東大入っても品性は養われなかったイキリオタクの懺悔

日々のツイートの希釈 頑張って生きまっしょい

Twitterがなければ

Twitterがなければ 

 

毎日5時間はTwitter

朝起きたらとりあえずTwitter

予定という強制力が働くまではずっとTwitter

寝る前もTwitter

その日に満足するまでTwitter

結局満たされることはないのがTwitter

 

電車に乗ってはTwitter

歩きながらでも風呂に入ってもTwitter

身体に余裕がある限りTwitter

余裕がない時にはむしろTwitter

 

精神に余裕があってもなくてもTwitterはできる

面白いことがあればTwitter

何かにムカついたらTwitter

誰かに話を聞いてもらいたくなってTwitter

タスクが溜まればTwitter

現実の時を進めたくなくてTwitter

 

Twitter、疎ましいもの。

 

ツイートをする

他人のツイートを読む

様々な記事や掲示板のリンクを飛ぶ

ただそれだけ

それだけでなんの意味もない

 

得た情報量は膨大だけれど

知ることができたのは

他人の才能、即ち自分の平凡さ

それと社会の程度の低さ、向き合おうとすれば精神を病む

絶対適合できねえわ

 

Twitterがなければ

僕には何ができただろう

僕は何をしていただろう

Twitterが生まれる前の人々は何をしていたのだろう

今やわからなくなってしまった、純粋な疑問

 

もっと本も読めるし

街を歩いたり何かを生み出したり

したい

愉快な人と会って愉快な話が

したい

 

毎日一日の短さを嘆く僕の悩みは

どこかへ行ってくれるのだろうか

 

それでもTwitterをやめない

やめられないとまらない

7年も続く習慣とは、もう縁を切れない

しかも生きるのに必須のツールという感

誰も彼もがやっている

セルフプロデュースの時代、生き抜くために

 

まあしかし、やめない理由は結局ただ一つ

人との繋がり

今の交友関係のほとんどがTwitter

それを絶ってしまえば僕には何も残らない

TLという巨大なカタリバがなければ

僕は口がきけなくなる

魂が消え失せる

 

でも納得いかない

こんなにも時間を奪われなくてはならんものかと

もっといい方法はないの?

 

心の声に瞬時にリアクションをしてくれ!!

 

これはもう、半分依存症なのではないか

だったらアルコールとかと同じで、自助グループを作ればいいんじゃないか

 

Twitterから抜け出したい人でグループを作ります

実際に会ってお話ししたり、時間がなければ通話でもLINEでもいい

他人の存在を認め合いましょう

協働して達成、承認の欲求を満たし合いましょう

これで解決

平和が訪れる

 

でしょうか?

 

 

ためしてガッテン

 

 

だけどめんどいから今日もTwitterしてまーす(CV:國母和宏)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文章を書くということ

さっきまで眠かったはずなのに、いざ目を閉じると全然眠れないってことは間々ある。別に大事な試合とか、デートが控えてる場合に限らずさ。現に今がそうで、だいたいいつも僕は寝る直前、適当に色んなソーシャルメディア行ったり来たりして、文字を読むのも厳しくなってきたらいよいよ音楽聴くぐらいしかできんくなって、何か言いたくなっても入力する気力体力が残ってないから悶々としてしまう。これ、結構つらいよ。書きたいのに。

 

文章書くって意外と体力使う作業なんだよ。適当にLINEしたり通話したりツイートするのとは違う。前の2つは僕はしたことないから想像だけど(笑) ともかく、ある程度まとまったことを書くのは一仕事って感じで、本来寝る前に気軽にできるようなことじゃないと思うんだ。だから日中やるべきなんだけど、誰からも強制されないし、まして何の金にもならない作業をわざわざするような気分にはならない。まあ趣味って全部そうじゃんって話なんだけど。それでもするのが趣味なんだけど。なら僕にとって文章書くって趣味の域には全然達してないなあ。でも、なんか書きたくなる時ってあるんだよなあ。そういう時のために開設したのがこのブログなんですけども、、

 

