東大入っても品性は養われなかったイキリオタクの懺悔

捉えどころのない生の苦しみの中を、ユーモアと哲学で颯爽と駆け抜けていきたい。一介の冴えない大学生。

ガチ恋侍、振られて候

 

 

 

 

 陰鬱で膨れ上がった僕の脳のように通知が溜まったLINEを開くと、無視しようともできない大事な返信が来ていた。そうだ、最近の過眠の原因は大学だけじゃない。自分が送ったメッセージがあった。自分の行為のキモさがあった。

 「やっぱり」「付き合う」「難しい」

 開くのに勇気は要さなかった。比較的空いた丸の内線の車内で、僕は失恋が完了するのをしかと確認した。

 失恋が完了する、というのは日本語としてやや違和感があるかもしれない。しかし間違いなく「完了」したのだった。可否はあらかじめわかっていた。僕は自分自身で、徐々に失恋を完成させていったのだ。 

 今更数カ月も前の話をするのは気が引ける。それ以上に具体的な恋愛について語ること自体が躊躇われるが、毒も食らわば皿までだろう。存在も行為もキモいのだから、何を語ろうとキモいことには変わりない。ところで「キモい」って言葉のキモさ加減は異常ではないか? 日本語の豊かな側面だと思う。まあそんな話はどうでもいい。

 詳らかに書くほどの出来事でもないから、要点をかいつまんで語ろうと思う。

 

 クリスマスにLINEで告白をした。本当は直接に会って「現物」を渡したかったのだがかなわなかった。その時点から失恋は始まっていた。いや、本当は恋愛感情のようなものを意識したときから進行していたのかもしれない。

 

 以前、告白の手段としては発話より文章を好むと書いたことがある。

 大学一年生の夏休み、北陸からの帰りに高崎に降り立った。近隣の観光スポットを検索すると山田かまち美術館というのを見つけた。エレキギターの演奏中に感電死して亡くなった人物。彼は十七年の生涯で優れた詩や絵画をたくさん残していた。 

 僕はそこで人間の存在証明をたくさんみた。生命の躍動をみた。「ぼくには24時間ではたりないよ」口癖だった彼の言葉には説得力しかなかった。僕が通常こぼす愚痴とは全く異なる性質のものだ。自分が恥ずかしかった。

 中でも胸に強く刻まれたのが、いわゆるラブレター、恋文だった。情熱的な文章が何枚にもわたり、やはり情熱的な筆跡で綴られている。僕は告白の意味を直覚した。方法を真似しようと思い、その旨を来館者ノートに記した。

 当時の僕にも好きな人がいたのだ。

 しかし約束は果たせなかった。あのとき感じた胸の高まりは続かず、自分がすればあまりにキモい行為であると悟ってしまったのだ。手紙に固執する必要はなかったが、なんであれ感情を曝け出すことは慎まなければならないと思っていた。数か月後にその子は誰かと付き合っていると知った。後悔はなかった。最初から芽はなかったのだと解釈するようにしたし、実際正しかったのだと思う。

 

 こうした経験があって、書いて伝えることへの憧れと執着を引きずっていた。

 大学三年生の冬。猛烈に恋しい女の子がいた。みじかい詩をいくつか連ねて、告白の時期にふさわしい題名をつけた。家にプリンタはないのでコンビニで印刷して、現物を用意した。

 問題は会う口実だった。何とか悟られずに渡す方法はないか。ミレニアム懸賞問題と肩を並べるような難問だった。結果的にいい策は浮かばず、現物は封印することにした。仕掛けたギミックであっと言わせてみたかったのだが、まあしかたない。肝心なのは中身だ。

 その中身がよくなかったのかもしれない。僕はそれとわかるように言葉を並べたつもりのファイルを送ったが、彼女からは「告白」に対する「返事」ではなく、「作品」に対する「感想」が送られてきた。

 僕はどうしよう、と思った。丁寧な感想文はそれはそれでありがたかったが、改めて告白を成立させるべく解説を送り付けるのはあまりに無粋だ。

 彼女にとっては唐突な出来事でしかなかったと思う。しかしわざわざ日を選んで作品が送られてきたことに、何の意図も感じないのは不自然ではないか? 彼女はとぼけているのだろうかとも思った。

 何日か逡巡したあげく、愚直に好きだといった。いってしまった。好きだというのは初めてではなかったが、これほど勝算が低く、もはや失恋を感じ取っていたなかでのそれは当然初めてだった。

 返信があってしばらくは怖くて開けなかった。そうするうちに年を跨いだ。

 

 今年の年越しは一人だった。帰省がてら初日の出を見ようと、和歌山の小さな港町に泊まったのだった。

 終電で駅へ降りると、ローソンが田舎にはそぐわない明るさで青々と光っていた。不思議な感性がはたらいて、竜宮城のようだと思った。

 宿にはあらかじめ到着時刻を伝えていたが、宿の人は僕の訪問にやや戸惑っているようだった。何だか不吉な予感がする。男性一人のドミトリーを予約したつもりが女性になっていたらしく、空きがないのだ、と説明された。途方に暮れることしかできなかったが、どうせ何とかなるだろうと思った。

 「とりあえず〇〇荘に電話してみるわ」「まだ向こう行の電車あるよな?」などのスタッフのやりとりが耳に入り、自分はどこに連れていかれるのか不安になったが、結局スタッフ用の部屋を貸してくれることになった。なんと六畳の一人部屋だ。

 すっかり安心した僕は軽い口調で「名前で変だと思いませんでした?」と尋ねたら、「そうは思ったんですけどね、もしかしたらと思って」と笑顔を浮かべてくれた。一気に和やかな空気になった。

 宿は僕を除いて団体客の貸切状態だったらしく、宴会場からは賑やかな声が響いていた。僕はローソンで買った弁当を食べ、入浴時間が終わった後の風呂に入らせてもらった。まだお湯は熱いままだった。一年が終わる。

 

 寝る前にやらなければならないことが一つだけ残っていた。彼女からの返事を読まなければならない。年内に返事を確認すると友達に約束していたのだ。もっとも恋の状況を友達に伝えていたのは、自分にとってとびきり特別な事態だった。それほどまでに募る思いをこらえきれなくなっていた。

