でない。自分の果たすべき役割を見出すのが苦手だし、まして与えられたくもないのだ。常に素の自分でいたいという夢みるボーイなのである。

人生を有利にするために、不穏を巻き起こすことがないように、人はあらゆる局面で、演じることが求められる。言いたくもないセリフを発し、したくもない行動を取らなければならない。本格的に社会に出ればなおのことだろう。よく考えなくともそうしなければならないのはわかるが、腑に落としたくない。本当の自分を殺すのが、気持ち悪くて仕方ない。人生をつつがなく進ませるためだけに、というところがポイントだ。もちろん他者への思いやりの気持ちが内から湧き上がって演じるのは問題ないと思っているし、極力そうするべきだ。

ややこしい書き方をしてきたが、大事なのは「うまく生きるためだけに」「自分を殺して」「集団の中で自分が果たすべき役割を察知して」「その通りに振る舞う」ことが気持ち悪くてできないということだ。

 

 

俳優はどうだろうか。演ずべき役が与えられ、徹底してその役を演じることが求められる。自分を捨てて、その役に没入する。もちろん俳優一人一人には味があって大切な要素なのだが、役からはみ出さない範囲で感じ取れるものだ。変な言い方をすると、割り切って役を演じられるわけだ。それが仕事であり、自分がやりたいことだから。

僕は、割り切れない。まず、うまく生きるということが嫌いだ。うまく生きることが自分のしたい生き方なら問題ないし、否定する気もない。けど、うまく生きることで得られるものは全て虚しいと思っている。これは僕の人生観だ。「うまく生きる」の解釈は各人に委ねたい。一方の俳優はというと、自分で選び取った生き方だ。俳優になりたいから俳優になったはずだ。演技が好きだからその道を選んだはずだ。はなからスターになることが目的だったとしたらまた話は別だが、この点でうまく生きるとは異なる。

次に、自分を殺すという点に関して。日常生活での僕らは自己主張したい気持ちを抑えて、嫌々自分を殺している。本当に嫌々ね。俳優は演技において、思い通りに振る舞いたいという気持ちは持たないだろう。もちろん個性を反映させたい思いはあるだろうが(そもそも、なければ芸術とはなんなのかという話になる)、演ずべき役に個人のパーソナリティーを塗りたくりたいとは思わないだろう。さっきも言ったが、俳優という職業を自分で選び取っているのだから。

そして三番目、集団の中で自分が果たすべき役割を察知すること。自分に客観的な評価を下さないといけない。勉強みたいに偏差値で客観視できる項目はほとんどないから、本当に"察さ"ないといけない。これはとても難しく、心理的負担も大きい。僕は評価が高かれ低かれ、自分で自分を見積もるというのが恥ずかしくて堪らない。それが物凄い勘違いだったらという不安もある。(かといって、他人に下される評価も嫌いだが。高ければ驕ってしまう危険があり、低ければ辛くなるだけだ。)自分というものは真に知り得ないところに魅力があると思うし、暫定的なものでも評価は自己を破壊しそうで怖い。俳優にそのような察知は必要ない。だって元々脚本の段階で決められているのだから。

 

 

要は、僕が日常生活で「演じる」ことに抱く気持ち悪さが、俳優には存在しないのだ。だから憧れるのだ。「演じる」「演技」という言葉から負のイメージを取り除いてしまいたい。

決して、俳優になりたいというのではない。自分以外の人間になってみたいのではなく、むしろ自分にしかなりたくないと思い、俳優に憧れという感情を抱いたのである。この一見矛盾する感情、わかっていただけるだろうか。