さて、文章書くことってなんなんでしょう。いや別に文章に限らなくてもいいな。てか、文章って言葉をすごく曖昧に使ってるからすっごく分かりづらいかもしれないな。だから日記でも短歌でも詩でも歌詞でも小説でも評論でも記事でも作文でもなんでもいいから、言葉を文字に起こすということ。特別な技能はいらない。文芸とか言い出すと難しくなっちゃうから、考えないでおこう。本来、誰でもできる作業。歌を歌うこともそう。しかもお金がかからない。道具はいりません。場所も選びません。だから最高。面倒くさがりな自分には最適。だから、書きたい!と思う時が来るんです。自分、めちゃくちゃ不器用だから、これぐらいしかできることがないんだよね。だから、できることならそういう関連で暮らしていけたらなぁ、、と思う。てか、そうするしかないのかなぁ?他のことそんなやりたくないし。強いて言えば喋ることぐらい。終末人間ですね。

 

タイトル詐欺っぽくてごめん。何も論じてないし、語ってないよね(笑) 今日はこういう気分でした!

「時間は平等」論という名の、弱音

「時間は平等」

「時間こそが、人類に与えられた唯一にして最大の平等である」

 

聞き飽きたこのフレーズに、皆さんは何を思うだろうか。

 

努力しない言い訳を一蹴する意図を持って、僕のような鼻垂れに向けて放たれることが多いと感じる。

 

確かに定義上の時間、すなわち1秒は「セシウム133の原子の基底状態の2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の周期の91億9263万1770倍の継続時間である」と国際的に定義されており、これは解釈の余地を挟まない、紛れもない事実であると言える。

 

しかし、時の流れというものの感じ方は人様々であろう。「人は年を取れば取るほど、1年が経つのを短く感じる」というジャネーの法則によれば、20歳までの体感時間は20〜80歳のそれと同等であるらしい。全く恐ろしい話だ。(まあ、永遠に生きればいいのだ!)

 

このように一人の人間の体感時間は、一生の各段階において異なってくる。僕ら若者が実感するにはまだ早い気がするが、自分より上の世代が嘆くのをよく耳にする。

 

ただ、このことは僕にとって大した問題ではない。皆そう感じるならそれでいい、と思うからだ。それにあくまで推測ではあるけれど、年を取るにつれて「初めて」の体験がどんどん減っていくことで、主観的な時間の速さが上がっていくのだと思う。マンネリ化を避けるため、常に新しい刺激を求めて生きていけば、時間なんてのび太ぐらいのろまに感じられるかもしれない。もっとも、僕らがいくら拒もうとも、社会は目まぐるしいスピードで変化を続けていくだろう。

 

 

だが、他者と比べての時間の質という話になってくると、考えは一変する。

 

第一に、個人の経済面など生活環境からして、生活の利便性、質というものは当然異なる。時間というものはそのものに価値があるのではなく、どう過ごしたかで事後的に価値が決まるのだから、生活の基盤が異なる以上、実質的に時間が平等なんてことは絶対にない。この側面に関しては、自分自身恵まれている方だという自覚があるため、深く言及することは避ける。

 

もう一つ。同じ一日にしても、有意義に過ごす人、無為に終える人、というのが確かに存在する。多くの日において僕が後者に甘んじていることは、このブログの愛読者にはお見通しであろうか。

 

この事実が僕に焦燥感だけを与える。自分が漫然と生きた間に、ある人は確かな進歩を遂げているのだと思うと、死にたくなる。僕は不平等が嫌いだ、というより、自分が損する側に回ることが嫌いなだけだ。だから、自分が他人より密度の薄い時間を過ごしてしまうと、無性に腹が立ち、焦り、だけでは何も解決するはずなくて、死にたくなる。もっともここで想定する他人なんてのは、自分のポテンシャルを100パーセント発揮できた時の自分、だったりするのかもしれない。わかりやすい例だと試験前、今日は何時間も寝てしまったとアピールしてしまうのは虚しい自己防衛に過ぎないが、実際めちゃくちゃ死にたくなっている。

 

何かに悩んでいる時、悩みの対象に辛いと感じているというよりは、悩むことで時間が奪われていることが勿体なさすぎて死にたい。だったら悩まなければいいのだが、弱い人間なので悩むし、悩むことが人生を色合い豊かなものにしてくれると、無理やりポジティブに捉えようともしてみているけど、やはり時間は有意義に過ごしたいものである。実際悩むのは時間の無駄だと思って気を紛らわせるため、他のことに精を出せる人がいるけど、尊敬の念を抱くほかない。

 

そして、無為のスパイラルに陥るわけだ。一回時間を無駄にしてしまえば、そのことについてひたすら後悔し、死にたいと心の声を漏らす。そうしている間にまた時間は過ぎていき、これを永遠に繰り返す……。全く恐ろしい。