 何を期待しているのかと自分に問いかけたかったが、どうしても怖くてしかたなく、結局その日はスマホを手に握ったまま寝てしまった。

 目が覚めても太陽はのぼっていなかった。のぼっていたらまずい。何のためにここに泊まったのかわからない。だから偶然にも早く起きれて安堵した。

 午前四時。他の客と隔離されていることもあり、二階の一室は驚くほど静かだった。その静謐さと、久しぶりに感じる畳の芳しさ。一年の始まり。僕の心は過去最高で澄み切っていた。意を決さずとも、ごくごく自然な動きで彼女からのLINEを開いていた。ここ何日かの緊張が嘘のようだった。

 僕の回りくどい告白への当てつけのように、率直で誤解しようのない言葉が丹念に連ねられていた。「実感がないというのが本音」「男性として強く意識したことはない」

 とうぜん辺りは静かなままだった。感情がかき乱されもしなかった。

 僕は予防線を張りまくっていた。唐突なことで驚くかもしれないけど、と断っておき、好きとはいっておきながら「付き合ってほしい」とは書かなかった。だから返信を読んで「そうだよな」と全てが想定通りであったように納得したし、「そうなんだ」と純粋に彼女の気持ちを受け止められた。何より誠実な文章を嬉しく思った。

 このとき澄み切った僕の心には、一切のわだかまりも残らなかった。

 

 

 

 

 最後に彼女と会ったのは今年の二月、確かバレンタインデーの二日後だった。

 告白に付随する一連のやりとりで、彼女は一度会って話したいといってくれた。どうにも僕が彼女を恋愛の文脈で好きであるということ、自分が僕から好意を寄せられているということが、あまり呑み込めていないようだった。僕は依然として猛烈に彼女に恋していたから、断る理由はなかった。

 いつもと変わらない仕方で会話に興じていると話題が件に及ぶこともなく、そろそろ店を出ようかというタイミングでようやく僕は切り出した。「話さなきゃいけないことがあるよね」

 とうぜん彼女にはそれで通じた。そのために会ったのだから。「全然気づきませんでした。話すといつもこんな感じだし」と彼女は所感を伝えた。

 彼女のいわんとしていることはよくわかった。僕らはお互いの最近の生活ぶりとか、そういう属人的な話はあまりしない。二歳差だと思っていたら実は一歳差だと発覚したのもこの日だったくらいで、密かに妹より年上だとわかって後ろめたさが軽くなっていた。気づけば社会の事象についてであったり、観念的な話になることが多かった。ちょうど心地いいていどに頭を使って会話をした。彼女の黒目がちで切れ長の目をよく見て話した。ただあっという間に時間が過ぎるということを、いつも強く感じた。

 彼女がどれだけ本心で、どれだけ僕を傷つけまいと計らってくれたのかは知りようがないが、明確に拒絶されたわけではなかったのは確かだと思う。決していわせたのではない「私も(人として)好きですよ」という言葉を、僕はキモいので何度も噛みしめるようにリフレインさせたし、「付き合うとはどういうことか」と問いかけられて答えに詰まったりして、また話しましょうということで別れた。彼女は付き合うことの意味に合点がいっていないだけなのだ、とまだ少しだけ期待した。失恋は未遂であった。

 家に帰って、彼女から返却された本に小さなチョコが添えられているのを発見した。やっぱり女の子ってこういうところが素敵だよなあ、と一般化してその気遣いを受け取った。そうしないと恋が暴発してしまいそうだから。次に会える保証がなくなってしまった、と思うと少し寂しかった。

 

 彼女にとって生活の重荷になることが、一番不本意なことだ。自分の半ば依存的な恋愛感情と、彼女の事情。どうバランスをとり、どう立ち入っていくかは悩ましいばかりだった。

 対面すると会話のエンターテイメント性にかまけてしまい、また気恥ずかしさもあって真摯に話せなかったことを僕は反省して、改めて文章を書いて送った。歯の浮くようなセリフがまじっていたかもしれない。決してキザな男を演じたいのでも、文学かぶれなのでもなかった。 ただ単に僕の実地経験の浅さゆえのことだ。他になす術を知らなかったのだ。

 彼女は忙しい合間を縫って熟慮を重ねてくれたようだった。何かと考えることが好きな子だから、きっと嘘ではないのだと思う。結論はずっと先送りになった。

 

 僕は愛に飢えているのだと思う。そういうと大げさに聞こえるから、愛みたいなものに少しだけ飢えていることにしようか。もはや出会う気も、メッセージを送る気すらもないマッチングアプリを未だに開いてしまうのは、きっと満たされない部分があるからで、馬鹿げていると感じる。

 僕は刺激にも飢えている。やりたくないことはたくさんあるが、やりたいことは特段ない。恋愛は一種の娯楽だと思うが、人生においてかなり本質的なテーマでもある。過去を回想していつも浮かんでくるのは、いつかの心の揺れ動きだ。心の隙間とは、何より刺激に対して開かれている。寂しさとか、そういうんじゃない。

 だからといって手あたり次第、というわけにはいかない。第一そんな機会に恵まれてもいない。誰かと恋愛関係になりたいとか、誰かを好きになりたいとか、誰かに好かれたいとか。よこしまな考えで彼女を好きになったわけではなかった、ということは彼女のために断っておきたい。

 

 理解されたい、という気持ちの正体は何なのだろう。根源は何なのだろう。どうせ人間についての深い考察などできないのだが、満たされない気持ちを分析することで緩和したいという意図がある。満たしてくれる存在を見つけるより、自分をメタ視することで自分なりに折り合いをつけることの方が、僕にとっては簡単なことなのだ。だから異性に限らず、僕は人付き合いというものを敬遠しがちである。自分とは自分が向き合うしかない。他者をたよってもしかたがない。そう思って孤独な日々をしのいで生きてきた。

 そんな日々は孤独への耐性を強化する反面、他者の見せるやさしさに対して、究極に脆くさせる。自分を理解してくれる存在に出会うと、たやすくガチ恋してしまう。厳しい言い方をすれば依存。もし僕がかわいい女の子であったなら、メンヘラとして生きていくことになっていただろう。僕のメンヘラへの嫌悪は、典型的な同族嫌悪だ。

 

 彼女は僕に関する一面の真理を言い当てた。すなわち俗にいうところの「理解してくれた」であり、僕に他者からの<理解>を入力すれば、その他者への<ガチ恋>が出力される。至ってシンプルな構造。小説家泣かせの、メンヘラ男子の恋のメカニズム。

 「内に秘めてる感じが好きです」そんなことを言われたのは初めてだった。

 

 彼女と話したのはまったくの偶然だった。大学二年生の冬。知り合いが所属していた学内の劇団による公演を見に行き、別の知り合いと遭遇した。その知り合いと一緒に来ていたのが彼女であった。もっとも学内のコミュニティというものは意外なほど狭く密接で、その時は話さなかったが一度会ったことがあり、ツイッターでFF関係にある人だった。

 厚かましくも晩ご飯に同行し、帰宅してしばらく経つとDMが届いた。「思っていたより落ち着いた人ですね」年下からこんな風に評されるのもどうかと思うが、悪い印象は持たれなかったらしい。二人きりで話したわけでも奢ったわけでもないのに、律儀な子だった。「内に秘めてる感じが好きなので、よかったらまたお話ししましょう」

 

 そう、そうなのだ! 俺は"内に秘めてる"のだ! 

 僕は一人で膝を打った。言い得て妙とはこのことか。僕は人前で話すことにそんなに抵抗がなく、相手を問わず機知に富んだ会話ができ、色々な界隈に足を踏み入れている、一見するとそこそこ軽快な人間である。しかしこれは社会生活を送るための仮の姿である。いや、仮というのもおかしく、これもまた僕の一面の真理といった方がいい。

 近頃は陰キャという便利な言葉があるが、人によって使い方はまちまちで、説明不足な感じは否めない。彼女の含意はわかるはずないが、僕は「内に秘めてる」を真理として扱い、理解を与えてくれたのだと思ってしまった。感激していた。ときめくきっかけには十分であった。

 

 

 

 

 初めて言葉を交わした日から一年たって僕は告白を遂行した。しかし一年間ずっと好きだったわけではない。振り返ればきっかけはあの日だったが、恋の萌芽をはっきりと感じとったのは季節が秋にさしかかってからだと思う。まず、一度目に僕から誘って会ったのは夏休みに入ってのことだった。そのときにはこんなことになるなんて思ってもみなかった。

 告白に至るまでに会った回数は、最初を除いて三回ほど、いや正確に三回、だった。一回も忘れるはずがない。総時間では七時間ぐらいである。多分、かなり短い。家で呻いていた時間の方が圧倒的に長い。僕はキモいので何度もLINEのスクショを見返したり、プロフィール写真を拡大したり、彼女の名前を反芻したりしていた。そしてメッセージを送るまでの逡巡・戦国時代。これらを踏まえると結構な時間、彼女に思いを巡らせていたと思う。

 

 一般に人を好きになったとき、その人が踏むべき手順はどういうものだろうか。自分から積極的にアプローチして、告白が成功する確率を見極めながら、その確率を上昇させていく。こちらの好意を示しつつ自分への好意を確かめつつ、相互の関係を強固なものにしていく。そして時機が来たら約束事のように告白する。これが最も無難な方略だろう、と実地経験の浅い僕がいってみる。

 つまり、人を好きになることから考えられるゴールは「付き合う/交際する」という、実質ただ一つであるように思えてならない。この事実が数多くの悲劇を生み出してきたのだと思うが、なぜ好きな人と付き合わなければならないのか、好きな相手も自分を好いてくれなきゃならないのか。真剣に考えてみると、意外と自明なことではないと気づく。見返りを求める恋を、果たして恋と呼んでいいのだろうか? いや、恋とはそれを前提とした語彙なのだろうか。

 このことに関する論考は別の機会に譲るとして、こんなことを言っておいてともかく、僕は勝手に彼女を好きになっておきながら、恋心を持て余して苦悶し続ける。苦悶を緩和するためには先に述べた一般的な方針をとればいいのだろうが、僕は彼女と付き合う未来が想像できなかった。「男性として意識したことはない」と彼女から明かされるまでにも、僕にはそんな気がしていた。恋愛のプロであれば自分を好きにさせればいい、というのだろうけど、僕なんかにはそんな芸当、到底なしえない。

 

 そこで僕はどうしたかというと、自分の恋が"本物"であるかどうかを精査しようとした。恋を本物/偽物に二分できるとはとうぜん思ってなくて、ありていにいえば諦めようとしたのだった。能動的に会おうとしなければ会えない相手への恋心など、煩わしいものでしかない。こんな思いとは早く訣別した方がいい。だから諦めようと、解消しようと取り組んだのだ。具体的には、愛みたいなものや刺激への飢えから生じているんではなかろうか、もっと簡単にいえば、恋愛したいがために恋心を増幅させているのではなかろうか、と問いかけた。

 しかし、そんな問いかけも不毛だと思い至るようになる。別に欲求不満に端を発したって構わない。そもそも人間に変化をもたらすものというのは、いつだって満たされない気持ちなのだ。完全に充足した人間などありえない。だから僕らは走り続けることができる。

 そんなこんなで、秋から冬にかけて、僕は猛烈に恋をしていた。布団に入るといつも胸が締めつけられた。はぁ、好き。どうすればいいのかまるでわからなかった。ガチ恋娘。というニックネームをつけてツイッターで濫用した。夢にも何度か登場させた。キモい自覚はそうとうにあった。しかし僕にはキモさしかとりえがない。
 いっそ、もっとキモくなってやろう。そんな心理がはたらいたのか、いやさすがにそんなことはないと信じたいが、僕は詩を書いて告白することにしたのだった。告白することは失恋することと同義だった。僕は持て余した恋心の最期を見届けようと思った。
 

 しかし、失恋は一度では完遂されなかった。ひとえに彼女のやさしさゆえのことだったと思う。そして、僕の"ガチ恋"に神様が少しだけ微笑んでもくれていた。

 クリスマスから三カ月以上がたち、大学四年生の春。大学へ向かう丸の内線の車内、三両目。ここにおいて失恋は完成し、完了したのだった。「やっぱり今の私には付き合うのは難しいです」という言葉を、ようやく引き出したのだった。

 その期間、多忙な彼女の心を少なからず煩わせてしまった。そう思うと僕は途端に死にたくなった。消えてなくなりたいと思った。存在していることがたまらなくなった。

 失恋の完成は喪失だった。告白したときから全体像は見えていたのに、完成した瞬間、無である。 ひそかにくすぶっていた希望というものが完全に立ち消えたことの証明だった。

 

 しかし、失恋しても恋は失われない。読んで字のごとく、でないのだ。彼女と付き合うことはできなかった。恋は失敗に終わった、ということなのだろう。それは恋を失うことを意味しない。果たされなかった恋は僕に残り続ける。その恋を抱えたまま、僕は消えてなくなりたい。存在を終えたい。そんな気持ちだっただろうか。