 

ようやく、自分が高頻度で死にたいと思ってしまうメカニズムが解明できた。死にたいなんて気持ちは皆無ということだ。ただ自分への期待が高すぎるだけだ。

 

自分なりに有意義と思えるように過ごすだけの権利は、平等に与えられているはずだ。そういう意味合いをこめ、成功者は冒頭の言葉をもって、僕たち未来の成功者を激励してくれるのだろう。

 

最後に。

この文章に共感してくれる人がいれば、二月の初日を寝て過ごした自分を肯定してくれるだろうという僕の期待を、読み取っていただけただろうか。

 

 

 

 

虚しさを睡眠だけで乗り越える

今日という日、全てが虚しい。

 

朝、決まった時間に起きる。

スケジュールに支配された自分が、虚しい。

 

髪型を整えようと、鏡を見る。

見た目を気にしている自分が、虚しい。

最低限の身なりぐらいは、と世間の圧力に屈する自分が、虚しい。

気になるあの子に会いに行くでもない。もっとも、外面だけで気を引きにかかる虚しさは、とうの昔に知っている。

 

電車に乗り、今日が日曜であることに気付く。平日と休日のメリハリがなくなった、漫然とした生活を反省する瞬間だ。

それでも、休日出勤という響きは虚しい。

 

池袋で人がたくさん降り、代わって乗客がある。車両に空間は存在しない。

その無関心をわかっていながら、控えめに空いた席を探そうとする自分の小ささが、虚しい。

 

渋谷で降りる。ホームに、ヒカリエの方向を案内する人がいる。今日に限って、なぜこんなものが。

ただ案内板を持って突っ立っている時間に、あの人は何を見出すのだろうと考え、虚しさしか浮かんでこない。

 

昨日までのルートを辿ったら、途中で封鎖されていた。それならそうと言ってくれ、と苛立ちながら遅刻回避のために足を早める。

集合時間ギリギリに急ぐ時は、いつだって虚しい。家を出る前、短縮できたはずの時間が必ず存在するからだ。己の愚かさを呪うだけでは改善されない。

 

バイト先の古びたビルに到着。ここには自動販売機すら無い。気の無い挨拶から仕事が始まる。

唯一の楽しみである飴が切れていて、ガックリきた。

 

ひたすら模試の採点が始まる。家で採点を経験した時、自分に適性があると思ったから応募したのだが、歩合制でないから意欲は上がらないし、音楽も聴けない。

せめてラジオぐらい流してはどうかとも上司に提言できない自分は、変わらないものに対して批判を加える資格などなく、虚しい存在だと自覚する。

 

時たま現れる、やる気のない答案。彼もまた虚しさを知った人なのだろうか。受験に意味を見出せずも、親や教師や友人に唆され、重い足を運んだのだろうか。

当時の心境を思い出し、変わらない性質にまた虚しくなる。

 

昼食休憩、食費を時給で割って虚しくなる。稼いだそばから消えていくマネー。ただ生き長らえるために食べ、食べるためにバイトをする。

進まねえ俺の人生。虚しいに決まってる。

 

いつもの癖でスマホに手を伸ばす。また今日も思い込みが激しいだけのクソみたいなツイートが、たくさんの同意を集めている。

こんな薄っぺらい人の集う社会で暮らしていることに、虚しくなる。

一方自分のツイートは、他人の指の下を泳いでいくだけ。無関心が身に沁み、虚しくなる。

 

もう考えることにも飽きてしまい、恋愛だ承認だが虚しいだけだと結論付け、思考を止めて奴隷労働に従事し続ける。

マニュアル通りに動く身体に、俺が入り込む隙間はない。

 

イムリミットが迫り、一体となって終わらせにかかる謎の空気に、疑問を抱く。こんなものを終わらせたところで、達成感など味わえないだろう?