 

 電車は本郷三丁目の駅に到着する。無の衣装をまとった僕は大学へと歩みを進める。

 人がいないところへ行きたい。無の空間へ行きたい。しかし無の空間などは存在しない。空間がある以上、そこは無ではない。僕も身体が存在するかぎり、無ではない。

 授業が行われている教室ではなく、図書館へ向かう。僕は言葉に吸収されてしまおうと思った。言葉と一体化しようと思った。言葉とは人間の存在があって初めて意味を手にできる。そうでなければ無である。ならば、言葉と一体化すればいい。

 僕は僕を吸収してくれそうな言葉を探そうとした。とうぜんそんなことは不可能だった。第一いっていることの意味がわからない。代わりに僕の中に残っていた、恋がみすぼらしく姿を変えた"わだかまり"がセンサーとなり、ある言葉を検知した。

 ──<非モテ>。

 その本のいうところによると、「非モテ」とは単に女性に相手にされないとか、交際経験がないとかいった即物的な概念ではない。もっと複雑な心的構造に基づいた、根深い問題なのであるという。女性と付き合ったところで解消されるわけではない、厄介極まりない病理。

 僕は大いに納得していた。同時に自分が非モテであるとも認識した。抗おうという意思はもうなかった。非モテは別に烙印などではない。モテが尊いことでも、偉いことでも、優れていることでもないのだ。そしてなにより、僕にはキモさしかとりえがない。

 

 彼女はいった。「仲のいい友人として、これからも展覧会とか行ったりしたいです」   

 僕は選択した。非モテの形象として、彼女と仲のいい友人として、仲良くやっていこうということを。

 僕は解釈した。仲のいい友人ができたというだけでも、ものすごい快挙ではないか、と。一般的に友人というものはつくることができない。対して恋人はいくらでもつくれる。口約束で成立、という手順が万人に認識されている。でも、友人はそうはいかない。改めて確認することができない。

 だから「友達がいない」という迂闊な発言が生まれたりする。だから「友達」と「知り合い」という言葉の使い分けに迷ったりする。だから僕は、彼女のことをなんと呼べばいいのかわからないでいた。

 でも今、僕らは晴れて友人になった。友達になった。それも仲のいい、と決まっている。

 

  <ガチ恋侍-ガチ恋娘。>という非対称な関係から、仲のいい友人同士という対称な関係へ。

 僕はこの結末を、失恋だとは思わない。

 

 

 

 

 

 

『投げやりでなく』(小説)

投げやりでなく
                   

佐藤渚

   
 散らばったギンナンを踏みつけないよう、うつむきながら慎重に歩く。前方から歩く男女の声が、顔が見えない分、余計に耳に障る。何がそんなに面白いんだろう。あほらし。
 

 入学して一年半、ずっとつまんない。それまでの十八年間もつまんなかったけど、期待を裏切られた分だけ、大学生活の方が罪深い。何がつまんないかって、多分人だ。それも男。大学の八割を占める男。その八割がつまんないんだから、つまんなくないわけがない。
 地方公立出身。高校に骨のある人間はいなかった。だから勉強する時間だけは十分にあった。そして盲目的に、東大入れば人生変わる、なんて神話にすがって。そんなはずなかった。楽しく生きる才能がないのだろうか。いや、私は悪くない、と思う。
 当然、彼氏なんかいない。できたこともない。いや正確には、私が彼氏と正式認定した男は一人もいない。勝手に彼氏面してくるデリカシーのない奴はいっぱいいた。「別れる」って言葉の価値がデフレしまくったし、あげく軽い女って噂されて、心の底から呆れた。
 みんな、つまんない人たちでした。哲学や信念、中身がない。薄っぺらいのは体だけじゃないのね。どいつもこいつも似たような話ばっかり。成績自慢も忙しいアピールも聞き飽きた。必死に他の東大生と差別化図ろうとするのも滑稽だし、それを冷笑して自分はわかっている人間だぞ、とでも言いたげな態度もうんざり。わざわざこっちから深く知りたいと思うような人はいなかったから、全員見限ってやった。
 私の顔にしか興味がないってのも、ムカついた。さすがに直接そうは言われなくても、私の内面に興味を示してくれないからわかる。私のどこが好きなのか聞こうにも、焦って必死に誉め言葉のテンプレートをひねり出されたりするのが怖いから、我慢した。結局、みんな恋愛ごっこに興味があるだけなんだと思う。私は流行のミニマリスト。恋人に多くは望まない。ただ私をちゃんと見てくれて、私も興味を持てる人。出会ったことがないからイメージはできない。
 

 気づけば、イチョウの葉はすっかり散っていた。うちの大学には銀杏伝説なんてのがあって、一年前の私は意地になって抵抗した。渋々なだけで一応彼氏っぽい男は常時いるし、私に伝説は関係ない。いつか出会える、ふさわしき人。でも、もうそんな期待も粉々で、諦めの境地にすっかり両足で立っている。
 ギンナンの臭いはしぶとい。なぜ伐採しないのか。普段は異臭に散々文句を言っときながら映える写真を撮ってSNSに投稿するのとか、本当意味わかんない。美しいだけじゃないんだぞ。イチョウも私も。
 イチョウの実、つまりギンナンは、自分の身を守るためにあの臭いを放つらしい。私からすれば自己主張が激しくて羨ましく思える。私の内面はきっと腐ってて、捻くれてて、さらに恐れている。でも、私は骨のない男から身を守るため、人生初の勇気を出してこの文章を実名で公開してみようと思う。

 何か言ってきた奴には、ギンナンを投げつけてやればいい。

 

 

 

東大女子を主人公とする1,200字以内の小説という要件で、学内のフリーペーパーが募集していたコンテストに出した作品です。昨年2月に人生で初めて書いた小説で、拙さと自意識による羞恥、順当に落選したこと、誰も読んでくれない恐怖などからずっと公開するのを控えていましたが、創作というものはそれらに打ち勝たないといけないし、何より作品の出来不出来は一概に言えるものではなく受け手との相互作用であり、見てもらうことで新しく作品が"生まれる"のだから躊躇う必要はないのだと思うようにして、公開してみます。そのうち短歌の連作、エッセイなども恥を捨てて載せていきますね。首をキリンにしてお待ちください。

This life will be stopping at Tokyo

 三年前の春、私は新幹線に乗っていとも簡単に上京を果たした。上京というといかにも田舎者が東京へ出てきた感じがするから、単なる引っ越しといった方が差し支えないような気がするのだが、一応単身で乗り込んできたのだ。大学進学に合わせて一人暮らしを始めるのだった。かつて東京に住んでいた経験もあって都会育ちを自負していたが、初めてまともに見る渋谷のスクランブルと109の派手な看板は私をワクワクさせた。東京に来た、と思えた。その時は人が多すぎるなどとは思わなかった。立派な希望が自然に沸き起こってきた。

 新居の扉を開けたとき、「今日から俺の城だ」という一度言ってみたかった台詞を言ってみた。いったん扉を閉じ、再び開けた。もう私の城だった。まだ私の趣味に侵食される以前の、清潔な姿だった。万が一たまり場になると嫌なので、大学からは少し離れた位置にした。当初は友人を招き入れるのすら強い抵抗があった。なぜというと単純な話で、本棚を見られるのが嫌だった。もちろん本棚以外もあまり見せたくなかったが、本棚を晒すことは内面を曝け出すことに等しいので、できれば避けたかった。結果として密な人間関係は築かなかったため仮に学校の真横に住んでいてもたまり場になることはなかったし、本棚の中身をしげしげと眺める奴はそういなかった。

 そもそも東大を志望した理由は三つあって、一に日本で最難関の大学であること、二に進振りという制度があること、三に東京で一人暮らしをしたいということ……であった。いわゆる学校のお勉強ぐらいしか能がなかったから、せめて受験という分野においては上に行きたいと思うのは自然であった。進振りというのは入学時に学部や学科を決めなくていいというゆとり制度で、己の将来像について真剣に考えることを放棄した自分には都合がよかった。将来に何の展望もなかった私が唯一持っていた希望は、東京で一人暮らしを始めることで抑圧していた人間性を解放すること。ルネサンスの綴りがRenaissanceだということを無意味に覚えた。

 

 東京での暮らしは現に楽しい。渋谷や新宿は大したことなかったが、大学界隈の昔からの東京は気に入っている。私が行きたいイベントはほとんど東京で行われるし、面白い店や施設がたくさんある。日本人のいないコンビニや各駅にある日高屋にはすっかり慣れた。乗換案内に頼るあまり地下鉄の路線は全然覚えきれていない。深夜に徘徊することが人間性の解放とはさすがに言い難いが、好きな時間に家を飛び出せるのは自由で楽しい。もちろん朝は誰も起こしてくれないから単位を取りこぼす。

 一方で孤独は深まっていく。実家にいれば最低限の会話は発生するところを、一人暮らしでは全く言葉を発さない日もあり得る。それも結構頻繁に。だからついついネットに依存する。風呂でスマホを弄るのは行き過ぎた効率主義と孤独の深化という自覚を持つべきである。私の陰鬱な性質は何ら変わりないのに、ツイッターの世界は様変わりした。自分が他人から注目されているか否かが数字でわかり、日夜ツイート・コンテストが繰り広げられている。孤独を慰めるばかりか、かえって孤独を強く実感する世界になった。町へ出ても同じだ。世界で一番孤独なのは、なぜか人ごみの中にある。ライブやスポーツ観戦で大勢のファンが一体になる、あの感覚が私はすごく好きだが、縁もゆかりもない人の群れに足止めを食らうと、自分の存在意義を疑うようになる。数字以上のインパクトが東京にはある。

 陰鬱だから将来の展望が開けないのか、将来の展望が開けないから陰鬱なのか。展望が開けないのは己の怠惰、元来の無能に起因し、陰鬱あるいは厭世もとい厭"生"、も源流は同じだ、多分。だからせいぜい努力するしかないのだが、一度陰鬱の沼に嵌まると簡単に抜け出せないのは誰でもわかるでしょう? これほど何の力にもならない継続はない、と思う。メンタルを改善しようとしたとて、馬鹿の耳に自己啓発本である。ちなみに無秩序な読書によって高校生の頃に出会いたかった文章を知れるのは幽かな救いで、同時にかつての視野狭窄を少し恨む。

 

 東京に来てから三年が経った。私は二十二歳だ。遥か昔の人生設計ではこの春から社会人になっている。リアルの私は三年生として春を迎えることにした。すなわち留年することにした。もう一年、色々なことを考える時間がほしかった。三年間の実績を二年間でのものと見做すことで、大学生活の生産性を1.5倍にしたかった。陰鬱に溶かした時期を悔いた。取り戻すことをしたかった。思い出作りをしようと思った。

 人並みに就活をすれば人並みに内定を得られる自信はあったが、ドラフト指名が確実な有望選手が大学進学を選ぶような感覚で、私は就職志望届の提出を見送った。もう少し真っ当な人間になってから社会に貢献したいと思っている。いや、社会に貢献なんて殊勝な意思はよもやあるまい。自分に少しは納得できるようになっていたいというだけだ。神様、私に努力を教えてください。私が金の斧を落としたのは、陰鬱の泉だったのでしょうか。

 

P.S. 明日は故郷に帰っている入学当初の友人に、二年半ぶりに会う。

 

阿呆リズム

真実

世の中に真実というものは存在しない。ただ善意と悪意、或は好意と悪意の二つが存在するだけである。

 

男女の友情

男女間の友情は畢竟成立する。成立しないのは、片方がそれを友情と見做したくない場合だけである。

 

純潔

男性は女性の純潔を愛するが、まさに純潔を愛するが故に、純潔な女性を真に愛することができない。

 

ツイート

全てのツイートには何らかの意図が具わっている。その意図に思い至ったが最後、ツイートすることはできなくなる。

 

インスタ

算数を毛嫌いしていた少女が、今では立派にある種の数字を数え、稼ぐための計算をし、その数を競い合っている。

 

発言

誰が言ったかで踊らされるようではいけない。しかし、誰が言ったかを明示しないことは一層愚かである。

 

品性

自己を偽らず、他人を傷つけない態度である。学歴との相関が薄いことは数少ない救いである。

 

個人

高々世界人口の75億分の一である。しかし、人が一生に処理できる人数の限界である。

 

自意識

人間が浸かりきっているぬるま湯である。ひとたび調子に乗れば、溺れて終局を迎えることもある。

 

論理

専ら自己を正当化するための飯事である。

 

メタ

醜悪ないたちごっこである。

 

価値

求めれば自ずと縮減する。

 

自己主張

一生で行使するのは、UNOにおけるワイルドカードの回数ぐらいでよい。

 