あくまでお金のため、俺は残業など真っ平と、空気を読まずに帰った。

 

本も読まない。鞄に忍ばせる文庫本のページが、全然進まない。いつも疲れ切っていて、本を読む気にもなれない。

自分の期待が、いつも自分によって裏切られる。

 

虚しさで溢れていた。虚しさで溢れるとは、とんだ皮肉だ。

虚無とは何もない状態ではないのか。

実体はなかろうと、そこには重さが存在している。のしかかってあらゆる行動を塞ぐのだが、考えることだけは寧ろ促進されてしまう。

 

虚しさを積極的に受け止めることで、そこから脱出できるかもしれないという期待がそうさせているんだと気付き、自家撞着に包まれて帰宅。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日も一日、何もなかった。

 

 

 

 

虚しさにサヨナラを告げるべく、おやすみなさい。

 

 

寝てる間は死んでるのと同じことなんて言ったものだが、虚しさをリセットしてくれる素晴らしい効能があるのだ。

ふと、、

なんとなく、自分のブログを読み返していた。今年に入って更新していなかったがアクセス数は堅調で、何が読まれているのか気になっていたところでもあった。

思っていたより面白かった。これはもちろん、この自分が過去に書いたものだという事実に裏打ちされているだけで、記事自体がどうこうの話じゃない。(記事ごとに文体がブレてるのはちょっとウケた。個人的なイチオシは「恐怖のグルディス」だったり。難解ですけどね。)

事件性の極めて少ない日々の記録ではあるが、当事者の自分にとってはこれっきりだから、愛してやらねばならないのだ。どうも僕は、自分の手で生活を変えていこう、という気概よりかは、やってきた出来事を自分なりにどう受け止め、表現していくかを生きがいにしている節がある。

もっとも今年は、さすがに燻っているのも飽き飽きしたので、飛躍するチャンスを窺おうとはしております。誰か私を見出してくださいって言うてま〜す。M-1出るなりラジオやるなり同人誌作るなり、何でも来なさい。

それは冗談にしろ、殻を破るためにはこんな閉鎖的なブログに閉じこもって更新していても仕方ないのかな、なんて思った夜もあって運営方針が曖昧になったりもしたけど、見返すとやっぱり面白かったので、将来の楽しみを増やすためにぼちぼち更新したい。将来の可能性が減っていかない程度にね。

書けることは書き留めているので、時間があればドバドバ放出していける態勢ではあるので。クオリティはともかくね。実際は書きたい衝動に駆られた時すぐにそれをぶつけないと、後からメモを見返してもあまり気が乗らないことが予想されるけど。

 

話を戻すと、自分が作ったものは意思や意図や企てがハッキリ分かるから、当然楽しめるのだが、他人のものになるとどうだろう。完全に味わうのが不可能なのは承知で、無意識に面白いものとつまらないものに区分けしていると思う。

知っている人が作ったものであればそれだけで興味が生まれるし、ブログであればこいつこんな事してんのか、とかあんなヤバい事考えてんのか、てな具合に楽しめる。Twitterにしてもそうだ。ツイートの主体を知っているという情報に依存している面が大きすぎる。

中身だけを切り取ってよくよく見てみると、どうでもいいことばかり書いてある。そのくせ大量のいいねをもらう人がいるかと思えば、僕みたいに歯牙にもかけられない哀れな野郎もいる。

一部の実力者は不特定多数の人間から支持を集めることができる。発信者のキャラがわかりやすく打ち出され、一貫したテイストの万人に理解される高質な投稿をしていけばそうなるのも頷ける。

自分にはその実力がないため、彼らに嫉妬し歯痒い思いをすることしかできないが、Twitterより更新するのに気力がいるブログについては、どう向き合えばいいのだろう。

出来ることならば現実の僕を知らない人にも定期読者になってもらいたい。そのために必要なのは戦略と実力だと思うが、ここを主戦場とするのも味気ないから戦略に頭を使いたくないのが本音だ。ただ、こういう地道なところから攻略していくのも必要か。

ゆくゆくはこのブログの読者とオフ会とかできたら面白いかななんて思ってるんで、どうぞ広めてください。

結局はこれからも、好きなことを書くと思います。

 

時間をくれ!

あと読者登録してくれ!