時間

所詮人間が生み出した概念に過ぎず、意味などはない。などと思っている間にも流れゆく不条理な概念である。

 

芸術

精神にとっての健康診断である。

 

才能

その数に対して、見出す側の数が圧倒的に足りていない。

 

東京

人が居住し過ぎだと誰もが思っている。しかし人が集まり過ぎているが故に、誰も動くことができない。

 

言葉

知ったが最後、翻弄されるまでである。いっそ翻弄されるなら、翻弄され尽くすがよい。

 

 

Now loading……

 

メランコリックムンク

 今日は上野の東京都美術館で開催中のムンク展へ行ってきた。実は前日もムンクを見るため上野へ向ったのだが、30分待ちという苛酷な状況を知って断念したのだった。代わりに訪ねた周辺の黒田美術館(残念ながら『湖畔』の展示期間ではなかった)、そして東京藝大内の美術館は全て無料で楽しめ、また素晴らしかった。特に美術教育研究室の人々が作品を持ち寄った「美術教育の森」は、絵画から彫刻から書から果ては絵本まで、非常に多様な作品を一堂に見えられ、表現における個性というものに改めて生命の価値を感じた。

 昼食は大学の食堂でとった。生協の運営によるものではなく本当に昔ながらの街の食堂という趣で、日替わり定食は480円と東京では破格だった。奇抜な髪色の学生が目立つかと思いきやそんなこともなく、我が大学の面々と外見上の大差はないようだ。東京藝大の入試倍率が桁違いという話は聞いたことがあるが、どんな内容なのかは知らない。指定の課題作品を提出し、一通りの技術を得ているかが問われるのだろうか。大学生活では皆が思い思いに作品制作に没頭するものと勝手に想像していたが、考えれば理論や歴史など美術のアカデミックな部分を軸に学ぶ学生もいるのだろう。ここではドロップアウトすらも、れっきとした一つの道なのかもしれない。

 僕はどんな分野でも創作家という存在に強く憧れており、生まれ変わったら芸大や美大でキャンパスライフを送ってみたいと思った。でも生まれ変わらなくても、例えば30代で仕事をやめて美大に入り直す、という選択も全く有り得ない訳ではないのだ。僕は人間には実はあまり違いがなく、どのような生き方を選び取るかだけでほとんどの事柄が決まっていくんじゃないかと考えることがある。誰しも表現したい何かぐらい、内に秘めているだろうし。
 

 それが前日で、今日はピークを避けて閉館の2時間程前に入れるようにしたのだが、まさか夜まで開いている日だとは思わなかった。僕の目論見は外れ人の入りが収まる気配はない。天気は良かったが外でじっとしていられるような季節ではないから、観念して40分待ちの列に並ぶことにした。さながら体育館での全校集会だった。別に待つのは退屈ではない。よくラーメン屋等の行列に並ぶ人の神経がわからないと殊更に主張する人がいるが、僕にはその人の神経がわからない。本でも読んでいればあっという間ではないか。生産性や効率の体系なんかで生活を閉じたくない。案の定、退屈する暇もなく展示室へと足を踏み入れることができた。

 ムンクといえばやはり『叫び』。というかその他の作品が一つも浮かばなかった。展示は9つの章に分かれ、初めは生涯を通じて描かれ続けた自画像、残りは概ね年代順に配置されていた。メランコリーと題された絵に棲む浜辺の青年の陰鬱な表情を、自らが専ら浮かべるそれと比べてみた。そっくりだと思った。

 

 階を上がりいよいよメインディッシュの叫びがある部屋。ここで、この絵にまつわるやや不可解な思い出を語りたい。小学校の図工で彫刻刀を使った作品作りをしたのだが、指定された彫る図版の一つに叫びがあったのだ。他の選択肢も全て名画であれば納得するが、確かどれも小学生に相応しい安穏とした風景のようなもので、叫びだけが異端だった。僕は迷わずそれを選んだ気がする。完成した代物は持ち前の不器用さとのシナジーで、この世の終わりを見事に表していた。発狂してムンクの絵を切り刻んだかのような出来栄えだった。何より教室に数多もの叫びが鎮座する光景が恐ろしかった。

 ちょっとした感慨に耽っていざ相対せん、と思ったが、その部屋だけは交通規制がなされていた。叫びを間近で見るための特設通路が設置されており、立ち止まってじっくり見たい人は通路の後ろから見るようになっていた。ほんの一瞬だけなのに、それでも叫びを最前列で見るという経験がしたいがために通路を並ぶたくさんの人々。一度部屋を出て引き返した僕も結局その列に加わった。何かアトラクションを待っているかのような高揚感、緊張感があった。

 折角の絵もそこそこに進まざるを得ない前方を見やると、何かの光景に似てるな、と直観した。そうだ、これはアイドルの握手会だ。そこではこちらに言葉を発する余裕はない程の速度で、すぐ"剥がし"に追いやられてしまう。さすがに美術館に剥がしはいなかったが、一定のペースで立ち止まらずお進みください、というスタッフのアナウンスが止むことはなかった。よくも同じセリフを延々と発せるものだと感心した。自分の番も同じで、大地の旋律(戦慄)を想像する間合いもなくあっという間に叫びとの面会は終わった。

 通路を抜け後方に回ると、通路外の人々が一斉に身を乗り出しせめぎ合い、必死に叫びとの距離を縮めようとしていた。あくまで通路には入り込まないように。それを見て、これは握手会ではないな、と思った。言うなればそう、活躍したスポーツ選手が海外から帰国し、空港でファンや報道陣に出迎えられるシーンだ。ピースがハマった感じがした。なんとも静謐な美術館とは似つかないイメージだった。

 

 東京にいるとどうにも人間の価値が薄れてしまう気がする。だってこれだけ人がいて、さらに僕がいる必要などあるのだろうか。展示室を出た直後の僕は、少しメランコリーな気分になっていた。

 メランコリックムンクの絵の力のせいだと信じたい。

古いアルバムめくり

 一人暮らしを経験すると、実家の煩わしさから解放されるとともに、有り難さにも気づくようになる。えらく機能的・実利的な考えになってしまうが、何をせずとも無料で食事が提供されるというのは大きすぎる。どうせ外へ出ても寒いだけなのだし、布団に篭って好きなように過ごし、腹が減ったらリビングへ向かえばいい。しばらく実家暮らしも悪くないと思う。バイトなど一生せずとも生きていけるだろう。実際は二週間もすれば飽き飽きしてくるのだろうが。