 

最初に何を思って書こうとしたのか忘れてしまったが、政治と同じことなんでしょう、多分。以上、布団からお送りしました。

一年去ってまた一年

年末には密かな楽しみがある。

下放送中の「プロ野球戦力外通告」ではない。僕の大好きな番組の一つではあるが、今回は新幹線で帰省中のため、録画してもらっている。

 

密かな楽しみは現在進行中だ。

それはFacebookを眺めること。年末特有の一年振り返り投稿が、タイムラインを埋め尽くしている。

その一つ一つを丹念に読んでいくと、自分の不甲斐なさにいたたまれなくなってくるが、そういうゲームだと思って自分の肥やしにしようとする。

一年という単位で過去を振り返ること自体困難に思われるが、人々は総じて色々な経験ができたと、いい具合に思い出を束ねて心のファイルにしまっている。

 

僕も例に漏れない。Facebookでは自分を必要以上に格好良く見せ、Twitterでは醜い部分すら愛されたがってしまう僕のこと。

しかし、出てくる言葉は毎年似たり寄ったり。強い後悔をグッと飲み込むかのように年越しそばを啜る。意識がMAXなのは投稿ボタンを押すその瞬間。人は簡単に変わらないのである。

 

今年は特に気が早くて、12月の半分も終わらないぐらいから、一年を振り返っていた。ちょうどペタンクの一人練習をしている時なんかに。

一月、二月、三月……。一月ずつ振り返っていくと、毎月のタイトルを付けられそうだ。とても総括なんてできない。やはり、大学に入ってからの一年はそれまでと比べるととてつもなく濃い。

 

経験という言葉で括ると、春休みにイタリアでホームステイしたり、五月祭模擬店企画で2位に選ばれたり、ギターを始めるも続かなかったり、北海道を一人で700km運転し続けたり、駒場祭でステージに立ったり、ブログのネタ作りに合コンに参加するもそれっきりだったり、と色々あったようななかったような気がしてくる。

もっと真面目に考えたこともあったし、人付き合いをちょっと頑張ってみたりもした。感情というものを学ばせてもらった。いわば人並みの大学生活を堪能した感じだ。

 

なんだけど。

 

確かに色々なことがあったよね。身長も数mm伸びたかもしれない。いや、その成長じゃないって?ともかく、一年前の君と今の君じゃ比較のしようもないけど、どこかしらは変わったんじゃない。

 

じゃあ、何が出来るようになった?

 

突然天の声が聞こえてきて、しばらくして僕は愕然とした。

何が出来るようになったかだって? そういえば、考えてみたこともなかったな。何だろう……車の運転は出来るようになったよな。免許取得して実際に公道も走ったし、間違いない!あとは、、思いつかない!?てか、運転ももう忘れちゃったかも……。

 

今まで目を背けていた現実に向き合わされた瞬間だった。僕は何も出来るようになっていない。一年を無駄にしたとさえ思えた。

 

来年は、何でもいいから何か出来るようになりたい。「経験」という甘ったるい言葉を突き抜けてくる何かを求めて邁進したい。

 

 

 

 

 

 

 

 

決意表明

ぶらんこ 

子供の頃よく遊んだ公園のぶらんこ

父親に押してもらったぶらんこ

妹と二人で乗ったぶらんこ

立ち漕ぎで足を滑らせたぶらんこ

靴飛ばしの発射台にしたぶらんこ

 

 

風雨にさらされ錆びついたぶらんこ

大人になって久しぶりに乗ってみる

夜風が冷たいある日のこと

絶望的な気持ちを晴らすため

昔乗ったぶらんこと言うべきか

すっかり身体に染み付いた動きで

労せず上昇していった

人生とは違って

たやすく上り続ける

童心を思い出した私は嬉しくなり

歌を歌いながら漕ぎ続けた

 

 

自分の背丈を超えたところで

恐怖という感情を知る

それはジェットコースターのようなスリルと

立ち止まれない怖さ

現在地に留まれない怖さ

ぶらんこは漕ぎ続ける限り上昇をやめない

けれど漕ぐ足を緩めてしまえば

下っていく一方

まるで人生ではないかと

胸がざわつく

 

 

安定など幻想

ちょうどいい高さでヘラヘラ笑っていたいのに

休む間も無く選択を迫られる

上がれば上がるほど

手を滑らせないかという緊張感

生きづらくなるだけで

ゴールなんてあるわけじゃない

 

 

悟った私は戸惑った

もはやぶらんこに乗ってる意味なんてない

早い段階で飛び降りようと思った

その時渚さんが耳元で囁いた

 

 

「振り切ってしまえ」

 

 

私には真意がわからなかった

わからないなりに、振り切れるほどに漕ぎ続ける決意をした

いつの日かどこか遠くへ

呪縛から解放されるまでは

憂鬱な気持ちは姿を変え

あの頃父親が押してくれたような、推進力になった

 

 

「決意表明」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

P.S. しばらくして、公園のぶらんこは撤去されたらしい