 帰省するとつい手に取ってしまうのが、過去にまつわる記録の類である。数字が大好きな自分は小学校時代からの模試の成績表を保管しているし、自分の文章力が着実に伸びてきた足跡を確かめることもできる。一方で高校の卒業アルバムというものは、あまり面白味のないものであった。僕が過ごした高校は中高一貫の男子校である。そのため中学版は存在せず、とそれだけならいいのだが、お察しのとおり男の顔しか載っていないわけである。一般に卒アルというものは、かつて特別な感情を抱いた異性を、甘い思い出とともにしかと眺め、その成否はともかく、確かな青春時代を築いてきたことを確認、安堵するためのものである。それが、僕の勉強机の本棚に無造作に立てかけられているものについてはどうだろう。開いたとて何らかの感傷が喚起される可能性はないに等しいのである。ときめきだけでなく後悔であっても、この際なんだって構わない。どんな青春小説より個人的な価値があるのが、高校の卒業アルバムであったはずだ。

 まさか十年前、小学六年生の自分が己の将来にまで考えを及ばせ、偏差値の高い男子校ではなく真っ当な人間性を育むに違いない共学校を選択するほどの用意周到さは持ち合わせていなかったのだから、仕方ない。そうとはいえ、塾で教わった受験に必要な知識以外には限りなく無知、純粋無垢な少年を欺き、どう足掻こうと少女の微笑みを垣間見ることなどできない特殊装置へと送り込むのはあまりにも無慈悲で、残酷な仕打ちだ。男女別学など到底有り得ないと僕は思うのだが、同じ試練を乗り越えてきた者に自分の息子にも同じ道を歩ませるのかと尋ねてみると、肯定的な意見を聞くことがある。高々顔の造形の二分の一を自分と共有する息子にだけいっぱしの青春を勝ち取らせるわけにはいかないというのである。恐ろしい憎悪、青春コンプレックスである。

 どういう風の吹き回しか、重量感があるだけで無味乾燥な例の書を繙く運びとなった。自分の顔が配置されたページを開くのはこの上なく恥ずかしい。僕の高校のアルバムは、写真・氏名の下に二十文字程度で自由にコメントを載せられる仕組みになっており、黒歴史製造に余念がない一定程度の同輩は、各々渾身の大喜利を披露していた。個人的なベスト3(といっても全員分を確認したわけではない)を発表しておくと、第3位「(1996-2035)」、第2位「古いアルバムめくり こいつ誰やってつぶやいた」、第1位「は常に前を向いている」といった具合である。

 所感も添えておくと、第3位は肖像を利用したdescriptionとしてはベタなものなのだが、2035年という年次設定が巧妙に思われた。彼は数学を偏愛する奴で、大学も特色入試で数学科へ進学したのだが、そんな才気溢れる人間に相応しい若齢で一生を完結させようという企みは、自分の才能と他者からの評価を存分に弁えた上での模範解答である。おまけに、数学界のノーベル賞と称されるフィールズ賞という数学の賞があるのだが、受賞できるのは傑出した業績をあげた"40歳以下"の数学者に制限されており、この規定をも念頭に置いていたのかもしれない。第2位は夏川りみの名曲をアレンジした、非常に明快でキャッチーなフレーズ。シンプルに笑えるし、シンプルにうまい。卒アルに寄すという特性をしっかり踏まえ、おまけに高校名(一応伏せる)を活用したダジャレになっている。第1位「は常に前を向いている」は、インスタントな理解は困難かもしれない。実際にアルバムを見れば一目瞭然なのだが、写真・氏名と渾然一体の、世紀の合作である。つまりは「○○○○は常に前を向いている」という文章が完成し、その通り前を向いている自身の写真の下に添えられるのである。お見事というほかない。さらに口を開いて歯を見せ、目を飛び出さんばかりに輝かせたスマイルも躍動感、生命力に満ち満ちてその生き様を正確に映し出しているようである。全てが計算された作品といって相違ない。

 と、開いてみると我が校の卒アルもなかなか面白いものではないか。 一方の僕自身は、失笑せざるを得ない代物であった。まず、表情がおかしい。澄ました顔を意識しようとして失敗したのか、単に写真撮影に不慣れなのが露呈したのか、鼻の下が伸び切り、さながら笑いを堪えているようである。さらにシャツのボタンが外れている。スクリプトは「─書いた、愛した、卒業した─」。スタンダールの遺言で墓に刻まれた"SCRISSE, AMO, VISSE"を踏まえての言葉であるが、別段思い入れがあるわけでもなく、単に聞き齧りの薀蓄に代弁させただけのことである。何の信念も持たず、聞こえのいい小洒落た言葉を以て六年間を装飾しようとする態度は、あくまで自分らしいといえば間違いないのだが。

 しかし今考えてみると、この言葉を選んで悪くなかった気がしてくる。みんなの秀逸な集大成を見て、ストイックに大喜利をしておけばよかったという後悔もチラッと浮かんだが、当時と今では状況が違う。以前、「人間は恋と革命のために生れて来たのだ」について書いたが、"SCRISSE, AMO, VISSE"も同類ではないのか。ペンは剣よりも強い。革命には言論が必要だ。恋だけで終わってよいのか。恋愛へと飛躍させよ。

 人生に必要なものは数少ないと、最近の僕は思う。

我の生涯の最鬱の年

来年は、何でもいいから何か出来るようになりたい。「経験」という甘ったるい言葉を突き抜けてくる何かを求めて邁進したい。

 

上の文章を見て既視感を抱いた方は、僕の後援会会長にでも就任なさるとよいかと思います。

こちら、昨年の12/30に投稿した最終記事の最終段落の引用でございます。めちゃくちゃ殊勝なことを言っているように見えますが、見せかけです。張子の虎です。

今年も別に、何か出来るようになったことはございません。プロ野球の成績でいえば、二軍で.243 3 28 OPS.653ぐらいの一年でした。伝える気がありませんね。

もっとも一年というスパンは壮大なものでして、振り返ろうとしたところで、大抵は直近の出来事に引っ張られてしまうわけです。そうでなくても、今年の漢字は「鬱」で満場一致だったわけですが。オールシーズンということです。

春は、鬱。夏は、鬱。秋は、鬱。冬は、鬱。もう清少納言が正しくは何と書いたのかさえ思い出せません。春は曙太郎、夏は住野よる、秋はユーグレナ、冬は該当者なし、みたいな感じだったでしょうか。

ともかく2年連続6度目(2011〜13,15,17〜18)の受賞となった鬱でございます。「無」や「滞」も毎年候補に挙がるのですが、やはり一字のインパクトで鬱の右に出るものはいないということになります。

というわけで(どういうわけでしょう)過去の華々しい受賞年を一挙振り返ることにしましょう。終わった頃には平成という時代が浮き彫りになっていることでしょう。

 

2011年。夏の大会で部活を引退しました。もっとも僕は出場していないので、何の思い入れも、思い残しもありませんでした。暇になったのでバンドを始めたかったのですが、うちの軽音楽部は予めバンドを結成していかないといけないシステムでした。それまで友達と音楽の話などしたことがありませんでしたから、当然入部しない運びとなりました。元いた部活がなくなったことで、友達と過ごす時間が必然的に減りました。そうして徐々に、鬱という言葉が身近になっていったのです。この年、15歳で初受賞。それまでの僕はただの中二病を患ったキモオタ少年でしたから、鬱に足る繊細な精神などは持ち合わせていなかったということです。

 

2012年。年が変わって急に友達ができるはずもないので、相変わらずの日々です。中学(中高一貫校でしたが形式上行われるのです)の卒業式では多くの生徒が式後に写真を撮ったり、カラオケに行ったりする中、一人で家に帰りました。家に帰って布団に倒れ込み、当時はまだ廃れていなかったmixiで非公開の日記を書きました。内容は想像に易いはずです。この年は4年ぶりに女の子と喋ったという点でのみ、進展がありました。希望はありませんでした。忘れていたけど、全く英語が話せないのにイギリスへ行きました。それだけは、人生で一二を争うほど楽しかったです。

 

2013年。前年の末からだった気もしますが、勢い止まらず、ときたまSNSにポエムを投稿するようになりました。そういう意味で、今の自分の原型が形作られた年だったといえるでしょう。阿部真央の『17歳の唄』を聴いて号泣していました。ここに来て、中学の初めから所属していた別の部活(文化部)に熱を上げるようになりました。他校の仲間や後輩とよく喋るようになりました。それでも放課後は、一人で梅田のタワレコや本屋、ゲーセンをうろついたり、アイドルのフリーライブに行ったりするという冴えない青春でした。仮に一人でなければ、やっていることは同じでも中身は違ったでしょう。夏真っ盛り、女の子と二人で甲子園を観に行きました。当時の服装を今でも思い出せそうです。

 

2014年。3年連続の受賞がストップしました。原因は受験です。受験といえば鬱に拍車をかけるイメージがあるかと思いますが、裏腹にやらなければならないことがあると生活は充実するようになります。共通の目標があると連帯も生まれます。この年は学校にも塾にも居場所のようなものがありました。友達と林修の授業を切って、はるばる神戸の奥地まででんぱ組.incのライブに行きました。翌年に入りますが、塾のメンバーと初詣にも行きました。

 

2015年。勉強はあまりしていなかったので、第一志望に滑りました。勉強に関してだけはポテンシャルがあると思い込んでいたので、初めての挫折といえそうです。二次試験から不合格発表まで、飛行機の魔の11分間ならぬ魔の11日間を過ごす羽目になりました。自室は精神病棟と化していました。予備校に入ってからは成績に問題はありませんでしたが、突如として襲いかかる浪人生特有のプレッシャーに、度々圧迫されていました。模試の憂さを晴らしに、京都のマグリット展に足を運んだのがよい思い出です。帰りにデカ盛り皿うどんで有名な店で昼食を摂りました。あることがきっかけで予備校の掲示板で不当に叩かれ、人の底を見た気がしました。

 

2016年。第一志望を譲りませんでした。万が一を考えて、合格発表はトイレで見ました。東京暮らしは初めてではありませんでしたが、一人暮らしは当然初めてです。この年、生きている実感をようやく得られました。Twitterをする時間が格段に減り(ポエムは相変わらずでしたが)、単位もまだ取得できていました。

 

2017年。大学も2年目を迎えると、もうどうでもよくなってきたりします。いや、普通の人はしないと思いますが。秋口からが顕著で、第一志望だった学科の授業がどうしようもなく、というより開講されていませんでした。そもそも、通学定期券を購入しませんでした。行っても意味がない、と思ってしまったのです。別のキャンパスの方で積み残した単位を回収するためにだけ、外出していました。ブログを始めました。似たテイストの記事が続くのは、この時期の精神状態の判りやすい鏡です。魔の11日間ばりに無為な時間が過ぎ去るのを堪えるばかりでした。

 

2018年。いよいよ今年です。少し長めに振り返りましょう。1月はピースボートに乗ろうと本気で考えました。作家になりたいと思って文学賞について調べもしました。ちなみに両者ともそれっきりです。レポートは一つたりとも提出せず、物の見事に全て落単しました。2,3月は旅行の期間だけ異常に生気がみなぎり、その他の期間は無聊を慰めていました。たまに思い出したように展覧会に行きました。4月は初心に帰って学問を究めようと思い、教育学の本などに手を出しました。この後も読書習慣は続いたので、一定の成果はありました。7月に夏学期が終わるまで、授業には相変わらず出席できませんでしたが、特定の授業では賞賛されました。8,9月は未踏の都道府県を踏破することを目標に、2回の一人旅を敢行しました。10月からは進路について思い悩み始めました。これまでの人生は既定路線を歩んできたため、どうすればよいのか全くわかりません。たちまち鬱の渦に呑まれます。3ヶ月連続で鬱選手が月間MVPを受賞します。これまでの組織に縛られない生き方は、所属感の無さが鬱を誘発することもありますが、総じて気ままで楽といえば楽なのです。僕は「楽しい」より「楽」を好むタイプのようです。あるいは楽しいことなら一人で作り出すのが比較的得意です。就活は一切していません。自分がこの先どうなるか皆目見当つきませんが、生きている限りはいずれのタイミングにおいても生活が存在するわけで、だったらその都度それで納得するしかないのかもしれません。

 

ちなみに今は何をしているかというと、紀勢本線に乗ってまさに三重と和歌山の県境を通過しました。スーパーの袋を抱えた人が目立つのは、この地域の買い物事情を露わにしているのでしょうか。業務用スーパーで爆買いし終えた国籍不詳の4人組は、このためだけに往復二時間以上も電車に揺られたのでしょうか。確かに生活が存在しています。車窓からの景色はすっかり暗くなりました。一日が終わりを迎え、今年も静かに幕を閉じようとしています。